第十三話『そして第三層へ』
夜の森の中も虫や鳥達の鳴き声が聞こえ始め、賑やかになってきていた。
水辺の近くでは蛍が飛び交い、森の中ではフクロウの鳴き声が遠くから聞こえてくる。
クルト達は森の二層と三層の変わり目のあたりにいた。まだラルフが仲間になってから数時間しかたっていない。
ラルフが仲間になった日の夜、クルト達はこの場所で焚火を焚いて、夕飯の準備をしていた。
本来なら、この場所はとっくに通り過ぎて、今頃は三層の中で焚火をしているはずだった。しかし、ラルフの襲撃から逃げるために、だいぶ二層の中へ移動してしまったため、まだ三層には入れていなかった。
「……よし。クルトさん、夕飯の支度が出来上がりましたよ」
珠が味見をして、そうクルトに声をかける。するとクルトとフィルがやってきて、鍋の傍に座った。
「ありがとう珠。フィルも食べるよね?」
「少しでいいわ」
クルトがフィルのことを見ながらそう言うと、フィルは苦い顔をしてそう答えた。フィルは相変わらず、固形物を食べるというのはまだ慣れないらしかった。
あたりには、クルトとフィルと珠の三者しか居ない。昨日までならそれで全員だが、今日からはラルフが仲間に加わっている。しかし、そのラルフの姿が何処にも見えなかった。
すると、近くの茂みが音をたてて揺れた。クルト達がそちらに視線を向けると、ラルフが森の中から出てくるところだった。
「ああ、ラル……フ……」
クルトはラルフの姿を見て言葉を失った。いや、正確にはラルフが引きずってきたものを見て言葉を失った。
ラルフの顔は真っ赤な血で染まっており、口には大きな鹿を咥えていた。当然その鹿は死んでいる。
ラルフは狩りをしに出掛けたのだ。クルトが今日はこの辺で野宿をしようと言った時に、一匹だけ森の中に入って行ったが、ようやく獲物を捕まえてきたらしい。
「……なんだ? そんなにじっと見て。これが食いたいのか? それならその焚火で焼けば、お前にも食えるようになるだろう」
ラルフは顔面を蒼白にしてこちらを見るクルトが、この鹿を食べたがっているように見えたらしい。だが実際は、クルトはショックを受けているのだ。
すでに調理しやすいように切り分けられている肉なら何ともない。しかしこんなに完全な形で、しかも大量な血を流している動物の死体を見るのは、クルトにとってはかなりつらい。
「……ラルフ。別にあんたが何食べようが知ったことじゃないけど、そんな物を近くで食べられたんじゃ臭いのよ。どこか別の場所で食べてくれない?」
フィルはラルフのことを少し睨みながらそう言った。
「何を食おうと勝手なら、何処で食おうが俺の勝手だろう? お前は元々食べなくとも平気なのだから、俺が食事をしている間、席を外したらどうなんだ?」
ラルフはそう言って鹿を食べ始める。
(フィルさん……きっとクルトさんがつらいのだということを感じて……)
珠はフィルが気を使ったのだと解釈して感心した。しかし……。
「……ああもうッ! 生臭いわね! クルト。私はそこの犬が食事を終るまで森の中を散歩してるわ」
フィルはラルフに一瞥をくれてから、森の中へ消えていった。
(……考えすぎでしたか)
珠は去っていくフィルの後姿を眺めながら、心の中でそう呟いた。
「おい、狐」
ラルフが珠を見ながらそう言った。珠が妖狐であることは、すでにばらしている。
「き、狐って言わないでください……」
「お前は元々俺と同じで肉食の動物だろう。肉を食べないのか? なんなら分けてやってもいいぞ」
ラルフは鹿を食べながらそう言ってくる。
「い、いえ、私は結構です」
ラルフの申し出を珠が断る。クルトが肉を食べないと知った今では、とてもクルトの前で肉を食べる気にならない。
クルトはそんな珠の様子を見て、自分に遠慮しているのではと心配した。
「珠……別に無理しなくても……」
「無理をしているわけではありません。妖狐は普通の狐とは違いますから、肉を食べなくても平気なんです!」
実際、肉を食べなくては生きていけないということはない。普通の狐でも、食べるものが無ければ雑食化する。
「そもそも狐が食べるのは小動物の肉です。だからラルフさんが食べている肉は食べません!」
そう言って珠が胸を張る。
「……そう言えば、狐は肉のほかにも虫を食べるんだったな」
「む、虫を食べるとか言わないでください!」
(……食べますけど)
珠は心の中でそう呟いた。しかし、そんなことをクルトに知られたくはない。
「ではクルトはどうだ? 焼けばお前も食いやすくなるだろう?」
「いや……僕は……」
クルトは肉を食べられないことと、動物を殺したくないということを話した。
「……なるほど、俺を殺そうとしなかったのもそれが理由か」
ラルフは鹿をあらかた食べ終わり、舌で口の周りについた血を舐める。
「だが動物を殺したくないというなら、俺を殺した方が良かったのではないか? 俺の腹は肉しか受け付けん。俺が生きるということは、動物が食われて死ぬということになるぞ?」
「ラルフが肉を食べるのは食物連鎖だもん。止められないよ。草食動物が増え過ぎれば自然が無くなる。そうすれば結局動物は餓死して死ぬんだ。だからラルフが動物を殺すのは仕方ない……」
エリザベートもクルトが動物好きだからと言って、肉を食べるのを控えたりはしなかった。それでいい。変に気を使われるよりは気が楽だ。しかし、動物が死ぬのはやはりつらい……。
「難儀な奴だな……」
「ホントそうよね」
森の中からひょっこりとフィルが現れた。フィルはまっすぐにクルトの肩に飛んでいき、腰を下ろすと足を組んで座った。
「食べ物の話はこれでおしまい。そろそろ明日からの話をしましょうか」
フィルはそう言ってくすりと笑う。明日はいよいよ三層に入るのだ。ある程度の知識は知っておいた方が良い。
「お婆ちゃんは魔物や悪魔がたくさん居る場所だって言ってたけど、具体的に三層ってどんな場所なの?」
クルトもある程度のことはエリザベートに聞いている。魔力が満ちていて、それにつられて悪魔や魔物が集まってくる場所なのだという。
「一言で言うなら……蠱毒のような場所です」
「こどく? 何それ?」
「呪いの一種よ。簡単に説明すると、たくさんの毒虫を壺の中に入れて殺し合わせる。そして最後まで残った虫を使って、毒を作ったり呪いをかけたりする呪術ことよ」
珠が言った言葉を、フィルが補足する。
「三層はその蠱毒の拡大版……悪魔魔物版と言ったような場所です。三層には特有の魔力が常に満ちています。悪魔や魔物がそれにつられてどんどん集まってくるんです」
「仲間意識が全くない奴らだからねー。出会い頭に殺し合いを始めるわ。強い者も弱い者も関係なく、酒に酔ったみたいに殺し合い続ける。三層には年中何かが戦いあってる音が響いているそうよ」
フィルはどこか呆れたようにそう言った。
「そんな場所だから、悪魔や魔物以外の生き物はほとんど近寄りません。食べ物もたくさんある訳ではないですし、何より危険なので近づく理由が無いんです。私も実際に行ったことは一度もありません」
「……俺は行ったことがある」
ラルフがそう呟いた。
「強くなるならずっと戦い続けてるのが一番いい。その点については、これ以上ないくらい条件に合う場所だったからな」
ラルフはそう言って空を仰いだ。
「……だがあの場所はダメだ。あそこで戦っているうちに理性が失われて行く。ただ戦い、相手を殺すことだけが頭を支配するようになり、自分を見失って行く。その結果手に入るのは強さではなく、凶暴な闘争本能だけだ」
「だから蠱毒の様な場所なんです。一定の空間に毒を持った者が無理やり詰め込まれ、本能のまま殺し合い続ける。そして実際の蠱毒と違うのは、無限に毒虫が増え続けるという点」
ゆえに三層では戦いが終わることはない。無限の餌があり、無限に毒虫が集まってきて、無限の殺し合いが行われている場所……それが祈りの森の第三層。
クルトはごくりと唾を飲み込み、口を開いた。
「それじゃあ、一番進むのは難しいんだよね?」
「危険ではある。だが案外すんなり通れるかもしれない」
クルトの問いかけにラルフが答える。
「妖精も言っていたが、悪魔や魔物に仲間意識はほとんどない。だから、お互いに殺し合うのに忙しくて他の生き物に構ってる暇が無いのさ。うまく同志討ちをさせれば楽に進める。それに、三層は森の中で一番浅い」
そう、三層は祈りの森の中で最も狭い場所だ。
森の中で最も面積が広いのは一層だ。しかし、それは森の形が円形で、外側に行くにつれて横幅が広くなるからだ。実は縦幅は二層の方が長い。普通の人間が入ってきても大丈夫な深さの所までを一層と呼んでいるからだ。
そして、三層は横幅も縦幅も森の中で最も狭い場所だ。なぜなら、三層特有の魔力が満ちている場所のことを三層と呼ぶからだ。
三層の魔力が満ちている場所はそんなに広くない。二層と三層の境目の長さから計算すると、三層は一層目の縦幅の長さすらないと思われる。だから直進で進めば、三層は森の中で一番早く抜けられる場所だということになる。
それに加えて、今は狼であるラルフの足の速さがある。だから、ラルフは後三日で宝石までたどり着くことができると言ったのだ。
「あと二日……」
クルトは期待に胸を膨らませながら、夜空に輝く星を見上げた。
* * *
「……今のところは順調だな」
ラルフがそう呟いて立ち止る。
クルト達は、夜が開けると同時に出発した。二層と三層の境目はとっくに超えて、今は三層の真っただ中だ。
出発してから数時間。あちこちで悪魔や魔物の気配はするものの、なぜか襲ってくる気配はない。こちらには気付いていないのかもしれない。
「……気配はすれど姿は見えず。こういうのが一番気持ち悪いわ」
フィルがそう不満そうに呟く。
珠はそんなフィルをみて「たくましいな」と思って笑う。自分は三層に入ってから、緊張しっぱなしだというのに……。
「クルトさんは大丈夫ですか?」
珠は後ろを振り返って、クルトに声をかける。
「………」
クルトは俯いて返事をしない。珠以上に緊張しているのだろうか?
「クルトさん?」
「え、ああごめん。なんだか寒いねここ……」
クルトはそう言って自分の体を摩る。
「寒い? いえ、そんなはず……あ」
もしや……、と珠は考え込んだ。
今は夏と言って差し支えない季節……。三層とは言え、気温の高さは二層や一層と変わらない。それにもかかわらず寒いというなら……。
(魔力に影響を受けているんだ……)
珠やフィル、ラルフは魔力に対して耐性がある。自分自身も魔力や妖気を持っているからだ。しかしクルトには……普通の人間にはそれが無い。
エリザベートは魔女だから、三層の魔力を浴びても問題なかったが、魔力に対して耐性の無い人間が、大量の魔力を浴びれば身体に影響を及ぼす。
「珠……」
フィルが珠に近づいて耳打ちをする。どうやらフィルとラルフも、クルトの体の異変に気付いたらしい。
「私は無理をしてでも進んだ方が良いと思う」
「………」
クルトの体のことを思うなら、これ以上進むのは危険だ。しかし、クルトの目的は森の中心にある宝石だ。それを求める以上、どうしても先に進まなくてはならない。ならば、このままラルフに乗って一気に三層を駆け抜けた方が良い。幸い、今のクルトの様子を見る限り対して大きな影響は受けてはいないようだ。
「……分かりました。先に進みましょう」
「ここから先はさらに危険になる。あんたいつだったか言ってたわよね。トカゲのしっぽになっても構わないって……」
確かに言った。そしてその気持ちは今でも変わっていない。何より優先すべきはクルトの命だ。それを守るためになら……。
「気持ちは変わっていません。トカゲのしっぽになる必要があるなら、私は迷わずそうするでしょう」
「そう……それじゃ、いざとなったら私を見捨てることもできるわね」
珠は少し驚いてフィルの顔を見る。フィルらしくない言葉だと思ったからだ。
「できるわね?」
フィルは二度珠に迫る。
珠はフィルの顔にふざけた笑いが浮かんでいることを期待した。しかし、フィルの表情はいつになく真剣なものだった。それだけ、フィルも覚悟をしているのだ……。
「……できます」
「よろしい」
フィルは珠から答えを聞いて、ようやくいつもの表情に戻る。
「何の話をしているの?」
後ろからクルトが声をかけてくる。
「別に。女の子同士の内緒話よ」
フィルはそう言って誤魔化した。クルトに正直に言えば、大騒ぎをするに決まっているからだ。
「心配するな。運が良ければこのまま何もなく進めるかもしれん」
ラルフがそう言った。フィルと珠の会話が聞こえていたらしい。
「そう願うわ……。さて、とりあえず第一弾よ」
何の? と、クルトが聞こうとしたが、それを聞く必要はなかった。目の前から悪魔が飛び出してきたからだ。
「悪魔か……みんな、行くよッ!」
クルトのその掛け声と共に、三層での戦いが幕をあげた。
* * *
「クルトさん……大丈夫ですか?」
珠が心配そうにそう声をかける。三層に入ったからさらに数時間が立っていた。最初の戦闘があってから、それまでの静けさが嘘の様に悪魔や魔物が襲いかかってきていた。皆体に怪我を負って、体力も減ってきていた。
「はぁ……はぁ……」
その中でも一番疲れているのがクルトだった。
クルトはいつも中心になって戦い、一番攻撃を受けているのもクルトだ。
他のメンバーも、出来るだけクルトを庇おうとするのだが、戦闘に集中するとそうもいかない。
しかし、一番中心になって戦っていると言っても、この疲れ具合は少し異常だった。息を切らし、視線が泳いで、言葉数もめっきり減った。珠の呼び掛けに対しても反応することすら難しいらしい。
……魔力の影響が高まってきているのだ。三層を進むにつれて……宝石に向かうにつれてどんどん魔力が濃くなっていく。それに合わせてクルトの体調が悪くなってきいる。
「クルトさん……」
珠が心配そうに、クルトの体から出る汗を布でぬぐう。そんな様子をフィルとラルフは険しい表情で見ていた。
「……限界だな。一度引き返した方が良いかもしれん」
「………」
ラルフの言葉に、フィルは完全に同意することはできない。
確かにクルトのことを思うなら引き返すべきだ。しかし、引き返してどうするのだという気持ちもある。クルトの目的は宝石を手に入れることなのだから。
一度引き返せばクルトの体調は元に戻るかもしれない。しかし、宝石を求めるならどの道また来なくてはならない。そうすれば同じ事だ。
クルトを除いたメンバーで宝石を手に入れ、クルトに渡すという方法もある……。しかし、ここまでたどり着くのだって、クルトの力はかなり大きかった。
クルトを除いたメンバーだけで宝石のある場所までたどり着けるか?
クルトを二層のど真ん中に一人置き去りにして大丈夫か?
引き返して体勢を立て直すにしても、魔力に対する耐性を付ける方法なんてあるのか?
それらを考えれば、無理をしてでも進んだ方が……。
「それにしても妙だな……」
ラルフが厳しい顔をして森の中を見る。
「? 何が妙なのよ?」
「悪魔達だ。こんなに途切れなく遭遇するのはおかしい」
「そう? 三層は悪魔や魔物の巣窟なんでしょ? 悪魔や魔物にあうのは当然でしょ?」
「だが三層の隅々まで悪魔や魔物が居る訳ではない。奴らにもある程度縄張りがあるし、四六時中殺し合っているから個体数はそんなに多くないはずだ。それなのにこの遭遇率は高すぎる。それに、さっき三匹で襲ってきた奴らが居ただろう?」
ついさっき、悪魔が三匹同時に襲いかかってきた。しかも、三匹の悪魔が連携を取りながら攻撃してきたのだ。この一度きりなら偶然と切り捨てることもできるが、その前にも複数で襲いかかられたことがあった。
「奴らに仲間意識は皆無。ならばなぜ複数で襲いかかってくるなんてことがある?」
「うーん……」
ラルフの言葉にフィルが考え込む。フィル自身は三層に入ったことが無いからこんなものなのだろうと思っていたが、実際に入ったことがあるラルフがおかしいと言っている。ならばこの状況は異常なのか?
「三層に変化が起きているのだ。考えにくいことだが、統率者が現れたような……」
「ほう、でかい体をしているだけあって、頭が良いと見えるな。お前の推測は正しいぞ」
自分たち以外の声を聞き、フィルとラルフはすぐさま身構える。珠もクルトを庇うようにして刀を出し、声がした方を睨んだ。
「さすが、ここまで来ただけあって対応が早い。それでこそ殺しがいがあるというものだ」
声の主はそう言って薄く笑った。
声の主は人間の男の形をしていた。しかし人間ではないだろう。恐らく別の存在に擬態して襲いかかるタイプの悪魔だ。
「……息がるなよ悪魔め。お前からは大した魔力を感じない」
人間の形をした悪魔からは、下級悪魔程度の気配しかしなかった。だからこそ、こんなに近づくまで誰も気づかなかったのだ。
「お前など、俺だけで十分倒すことができる!」
悪魔が弱いと踏んだラルフが先制攻撃を仕掛けた。
一気に悪魔との間合いを詰め、悪魔の体を食いちぎろうと口を開く。
(もらったッ!)
悪魔は避けようともしなかった。ラルフの速さに反応できなかったのか、それとも身体がすくんで動かなかったのか分からないが、不自然なくらい棒立ちだった。
だが、ラルフの牙は悪魔の体に食い込むことはなかった。
「な……に?」
「駄目だな。この程度では私を殺すことなどできんよ」
悪魔は細い腕でラルフの体を受け止めた。ラルフの口は、上の牙としたの牙を掴まれただけで、完全に静止してしまっていた。
「少し痛いぞ」
悪魔はそのまま巨大なラルフの体を空中に投げだし、地面に落ちてきたところを殴り飛ばした。
「ぐわぁああ!」
ラルフの体は数十メートルも吹き飛び。森の中に落ちていった。
「ラルフッ! クソ!」
フィルは緊張した目をして悪魔を睨む。対して悪魔は相変わらず落ち着き払っていた。
「すまない。油断させるつもりはなかったんだ。ただ、皮をはぐのを忘れていてな」
悪魔はそう言って顔に手を当てて爪を突き立てた。そしてゆっくりと手を舌に下げていくと、皮が引きちぎれるような嫌な音と共に、悪魔の肌が見え始めた。
「人間の皮を着ているのは趣味でもあるが、自分の魔力を隠すためでもある。悪魔どもは怠け者でな、私が見張っていないとすぐにさぼるのだ」
顔をの皮を剥いだだけで、それまで全く感じることの無かった邪悪な魔力が、悪魔の体からあふれ始めた。
「こいつ……強い……」
フィルが鞭を取り出しながらそう呟いた。
「力量差を理解できるのは素晴らしいことだ。無駄な抵抗をせず、楽に殺される方法を考えることができるからな……ははははッ!」
悪魔がそう言って高笑いを浮かべると、一気に悪魔の体を覆っていた人間の皮がはがれおち、その悪魔の姿があらわになった。そしてそれと同時に、凄まじい魔力の風が悪魔から発生した。
「自己紹介が遅れた。私の名前はケーニッヒ。三層を支配した悪魔……いわば三層の王となった存在だ」
「王……ですって?」
悪魔の……ケーニッヒの言葉に珠が怪訝そうな顔をする。悪魔は群れることを、支配されることを嫌うはず。それなのに悪魔の王なんて存在が成立するのか?
「意外そうだな。だが三層は変わった。私は誰にも負けない圧倒的な力を身につけ、他の悪魔や魔物を 自分の支配下に置いた。三層は一つの王国に生まれ変わったのだよ。そして、お前達はそんな王国に迷い込んだ侵入者だ!」
「ドブネズミみたい穢らわしい存在のくせに、王様とか粋がってるじゃないわよ」
フィルが見下すようにそう言って鞭を振るう。ケーニッヒはそれを素手で弾き飛ばした。
「悪魔がドブネズミなら、妖精は羽虫だな。あまりに弱く、うっとうしい」
「……ふん」
フィルは悪魔の煽りを気にせずに鞭を振るい続ける。どれもが岩をも砕くほどの威力がある攻撃。しかし、ケーニッヒはそのすべてを何でもないかのように素手で受け流してしまう。
「あまりに脆弱。そして憐れだ……」
「あんたはその憐れな存在に負けるのよ」
フィルがそう言って指を鳴らす。すると、ケーニッヒの後ろの茂みの中から大量の蔓が現れて、ケーニッヒの体を縛りつける。
「罠を張ったつもりか? そんな物で私は拘束できないぞ」
ケーニッヒは軽々と蔓を引きちぎってしまう。この程度では、動きを止めることもできない。しかし、フィルの表情はそれを見て曇ったりはしない。
「バーカ、本命はそれのさらに後ろよ」
「何?」
ケーニッヒが後ろを振り向こうとすると、いつの間にか後ろに回り込んでいた珠がケーニッヒの腹を、刀で突き刺した。
「かかりましたね。いくら力の強い悪魔でも、心臓を切りあげられればただでは済まないッ!」
珠は、ケーニッヒの腹に突き刺した刀の棟の部分を自分の肩に乗せて、そのまま心臓の部分まで一気に切り上げた。
「あはははッ! ざまぁ見なさい! それで他の内臓ごと心臓はグチャグチャなったわ!」
フィルは勝利を確信して笑った。しかし……。
「それで私に勝ったつもりか?」
ケーニッヒは身体を切り裂かれたまま後ろを振り返り、珠に対してにやりと笑いかけると、珠の頭を掴んで持ち上げた。
珠の刀が地面に落ちて木の枝に戻ると、ケーニッヒの切り裂かれた部分が再生を始める。
「痛ッ! そ、そんな馬鹿な、確かに心臓の場所まで切り裂いたのに……」
「この程度で負けるようなら、悪魔の王など名乗らぬわッ!」
ケーニッヒはそう叫んで珠のことをフィルに向かって投げつけた。
「う、うわッ!」
フィルは珠の体を避けそこなって一緒に地面に叩きつけられてしまう。すぐさま起き上がってケーニッヒと対峙するが、状況はあまりに絶望的だった。
「これで終わりか? ならそろそろ死んでもらおう。王直々に殺される栄誉に感激するがいい」
ケーニッヒはそう言ってフィルと珠に向かって右腕をかざす。その右腕に魔力が集まって行き……。
「そうはさせん!」
「なにッ!?」
森の中からラルフが現れ、ケーニッヒのことを突き飛ばした。不意をつかれたケーニッヒは、森の中まで吹き飛ばされてしまった。
「一度ひくぞ! 乗れッ!」
ラルフがそう言ってクルト達に駆け寄ってくる。
珠は急いで動くことのできないクルトのことをラルフの背中に乗せる。そして、クルトが振り下ろされないようにしっかりと後ろから抱き締めた。
「逃がさんぞッ!」
森の中からケーニッヒの叫び声が聞こえてきた。そしてそれと同時に、魔物達の唸り声も聞こえてくる。どうやら近くに居た魔物を呼び寄せたらしい。
「フィル! お前も早く乗れ!」
フィルは一向にラルフの背中に乗ろうとしなかった。ケーニッヒの声が聞こえてくる方を睨みつけ、鞭を持ったまま動こうとしない。
「あんた怪我してるじゃない。そんなざまであいつらのことを撒けると思ってるの?」
「何を言ってるんですかフィルさん! ……まさか!?」
珠が嫌な予感を感じてフィルを見つめる。
『いざとなったら、私を見捨てることもできるわね?』
三層に入ったばかりのフィルが言った言葉……。
「殿は任せなさい」
フィルはそう呟いてくすりと笑った。
しかしそんなフィルに対して、後ろからにゅっと腕が伸びてきてフィルを掴む。
「ちょっと珠! いざとなったら私を見捨てるって言ったじゃ……。クルト……」
フィルを掴んだのはクルトだった。意識を失いそうなくらい苦しんでいるのに、無我夢中でフィルに向かって腕を伸ばしたのだ。
「駄目だよフィル……僕はそんなの認めてない……」
「……ちぇ。私の見せ場が台無しになったじゃない」
「行くぞッ!」
ラルフはそう叫ぶと、森の中を走りだした。後ろからは数匹の魔物が追いかけてきていた……。