妻が社長に昇進した日、俺は彼女の不倫相手の専属運転手になった
グループが汐凪市に新しい支社を設立することになり、社長の黒田宗一郎は、俺の妻である久我美月を支社長に任命した。美月には、自分で管理職を選ぶ権限も与えられた。
周囲は、俺が当然のように彼女の右腕になると思っていた。長年グループで働き、美月のキャリアを支えてきたのだから、夫婦そろって昇進しても不思議ではない。ところが、人事発表の日、俺に届いたのは昇進の知らせではなく、これまでの役職を解くという通知だった。
その一方で、美月と以前から親密な関係にあった実習生の瀬戸悠真が、異例の抜擢で副社長に就任した。
理由を尋ねると、美月は真剣な顔で説明した。悠真はうつ病を抱えていて、精神的にも不安定なところがある。俺よりも、周囲から認められる経験が必要なのだという。さらに、俺の新しい仕事まで彼女は決めていた。悠真の専属運転手だ。仕事は比較的楽で、給料も変わらない。悪い話ではないでしょう、とでも言いたげだった。
美月は俺の襟元を整えながら、何のためらいもなく笑っていた。その手つきが、ひどく遠いものに感じられた。
「わかった。美月が決めたことなら、従うよ」
俺はあっさりと受け入れた。
これからは、彼女の失敗を俺が尻拭いする必要もない。俺が手を引いたあと、彼女がどこまでやれるのか、見届けてみることにした。
1
翌朝、会社から支給された運転手の制服に着替え、悠真が住むマンションの前に車を停めた。
約一時間待ち、電話も三度かけた。それでも応答はなかった。始業時刻まで残り十分になって、ようやく悠真が眠そうな顔で出てきた。俺が運転席にいることなど気にも留めず、後部座席に乗り込む。
「出して」
俺は黙ってエンジンをかけた。
汐凪市は朝の通勤ラッシュの真っただ中だった。幹線道路は車で埋まり、ナビの到着予定時刻は少しずつ遅れていく。後部座席の悠真は落ち着かず、何度も別の道を通れと指示してきた。俺が急いだからといって、前の車が消えてくれるわけでもない。
「おい、運転下手なんじゃないのか? この辺に近道くらいあるだろ。初日から遅刻したら、美月が俺をどう思うかわかってるのか?」
俺は交通ルールを守りながら運転を続けた。悠真の文句には取り合わなかったが、会社に着いたときには、予定されていた管理職の朝会が始まってから三十分も過ぎていた。
車を停めると、すぐに美月から電話がかかってきた。
「久我直人、今どこにいるの? 今日、管理職の朝会があるって知ってるでしょう。悠真は副社長として初めて出席するのよ。初日から遅刻なんて、これから部下にどう示しをつけるつもり?」
俺が説明するより先に、悠真が口を開いた。困ったような声を作り、まるで俺をかばっているかのように話し始める。
「美月さん、直人さんを責めないでください。まだ運転手の仕事に慣れていないんです。道もよくわからないみたいで、本人もかなり焦っていました。僕からも、あまり飛ばさないように何度も言ったんですけど」
速度違反をしたとは言っていない。それでも、聞く側が誤解するには十分な言い方だった。
美月の声が一段と険しくなる。
「直人、いつからそんなに心が狭くなったの? 自分の仕事もまともにできないくせに、悠真に八つ当たりするなんて。がっかりしたわ。今月の給料は一度差し引くから、自分の問題をちゃんと考えて」
言いたいことだけ言うと、彼女は電話を切った。
悠真はゆっくりと背もたれから身体を起こした。先ほどまでの申し訳なさそうな顔は消え、口元には満足げな笑みが浮かんでいる。彼は泥のついた革靴を助手席の背もたれに載せ、車内に汚れをこすりつけた。
その靴には見覚えがあった。先月の俺の誕生日に、美月がイタリアから取り寄せたものだ。「あなたに似合うと思って」と、わざわざ選んでくれたはずだった。それが今は悠真の足元にあり、泥を拭おうともしないまま車を汚している。
「直人さん、俺の運転手にまで落とされて、悔しいんじゃないですか? まあ、能力がないんだから仕方ないですよね。元の役職すら守れなかったんですから」
悠真は口笛を吹きながら車を降り、会社へ入っていった。
俺はしばらく運転席に座り、背もたれに残った汚れを見つめた。ハンドルを握る手に、少しずつ力がこもっていく。
やがて、会議を終えた管理職たちが、煙草を吸いに建物の外へ出てきた。まだ車内にいる俺に気づくと、数人が近寄ってくる。俺が役職を外された話は、すでに社内に広まっているらしい。同情するような目もあれば、面白がっているような視線もあった。
「直人、お前、我慢しすぎだろ。実習生にここまで好き勝手やられて、美月さんにも人前で怒鳴られたんだぞ。俺ならとっくに辞めてるよ」
「前は会社の中心で働いていたのに、今じゃ運転手か。そこまでして、何を守ろうとしてるんだ?」
俺は答えず、スマートフォンを取り出した。
美月からメッセージが届いていた。先ほどは感情的になってしまった、ごめんなさい。悠真に管理職としての自信を持たせるためには、人前できちんと叱る必要があった。そんな説明が並んでいた。差し引いた給料は、夜に帰宅したら倍にして補うとも書いてある。
最後のメッセージには、以前の俺のオフィスはすでに引き払ったので、しばらく車内で休んでいてほしいとあった。昼には時間を作って、一緒に食事をするつもりだという。
読み終えた俺は、メッセージを削除した。
悠真の立場を守るために、俺の尊厳を踏み台にする。傷つけたあとは、軽い謝罪と金で埋め合わせる。美月にとっては、それで全部片づくのだろう。自分が補償すると決めたのだから、俺も当然受け入れるはずだと考えている。
昼になっても、美月は姿を見せなかった。
代わりに秘書が弁当を届けに来た。美月は悠真と各部門の責任者を交えて食事をしているらしい。悠真が支社の仕事に慣れるよう、業務について説明しているのだという。
弁当のふたを開けると、料理はすっかり冷めていた。
俺は一口も食べず、そのままゴミ箱に捨てた。
2
三日後は、美月と結婚して五年目の記念日だった。
俺は彼女が以前から気に入っていたフランス料理店を予約し、何度も話題にしていたネックレスも用意した。仕事が終わったら一緒に食事をし、プレゼントを渡したかった。最近の美月は会社で俺に冷たく接することが増えていたが、それでも、この日くらいは以前のように向き合えるかもしれないと思っていた。
午後五時、メッセージを送った。
「美月、今夜は時間ある? 予約してある店で、一緒に食事しないか」
返事はすぐに届いた。
夜は悠真と重要な顧客に会う予定がある。遅くなるかもしれないから、先に食べていてほしいという。そのあと、悠真が初めて単独で担当するプロジェクトだから、自分がそばについて、顧客の前で失敗しないよう見ておく必要がある、と続けてきた。
俺は画面を見つめた。
「今日が何の日か覚えてる?」
そう打ち込んだものの、送信する前に消した。
レストランの予約を取り消し、ネックレスの箱は車の助手席に置いた。仕事が終わっても家には帰らず、昔からの友人たちと、長く営業している焼き鳥屋で飲むことにした。
店内は賑やかで、焼き台からは白い煙が立ち上っていた。焼き鳥や野菜串を注文し、ビールが運ばれてきたところで、見覚えのある二人が店に入ってくるのが目に入った。
美月と悠真だった。
美月は楽しそうに笑い、壁のメニューを指さしながら悠真と話している。以前の彼女は、こうした煙や油の匂いがつく店を嫌っていた。服に匂いがつくし、高価な香水の香りも台無しになる。そんな理由で、こういう場所にはほとんど足を運ばなかった。
それなのに今は、こういう店のほうが生活感があっていい、と悠真に話していた。
俺の視線は、悠真の着ているスーツに止まった。
美月が結婚記念日に俺へ贈ると言っていたものだった。同じ型のスーツを一緒に見に行ったとき、彼女は俺のサイズを店に伝え、記念日に渡すつもりだと話していた。その服が、今は悠真の身体に収まっている。袖口の細かなデザインまで、俺が覚えていたものと同じだった。
悠真は俺の視線に気づくと、少し驚いた顔をした。次の瞬間、手にしていたオレンジジュースをわざとらしくこぼし、スーツとズボンを濡らした。
「あっ!」
美月はすぐに紙ナプキンを手に取り、悠真のそばにしゃがみ込んだ。服についた染みを慌てて拭う姿は、彼が少しでも傷つくことを恐れているかのようだった。
俺は席を立ち、二人のテーブルへ向かった。
「美月。悠真と大事な顧客に会うんじゃなかったのか?」
彼女は顔を上げ、俺に気づくと笑顔を消した。
「もう会ってきたわ。悠真が焼き鳥を食べたいと言うから、付き合っているの。あなたこそ、どうしてここにいるの?」
「そのスーツは? 俺に贈ると言っていたよな」
美月は立ち上がり、露骨に不機嫌な顔をした。
「少し貸しているだけよ。顧客に会うのに、あまりにもラフな格好じゃ困るでしょう? 直人、そんなに心が狭かった? 今のあなたは管理職でもないし、普段からこういう服を着る機会だって少ないじゃない。悠真に貸したくらいで、どうしてそんなに騒ぐの?」
あまりの言い分に、笑いが漏れた。
「心が狭い? 今日は俺たちの結婚五周年だ。君が贈ると言った服を、別の男に着せておいて、気にするなって?」
美月の表情がわずかに揺れた。視線をそらしたあと、今度はもっといいものを買ってあげるから、と取り繕う。
黙っていた悠真が、そこで立ち上がった。得意げに美月の肩を抱き寄せる。
「直人さん、美月さんを責めないでください。今のあなたには、彼女の仕事を支える余裕もないでしょう。僕が仕事で彼女の負担を減らしているんです。だったら、普段の生活でも少しくらい支えてあげたいと思うのは自然じゃないですか?」
最後の言葉を口にするとき、悠真はわざと俺に目配せした。
美月は彼の腕を振りほどかなかった。何も言わず、そのまま肩を抱かれている。
見かねた友人たちが席を立ち、悠真に詰め寄った。
「お前、何様のつもりだ? 人の力で出世しておいて、よくそんな偉そうな口が利けるな」
「夫婦の記念日に、夫へのプレゼントを着て見せびらかすのか。恥ずかしくないのかよ」
店内の空気が一気に張り詰めた。中には、今にも悠真につかみかかりそうな友人もいた。俺は慌てて間に入り、こんな連中のために面倒を起こす必要はないと説得した。友人たちには先に帰ってもらうことにした。
彼らは納得できない様子だったが、最後には怒りを押し殺して店を出ていった。帰り際、受けた仕打ちに対して、俺が美月の顔を立てようとしすぎていると責められた。
俺は言い返さなかった。
店の外で、美月が出てくるのを待った。仕事のことも、結婚記念日のことも、悠真との関係も、一度きちんと話し合いたかった。
結局、彼女が出てきたのは午前一時を過ぎてからだった。
3
美月と悠真は、二人ともかなり酔っていた。悠真は足元がおぼつかず、身体の重みをほとんど美月に預けている。美月は彼を支えながら、駐車場へ向かっていた。
俺は少し離れた場所から、二人を見ていた。
車のそばまで来たところで、悠真が突然、美月の身体を車のドアへ押しつけた。彼は顔を近づけ、彼女の首筋に唇を寄せる。
「美月さん、本当に優しいですね」
美月の身体が一瞬こわばった。彼女は彼を押し返そうとするように手を上げたが、結局、その手は悠真の肩に回った。
「悠真、やめて……。私には直人がいるのよ」
「そんな男のことなんか、どうでもいいじゃないですか。自分の仕事も守れなかったくせに、今じゃ美月さんに見捨てられた男ですよ」
悠真はそう言って、再び彼女の耳元へ顔を寄せた。
美月は彼を突き放さなかった。ゆっくり目を閉じ、彼の口づけを受け入れていた。
数歩しか離れていない場所から、その姿を見ていた。
これまで、夫婦の関係にはまだ修復の余地があると考えてきた。その理由が、目の前の光景を見ているうちに、一つずつ崩れていく。
もう我慢できなかった。
俺は駆け寄り、悠真を力いっぱい押しのけた。彼はよろめき、そのまま地面に尻もちをついた。
美月に向き直る。胸の奥が詰まり、声が震えていた。
「久我美月、自分が何をしているのかわかってるのか?」
美月は、まるで楽しい時間を邪魔されたとでもいうように顔を歪めた。次の瞬間、手を振り上げ、俺の頬を思い切り叩いた。
「久我直人! 何をするのよ! 悠真に手を出すなんて、どういうつもり?」
頬に熱い痛みが広がった。
彼女の目に浮かんでいたのは、俺への嫌悪だった。俺がなぜここにいたのか、自分が別の男とどんな姿を見せていたのか、そうしたことは問題ではないらしい。彼女が真っ先に気にしたのは、悠真が怪我をしていないかどうかだった。
美月は俺を見ようともせず、悠真のそばにしゃがみ込んだ。
「悠真、大丈夫? どこか痛くない?」
悠真は彼女の腕に寄りかかり、ひどい目に遭ったとでもいうように痛みを訴えた。
美月は彼を支えて立ち上がらせると、タクシーを拾った。二人はそのまま夜の街へ消えていった。
俺は一人で家に戻り、明かりをつけた。部屋の静けさが、かえって胸にこたえた。
シャワーを浴びようとしたとき、銀行から通知が届いた。美月と共同で管理していた家庭の貯蓄口座から、資金がすべて引き出されている。残高はゼロになっていた。
銀行に問い合わせると、口座名義人の一方による承認手続きを経て送金されたとの説明だった。俺は妻を信じ、給料や貯蓄の大部分を家庭の口座に入れてきた。今になって自分の金を使おうとしても、まず資金の移動を一つずつ確認しなければならない。
数分後、美月からメッセージが届いた。
「直人、私はあなたに十分譲歩してきたわ。それなのに、自分から悠真に恥をかかせたんでしょう。もうあなたの気持ちまで気にする必要はないわね。自分には意地があると思っているなら、これからは一人で何とかして」
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
自分の妻を疑う必要などないと思っていた。信じてきた相手のせいで、こんな状況に追い込まれる日が来るとは考えもしなかった。
手元に使える貯金はなく、これまで当たり前だと思っていた生活は、ほんの数日のうちに崩れ始めていた。
4
翌朝、激しい電話の音で目が覚めた。家族からの電話だった。父が突然、胸の痛みと呼吸困難を訴え、病院に搬送されたという。医師は急性心筋梗塞を疑い、すぐに手術の可否を判断する必要があると話していた。
俺は上着をつかみ、病院へ向かった。
到着したときには、父はすでに救急処置室へ運ばれ、医療スタッフが検査と手術の準備を進めていた。看護師から費用の説明を受けたが、手術や入院の内容によって金額は変わるため、必要な費用の一部を先に支払ってほしいという。
ポケットを探り、ようやく自分が必要な金額を用意できないことに気づいた。口座の貯蓄はすぐに動かせず、手元の現金もわずかしかない。救急処置室を行き来する医療スタッフを見ながら、俺は美月に電話をかけた。
何度も呼び出し音が鳴ったあと、ようやく彼女が出た。声には、眠りを邪魔された苛立ちがにじんでいた。
「こんな朝早くに何?」
「美月、父さんが急に心筋梗塞を起こして、今、病院で処置を受けている。手術が必要なんだ。口座のお金がすぐに使えないから、先にいくらか振り込んでくれないか。費用はあとで確認する」
電話の向こうが静かになった。
次に聞こえたのは、冷たい笑い声だった。
「直人、お金が欲しいからって、自分のお父さんが病気だなんて嘘までつくの? 私が信じると思ってる? 今は悠真と顧客のことで忙しいの。そんな話で煩わせないで」
美月はそれだけ言って電話を切った。かけ直しても、もうつながらなかった。
父は救急処置室の中で治療を受けている。妻と口論を続けている時間はなかった。
俺は自尊心を捨て、一人ずつ友人に電話をかけた。父が病院に運ばれ、急いで費用を用意しなければならないことを説明し、状況が落ち着いたら必ず返すと約束した。
そのとき、廊下の向こうから美月と悠真が歩いてくるのが見えた。悠真は美月の腕にしがみつき、二人は心理相談外来の方向へ向かっている。顧客対応で忙しいという、さっきの説明とはまるで違う光景だった。
俺が廊下の端で電話をしているのに気づくと、美月の表情がこわばった。彼女は足早に近づいてきた。ようやく事態が本当だとわかったのか、スマートフォンを取り出しかけた。
だが、悠真が急に身体を震わせ、美月の腕を強くつかんだ。
「来ないで! 怖い!」
彼は美月の後ろに隠れ、俺を指さしながら震え続けた。
美月は悠真を抱きしめ、俺が彼を傷つけようとしているかのように睨みつけた。
「久我直人! 何をするつもりなの? 悠真はやっと落ち着いてきたところなのに、どうしてわざわざ刺激するのよ!」
耳を疑った。
「俺は何もしていない。父さんが救急処置を受けているんだ。治療費が必要なんだよ。君たちの芝居に付き合っている暇はない」
美月の顔が赤くなった。彼女は悠真を抱きしめたまま、俺を激しく責め立てた。
悠真が初めて主担当となった大型プロジェクトで、会社は数百万円規模の受注を失った。俺が当日遅刻し、勝手に持ち場を離れたことが原因だというのだ。
「こんなことをしておいて、まだお金をせびるつもり? 夫婦として長年一緒に暮らしてきたから、運転手の仕事まで残してあげたのよ。それなのに、これ以上、悠真を巻き込むなら、あなたの居場所だってなくなるわ!」
美月はプロジェクトの失敗を俺の責任にするつもりだった。悠真の仕事上の失敗を、俺の遅刻や勤務態度の問題にすり替えている。父の命がかかっている今も、彼女にとっては悠真を守ることのほうが大事らしい。
美月は悠真を支えながら、心理相談室へ入っていった。扉が閉まる直前、彼女は振り返り、冷えきった声で言った。
「今すぐ会社へ行って、プロジェクトの失敗は自分の責任だと説明してきて。悠真の名前を出さずに済ませてくれたら、お金を振り込むから」
胸の奥が重くなり、今すぐ二人に怒鳴り返したくなった。だが、父はまだ救急処置室にいる。今は感情に任せている場合ではなかった。
スマートフォンが鳴った。
個人口座に三十万円が振り込まれたという通知だった。続いてメッセージも届いた。
送り主は、美月ではなかった。
画面を確認し、俺は大きく息を吐いた。屈辱も怒りも消えたわけではない。ただ、今は父を救うために動ける。それだけで十分だった。
心理相談室から美月が顔を出し、会社へ行って責任を認めるよう、苛立った声で催促してきた。
俺は彼女を見ず、会計窓口へ向かった。
「久我直人! 待ちなさい! 聞こえているの?」
背後から怒鳴り声が飛んできたが、足を止めなかった。今、俺が最優先にしなければならないのは、父の治療だった。
5
父の医療手続きを済ませ、手術室の前の長椅子に座った。扉の上のランプを見つめながら、俺は友人の阿杰にメッセージを送った。三十万円を振り込んでくれたのは彼だった。父が危険な状態だと聞き、手元にあった貯金を迷わず送ってくれたのだ。残りの費用についても、まずは父の容体を見てから考えようと言ってくれた。
俺は必ず返すと伝え、スマートフォンを握りしめた。今は格好をつけている場合ではない。目の前の問題を一つずつ片づけるしかなかった。
ほどなくして、美月と悠真が再び廊下に現れた。美月は怒った顔をしていたが、目元にはわずかな不安も見えた。俺が会社へ行って謝罪するという指示に従わなかったのが、気に入らないらしい。
「直人、さっきの態度は何なの? お父さんを助けるつもりはないの?」
俺は顔を上げたが、答えなかった。
悠真が近づいてきて、いかにも親切そうにため息をついた。
「直人さん、美月さんを責めないでください。彼女だって会社のためを思っているんです。お父さんが手術を受けているんだから、あなたもつらいでしょう。僕たちだって、その気持ちはわかります」
そう言いながら、彼は俺の肩を軽く叩いた。
「美月さんから二十万円、追加で受け取れるようにします。その代わり、プロジェクトの失敗はあなたが引き受けてください。そうすれば、これからも穏便にやっていけますよ」
まるで俺のことを本気で心配しているかのような口ぶりだった。
「よく考えたほうがいいですよ。お父さんが退院したあとも、通院や治療でお金がかかるかもしれない。今、意地を張って自分の居場所まで失ったら、あとで困るのはあなたですから」
言葉の裏にある悪意が透けて見えた。俺は彼の芝居を遮った。
「話はそれだけか?」
悠真の笑顔が一瞬固まった。
俺は立ち上がり、美月をまっすぐ見た。
「久我美月、離婚しよう。運転手の仕事も辞める」
美月は、意味がわからないという顔をした。数秒後、表情がみるみる変わった。
「何を言っているの? あなたから離婚を切り出すなんて、何のつもり? 今のあなたに何があるのよ。家は結婚後に買ったもの、車は会社のもの。貯金だって口座に入っている。私と別れたら、住む場所も生活費も自分で何とかしなきゃいけないのよ!」
そんなことを並べれば、俺が以前のように折れると思っているのだろう。
美月はさらに、会社に俺の責任を追及させる、プロジェクトの損失を賠償させる、返しきれない借金を背負わせることだってできる、と脅してきた。
俺は彼女の顔を見て、ただ疲れを感じた。
「好きにすればいい」
そう言い残し、手術室の前の椅子に戻った。美月はまだ何かを叫んでいたが、俺はもう取り合わなかった。悠真が形だけなだめようとしても、美月の怒りは収まらず、二人は結局、廊下から立ち去った。
その後の一週間、俺は病院で父に付き添った。手術は無事に終わり、医師や看護師の治療と経過観察のおかげで、父の容体も少しずつ安定していった。検査や薬、退院後の治療について確認するため、病棟と各窓口を何度も往復した。会社のことを考える余裕はなかった。
美月から連絡はなかった。
代わりに、悠真から一度だけ電話がかかってきた。相変わらず、自分が俺の去就を決められるとでも思っているような口ぶりだった。
「直人、最後のチャンスをやるよ。今から戻って美月さんに謝れ。それから、プロジェクトの失敗は自分の責任だと認めるんだ。そうすれば、俺から美月さんに頼んで、離婚を思いとどまってもらう」
俺が黙っていると、悠真はさらに続けた。
「自分の立場をよく考えたほうがいい。美月さんがいなければ、あんたには何もないんだから。もう俺たちに関わるなよ。少し騒いだくらいで、全部が元に戻ると思うな」
最後まで聞く気はなかった。
俺は電話を切り、悠真の番号を着信拒否にした。
一週間後、父の容体が安定したのを確認してから、俺は会社へ戻った。医師と今後の通院予定を確認し、家族にしばらく父の様子を見てもらうよう頼んでからのことだった。
ビルの入口で、警備員に呼び止められた。
「申し訳ありません、久我さん。美月支社長から、現在は執務エリアへの立ち入りを認めないよう指示されています」
理由を尋ねようとしたところへ、赤いポルシェが停まった。美月と悠真が車から降り、俺に気づくと警備員のほうへ歩いてきた。
「この人を外へ出して。私の許可なしに、二度と会社へ入れないで」
悠真は俺の前に立ち、薄笑いを浮かべた。
「直人さん、まだ美月さんに泣きつきに来たんですか? チャンスは一度だけだって、前にも言いましたよね。今さら後悔したって遅いですよ」
俺は返事をしなかった。
そこへ秘書が慌ただしく駆け寄ってきた。
「美月支社長、黒田社長がお見えになりました。至急、緊急会議を開くとのことです。瀬戸副社長と一緒に、最上階の会議室へお越しください」
美月と悠真の表情が同時に変わった。二人は俺との話を打ち切り、身なりを整えてエレベーターへ向かった。
俺も人の流れに続き、最上階へ上がった。
6
最上階の会議室には、支社の管理職が集まっていた。黒田宗一郎は上座に座り、机の上には数冊の資料と、すでに起動しているノートパソコンが置かれていた。六十を過ぎても、その姿勢には衰えが感じられない。
美月と悠真は部屋に入ると、すぐに恭しい態度に切り替えた。二人は支社設立後の業務について報告し、順調に進んでいると自信たっぷりに説明した。
「社長、ご安心ください。支社の業務はおおむね計画どおりに進んでいます。人員配置も落ち着いてきました。今後はさらに事業を拡大し、早い段階で成果を出してみせます」
美月が話し終えると、悠真もプロジェクトの進捗について補足した。これまでの失敗にはほとんど触れず、細部に調整が必要なだけで、事業全体への影響はないと説明している。
二人の話が続く中、俺が入口から入ってきたことに気づくと、美月の笑顔が消えた。
「久我直人? どうしてここにいるの? 警備は何をしているのよ。誰でも入れるようにしているの?」
悠真もすかさず社長に訴えた。
「社長、この人です! 以前のプロジェクトが失敗したのも、こいつの仕事上のミスが原因なんです。すでに役職を外されています。今日はきっと、騒ぎを起こしに来たんですよ!」
会議室が静まり、管理職たちが互いに目を交わした。黒田社長は手を上げ、二人を制した。美月と悠真を順に見たあと、俺に向かって穏やかに笑った。
「直人、こちらへ来て、私の隣に座りなさい」
二人は言葉を失った。
俺は彼らの反応を気にせず、社長の隣の椅子を引いて腰を下ろした。美月が何か言おうとしたが、黒田社長の厳しい視線を受け、口を閉じた。
「全員そろったようだ。それでは会議を始めよう」
社長は書類を開き、今日の会議では重要な人事について発表すると告げた。
「本日付で、久我直人を汐凪支社の社長に任命する。支社の経営と管理全般を任せる。久我美月と瀬戸悠真については、本日付で役職を解き、グループとの雇用関係も終了する」
会議室にざわめきが広がった。
美月は顔を青ざめさせ、勢いよく立ち上がった。
「社長、何かの間違いではありませんか? 支社長は私のはずです。それに、直人はとっくに役職を外されています。どうして彼が私の後任になるんですか?」
悠真も慌てて弁解した。俺には管理能力がなく、以前のプロジェクトの失敗こそ、その証拠だと主張する。
黒田社長は冷ややかに二人を見た。
「間違いだと? 間違いを犯したのは、君たちのほうだろう」
そう言ってから、社長は俺に視線を移し、少し誇らしげな口調で、今回の人事に至った経緯を説明した。
汐凪支社の設立が決まった当初、社長が最初に候補として考えていたのは俺だった。俺はグループで長年働き、業務内容も社内の仕組みも熟知している。
だが、俺から一つ提案をした。美月を支社長に任命し、自分の力で支社を運営する機会を与えてはどうか。同時に、人事やプロジェクト管理、資金の承認手続きが適切に行われるかどうかも、一定期間見極められる。
黒田社長はその提案を受け入れた。ただし、人事の変更も、その後の調査も、グループの正式な手続きに沿って進めることが条件だった。
俺の役職が変更されたのは、調査に不必要な影響を与えないよう、いったん管理業務から離れるためだった。悠真の専属運転手という仕事は、美月が人事権限の一部を与えられたあと、自ら決めた配置である。
当初から悠真の任用に問題がないか、社長も注意を払っていた。俺は、すぐに判断を下すのではなく、彼がその立場をどう利用するのか、そして美月が権限と個人的な関係にどう向き合うのか、もう少し様子を見たいと伝えていた。
「任命は始まりにすぎない。管理職にふさわしい人間かどうかは、実際の仕事への取り組み方と、社内規定を守れるかどうかで決まる。今、その結果が出たということだ」
美月の身体が震えた。自分が俺の仕事も生活も思いどおりに動かせると考えていたのだろう。ここに来て初めて、自分の人事判断も、業務上の決定も、調査の対象になり得ると気づいたようだった。
黒田社長は茶を一口飲み、机の上の書類を俺の前へ滑らせた。
「直人、ここからは君が調査結果を説明してくれ。監査部門が資料を整理している。今日、正式に会議へ提出できる状態だ」
俺はうなずき、鞄から資料を取り出した。
会議は、ここからが本題だった。
7
俺は資料をプロジェクターにつなぎ、最初に車載ドライブレコーダーの映像を再生した。店の前に停めていた車に記録されていた映像には、美月と悠真が駐車場で親密に振る舞う様子と、そのあと俺が悠真を押しのけた場面が映っていた。
映像を見れば、俺が何の理由もなく彼に手を出したわけではないことはわかる。もっとも、これはあくまで当日の状況を示す資料であり、会社の資金問題を直接証明するものではなかった。
会議室のあちこちから、低い話し声が上がった。管理職たちは美月を見たり、手元の資料を確認したりしている。
美月は顔をこわばらせながらも、反論した。
「私生活の問題と会社の経営は関係ないでしょう? 直人と私の間に問題があったからといって、プロジェクトの失敗まで私の責任だと決めつけるのはおかしいわ!」
俺は言い返さず、次の資料に切り替えた。
スクリーンに映し出されたのは、監査部門が整理したプロジェクトの支払記録、取引先の資料、そして複数の不審な送金記録だった。悠真が担当したプロジェクトでは、社内の承認手続きに沿っていない支払申請がいくつも見つかっていた。その一部は、実際の業務内容と整合しない関係会社へ送金されていた。
プロジェクトの資金に不審な点が見つかった時点で、グループの内部監査が正式に調査を開始していた。契約書、請求書、承認記録、送金先を照合した結果、実態のないサービスへの支払いを装い、プロジェクト資金の一部を関係会社へ流していた疑いが浮かび上がった。悠真が通常の承認手続きを経ずに、経理部門へ支払いを急がせていた記録も残っていた。
黒田社長がうなずき、続きを促した。
俺は、グループのコンプライアンス部門が適切な手続きで取得し、ほかの証拠とも照合した通話録音を再生した。悠真が、姉の瀬戸理恵と話している音声だった。
「姉さん、もうすぐプロジェクトの金が入る。そっちで会社を用意しておいてくれ。金が移ったら、あとは分けて外へ出す方法を考えよう」
理恵が、支社の人間に送金を怪しまれる心配はないのかと尋ねた。
悠真は軽く笑った。
「大丈夫だよ。美月は俺の言うことなら何でも聞く。プロジェクトで問題が起きても、夫の直人に責任を押しつけるように話をつけてある。あいつが自分の責任だと認めれば、しばらく俺に疑いの目が向くこともない」
録音がいったん途切れると、会議室は静まり返った。
続いて、悠真の声が再び流れた。
「美月なんて、簡単に信じ込ませられる。俺が精神的に不安定だとか、認められる経験が必要だとか言えば、勝手にかばってくれるんだ。仕事の機会が欲しいと言えば夫の役職を譲らせるし、金に困っていると言えば家の貯金まで出してくれる。あの女、今でも俺を助けているつもりなんだよ」
美月の顔から血の気が引いていった。スクリーンを見つめたまま、ずっと守ってきた男の声が信じられないというように、唇を震わせていた。
「あなた、ずっと私を騙していたの? 私に近づいたのも、全部そのためだったの?」
悠真は口を開きかけたが、すぐには言葉が出てこなかった。スクリーンに映る記録と、手元の資料を見て、自分が関わった送金まで一つずつ整理されていることを理解したのだろう。消したつもりの痕跡にも、裏付けとなる記録が残っていた。
「違います、社長! 話を聞いてください! 美月さんのほうから僕を助けると言ったんです。管理職に入れると決めたのも彼女です。僕は頼まれたとおりに動いただけで、プロジェクトの問題だって、僕一人の責任じゃありません!」
悠真は必死に美月へ責任を押しつけ、自分は彼女の指示に従っただけだと主張した。
黒田社長の表情は冷えきっていた。
「君たちの私的な関係については、関係部署が必要な調査を行う。会社の資金に関する問題については、すでに資料を保全している。必要な証拠は警察にも提出する。二人とも、今後の調査に協力してもらう」
社長は内線電話を取り、警備担当者とコンプライアンス部門の責任者を呼んだ。ほどなくして数人の社員が入室し、美月と悠真を別々に退出させた。二人には、関連資料と業務上の権限について、引き続き確認を行うと伝えられた。
その後、グループは正式に警察へ被害を届け出た。警察は提出された資料をもとに捜査を開始し、関係者の行動や資金の流れを調べていった。悠真は業務上横領や詐欺などの疑いで捜査対象となり、理恵も資金移動への関与が疑われ、事情聴取などの対象となった。最終的な責任や罪名については、その後の司法手続きで判断されることになった。
美月は会議室を出る直前、足を止めて俺を睨みつけた。
唇がかすかに動いたが、結局、言葉にはならなかった。
俺は彼女を追わなかった。もう、かける言葉もなかった。
これから俺が向き合うべきなのは、支社の業務を立て直すこと、資金の行方を確認すること、そして父と自分の生活を、誰かの顔色をうかがわずに守っていくことだった。
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その後の調査には、数か月を要した。
グループの監査部門はプロジェクト資金の流れを引き続き調べ、警察も提出資料をもとに関係者の行為を確認した。証拠がそろうにつれ、悠真と理恵が関係会社を利用してプロジェクト資金を不正に流していた疑いが、さらに明確になっていった。
事件が司法手続きに進んだあと、悠真は関連する経済犯罪で懲役十年の判決を受けた。理恵も、自ら関与した行為について法的責任を負うことになった。
一方、美月については、資金詐欺に直接関与したとは認定されなかった。ただし、支社の運営やプロジェクト管理に重大な不備があったため、グループは彼女との雇用契約を終了させ、調査結果に基づいて民事上の責任も追及した。
かつての役職も、業界内で築いてきた評判も、大きく傷ついた。ほかの企業も、彼女の経歴や管理職としての記録を慎重に見るようになった。美月が負うことになった債務や賠償の問題は、本人が考えていたよりもはるかに複雑だった。
俺は正式に汐凪支社の社長に就任し、人員配置を見直し、プロジェクト契約を一つずつ確認しながら、事業の正常化を進めた。忙しくなったが、以前より気持ちは落ち着いていた。少なくとも、誰かの面子を守るために自分の原則を曲げる必要はない。
一か月後、俺は、かつて焼き鳥屋で一緒に飲んだ友人たちを誘い、落ち着いた雰囲気のレストランで食事をした。
俺が経験したことは、彼らも知っていた。あの結婚と、混乱した職場の人間関係からようやく抜け出したことを、みんな心から喜んでくれた。乾杯のグラスが重なり、俺も久しぶりに肩の力を抜いて、仕事や生活の話をした。
酒が何杯か進んだ頃、個室の扉が開いた。
美月が入口に立っていた。
以前よりずっとやつれ、古びた上着を着ていた。髪もきれいに整えられておらず、かつて支社長として見せていた余裕や自信は、見る影もなかった。
俺を見つけると、彼女の目に涙が浮かんだ。数歩進み、テーブルの前まで来ると、皆の目の前で膝をついた。
「直人……私が悪かった。本当に反省しているの。許してくれない? もう一度、やり直せないかな」
彼女が俺のズボンの裾に手を伸ばしたので、俺は一歩下がった。鞄から、あらかじめ用意していた離婚協議書を取り出し、彼女の前に置いた。
「署名してくれ」
美月は書類の表題を見た途端、取り乱した。協議書をつかみ、細かく引き裂いてしまった。
「嫌よ! 絶対に離婚なんてしない! 直人、あなたが私にこんなことをするなんて!」
彼女は個室の中で泣きわめいた。長年夫婦として暮らしてきたのだから、俺が戻りさえすれば、何もかもやり直せると繰り返した。
友人たちは彼女の態度に我慢できず、次々に非難の言葉を浴びせた。最後には店のスタッフもやってきて、退室するよう促した。
美月が連れ出されたあと、俺は弁護士に連絡し、必要な書類を改めて用意してもらった。財産分与について双方の意見が食い違っていたため、婚姻期間中の資産やそれぞれの収入、関連する証拠を整理し、正式な手続きを進めた。
離婚訴訟には時間がかかった。
最終的に裁判所は離婚を認め、財産をめぐる争いについても判断を下した。美月が負うべき責任についても、実際の証拠と判決に基づいて確定した。
判決の日、美月は法廷で泣き崩れそうになっていた。
俺は判決を最後まで聞き、書類を片づけて席を立った。
振り返ることはなかった。
これで、美月との関係は完全に終わった。彼女はもう俺の妻ではない。俺が彼女のしたことの責任を肩代わりする理由も、残っていなかった。
9
それから数か月が過ぎ、仕事も生活も落ち着いてきた。支社の経営は安定し、問題のあったプロジェクトも、整理と引き継ぎが順に進んでいた。父が退院すると、俺は自宅に迎え入れた。通院の予定を立てやすくなり、仕事の合間にも顔を合わせられるようになった。
友人たちは、再び俺のために集まりを開いてくれた。今度は静かな会員制の店だった。仕事の話やこれからの計画を話しながら、和やかな時間を過ごしていた。
俺がグラスを持ち上げ、皆と乾杯しようとしたとき、また個室の扉が開いた。
立っていたのは、やはり美月だった。
俺は眉をひそめた。前回のように泣きわめくことも、いきなり駆け寄ってくることもない。彼女は入口に立ったまま、バッグの持ち手を両手で握りしめていた。薄く化粧をし、きちんとしたワンピースを着ていたが、目元には疲れが残っていた。
彼女は長い間俺を見つめ、苦い笑みを浮かべた。
「直人、私も最近、うつ病だと診断されたの。医師からは、精神的にかなり不安定になっているって言われた。誰かに気にかけてもらいたいし、認めてもらうことも必要なんだって」
美月は悠真が以前していたように、自分の腕を抱く仕草をした。声は次第に弱くなっていく。
「今、本当につらいの。借金のことが重くのしかかっているし、助けてくれる人もいない。少しだけでいいから、私を助けてくれない?」
悠真をかばうために使っていた言葉を、今度は自分のために繰り返している。
友人たちは怒りをあらわにした。一人が立ち上がり、彼女を問い詰めた。
「直人にあれだけのことをしておいて、今度は助けてほしいのか?」
「自分で決めたことだろう。夫を裏切ったのも、会社で問題を起こしたのも。困ったら直人に尻拭いさせるつもりか?」
俺は友人たちを制し、立ち上がって美月の前まで歩いた。
彼女の目には、まだ期待が残っていた。自分が弱った姿を見せれば、俺が以前のように折れてくれると思っているのだろう。
「助けてほしいんだな」
美月の顔が明るくなった。
俺は続けた。
「本当に助けが必要なら、まず自分が何をしたのか、きちんと説明することだ。夫婦の間で裏切ったことも、会社の管理をおろそかにしたことも、俺に責任を押しつけたことも。自分のしたことから逃げずに向き合ってくれ」
「事実を文章にまとめてもいい。弁護士を通して、必要な手続きを進めてもいい。自分がしたことを認めて、負うべき責任を果たす。生活を立て直すなら、そこから始めるしかないだろう」
美月の顔から期待が消えていった。俺が借金を肩代わりするとでも思っていたのかもしれない。だが、俺が示したのは、彼女自身が避け続けてきた問題と向き合うことだった。
長い沈黙のあと、美月は急に声を荒らげた。
「久我直人、どうしてそんな人間になったの? 昔のあなたなら、私にこんな言い方はしなかった! 私がどれだけ苦しんでいるか、わかっているでしょう? どうして追い詰めるのよ!」
俺は声を荒らげなかった。
「俺は、君が俺にしたことを忘れていない。それでも、自分で向き合う機会は残しているつもりだ。あのとき、君は俺に悠真の責任を引き受けろと言った。俺がどんな気持ちだったか、考えたことはあるのか?」
美月は言葉に詰まり、顔色を変えた。バッグの持ち手を強く握り、尊厳を守ることと、現実の借金に向き合うことの間で迷っているようだった。
やがて、彼女はかすれた声で答えた。
「わかった……。ちゃんと対応する。説明すべきことは、説明するわ」
俺は首を横に振った。
「もういい。謝罪を受け入れるつもりもないし、これ以上、君のために何かをするつもりもない。今後、用件があるなら弁護士を通してくれ」
美月は呆然と俺を見つめていた。何を言っても、もう二人の関係は変わらない。そのことを、彼女もようやく理解したのだろう。
俺がいつまでも同じ場所にいて、彼女が振り向くのを待ち続けると思っていたのかもしれない。説明を待ち、謝罪を待ち、ときどき与えられる優しさを待つ。そんな日々は、とうに終わっていた。
美月の感情が再び爆発した。
彼女はバッグから果物ナイフを取り出し、俺に向かって突進してきた。
「久我直人! あなたが私の人生をめちゃくちゃにしたのよ!」
友人たちが悲鳴を上げた。
俺は身構えていたため、素早く身体を横へずらした。刃先は脇をかすめただけだった。異変に気づいた店のスタッフがすぐに駆けつけ、美月を取り押さえ、警察へ通報した。
警察が到着すると、美月は連行され、刃物を使った傷害行為について事情を聞かれることになった。俺も警察に経緯を説明し、現場に関する資料を提出した。
個室には再び静けさが戻った。
友人たちは動揺したまま、俺が怪我をしていないか何度も確かめてきた。俺は大丈夫だと伝え、テーブルのグラスを手に取った。
「もう大丈夫だ。せっかく集まったんだから、これ以上、今日のことに振り回されるのはやめよう」
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音がした。
窓の外には街の灯りが広がり、道路を車が途切れることなく走っていた。俺はもう、過去の結婚に縛られることなく、自分の生活を考えていける。
それから一年後、知らない番号から電話がかかってきた。
相手は、関係者への連絡を担当しているという職員だった。美月の生活状況がかなり悪化していると説明された。借金や仕事の問題で長くストレスを抱え、体調も崩している。頼れる相手がほとんどいないため、状況が悪くなったときに連絡してほしいと、彼女は俺の電話番号を残していたらしい。
俺は黙って話を聞いた。詳しい事情を尋ねることはしなかった。
「すみませんが、私たちはすでに離婚しています。彼女のことは、通常の手続きに従って対応してください。私はもう連絡先として扱われる立場ではありませんし、彼女に代わって何かを決めることもできません」
電話を切り、オフィスの大きな窓の前へ歩いた。
眼下には、賑やかな汐凪市の街並みが広がっていた。陽光がガラス越しに机へ差し込み、遠くの道路は街の向こうへ伸びている。これからの仕事の予定も、新しい生活の計画も、まだいくつも待っていた。
あの結婚から学んだことを忘れるつもりはない。
ただ、過去にこれからの人生まで決めさせるつもりもなかった。
俺の新しい人生は、まだ始まったばかりだ。




