虚像の軍師
序章 ただ静かに暮らしたいだけなのに
──私はただ、静かに暮らしたかった。
庭に咲く花を眺め、妻と茶を酌み交わし、季節の移ろいを感じながら日々を過ごす。そんなささやかな望みこそが、私のすべてだった。
だが世間は、私を放ってはおかなかった。
一度、稲葉山城を奪っただけで「天才軍師」と呼ばれ、城を返しただけで「器の大きい英雄」と讃えられた。私の望みとは裏腹に、虚像は勝手に膨らんでいった。
私はただ、妻と笑って暮らしたいだけなのに。
私はただ、人に会いたいだけなのに。
それでも世間は耳を貸さない。
私の意志とは無関係に、私の名は広がり、伝説は形を成していった。
──こうして、私の「物語」は始まってしまった。
第一話 稲葉山城を奪っただけなのに
──どうして、こうなったのだろう。
私はただ、妻と静かに暮らしたかった。
朝は庭に咲く花を眺め、昼は茶を点て、夜は妻の笑顔を見ながら眠る。そんな日々を望んでいただけだ。戦も権力も、私には縁遠いものだった。
妻は小柄で、笑うと頬にえくぼができる。私が疲れて帰ると、必ず湯を沸かし、柔らかな声で「おかえりなさい」と迎えてくれる。その瞬間だけで、私は生きていてよかったと思える。彼女と過ごす時間こそが、私のすべてだった。
だが、斎藤龍興の家中に仕えてからというもの、私は笑い者にされ続けた。
「半兵衛は役立たずだ」「女にうつつを抜かす軟弱者だ」──そんな陰口が絶えなかった。宴席では盃を渡されず、軍議では意見を聞かれることもない。若輩の武士にまで鼻で笑われ、私はただ黙って耐えるしかなかった。
妻は心配そうに私を見つめる。
「あなたは、どうしてそんなに我慢するのですか」
私は答えられなかった。彼女に胸を張れるようなことを、何ひとつしていなかったからだ。
だから、私は決意した。
稲葉山城を奪う。
理由はただ一つ──もう笑われたくなかった。妻に胸を張りたかった。
夜半、城の守りは緩んでいた。私はわずかな仲間と忍び込み、拍子抜けするほど容易く城を掌握した。
城門は開け放たれ、兵は酔い潰れて眠っていた。火矢も槍も必要なかった。私はただ歩いて、城の中枢に座した。
「これで、もう馬鹿にされない」
そう思った。私はただ、妻と穏やかに暮らすための小さな勝利を得ただけだった。
だが翌日から世間は騒ぎ立てた。
「半兵衛こそ天才軍師」
「戦国随一の知略家」
「若き英雄」
──笑止千万だ。私はただ、妻と静かに暮らしたいだけなのに。
城を奪ったことで、私は逃げ場を得たはずだった。
だが世間は勝手に虚像を膨らませ、私を「名将」として祭り上げる。
妻は微笑んでくれた。
「あなたはすごい人なのね」と。
私は首を振った。違うのだ。私はただ、あなたと笑って暮らしたいだけなのだ。
それでも世間は耳を貸さない。
私の望みとは裏腹に、虚像は膨らみ続けていく。
──こうして、私の「伝説」が始まってしまった。
第二話 隠居しただけなのに
──私はただ、休みたかった。
稲葉山城を奪ったあの日から、世間は私を「天才軍師」と呼び始めた。
だが、私はそんなものになりたかったわけではない。妻と庭を眺め、季節の移ろいを感じながら、のんびりと暮らしたいだけだった。
城を奪った翌朝、私は仲間を集めて言った。
「この城は返す。斎藤龍興にだ。」
ざわめきが広がった。誰もが耳を疑った。
「せっかく奪ったのに、なぜ返すのですか」
「天下に名を轟かせる好機では」
私は答えなかった。いや、答えられなかった。
私の望みはただ、妻と静かに暮らすこと。城主になる気など毛頭ない。
妻は私の袖を引き、微笑んだ。
「やっぱり、あなたはあなたね。城なんてなくても、私は満ち足りています。」
その言葉で決意は固まった。私は城を返した。
龍興は屈辱に顔を歪めながらも、安堵の色を隠せなかった。
城を失った恥は消えないが、取り戻せたことで彼は命拾いをしたのだ。
だが世間は、また勝手に解釈した。
「半兵衛は謙虚だ」
「器が大きいからこそ、権力を求めないのだ」
「真の英雄は名を欲しがらぬ」
──笑止千万だ。私はただ、面倒を避けたかっただけなのに。
城を返した後、私は隠居を決めた。
戦場から離れ、静かな暮らしに戻ろうとした。
妻は喜んでくれた。
「これで、ようやく一緒に過ごせますね」と。
私は頷いた。庭に咲く花を眺め、茶を点て、彼女と笑い合う。そんな日々こそが、私の望みだった。
だが世間は、また勝手に騒ぎ立てた。
「半兵衛は真に謙虚な人だ」
「権力に背を向けるその姿こそ、器の大きさの証」
「天下の知略家は、名を求めぬからこそ尊い」
──違うのだ。私はただ、妻と静かに暮らしたいだけなのだ。
庭で妻と並んで座っていると、風が頬を撫でた。
彼女は私を見つめ、静かに言った。
「あなたが選んだ道なら、私はそれで幸せです。」
私は首を振った。違うのだ。私はただ、あなたと笑って暮らしたいだけなのだ。
それでも世間は耳を貸さない。
私の望みとは裏腹に、虚像はさらに膨らんでいく。
隠居しただけなのに、私は「謙虚で器の大きい名将」として語られる。
──こうして、私の「伝説」はまた一歩、私の意志とは無関係に進んでしまった。
第三話 織田家に入っただけなのに
──私はただ、市姫に会いたかった。
稲葉山城を返し、隠居して妻と静かな日々を過ごしていたはずなのに、世間は私を放っておかなかった。
「半兵衛は器が大きい」「真の英雄は名を求めぬ」──そんな言葉が勝手に飛び交い、私の名は美濃を越えて広がっていった。
やがて、織田信長から呼び出しが来た。
「竹中半兵衛、我がもとに参れ」
人々は騒ぎ立てた。
「信長公が認めたのだ」「天下の知略家が織田家に入る」
──笑止千万だ。私はただ、市姫に会いたかっただけなのに。
妻は少し寂しそうに微笑んだ。
「あなたが選んだ道なら、私は待っています」
私は頷いた。心の奥では、妻と離れることに痛みを覚えながらも、市姫の姿を一目見たいという欲望に抗えなかった。
織田家に入った私は、すぐに木下藤吉郎の傘下に組み込まれた。
「天下の知略家も、まずは秀吉の下で働け」──そう言われたとき、私は心底がっかりした。
市姫に会いたいだけなのに、なぜ藤吉郎の下で雑務をこなさねばならぬのか。
だが世間はまた勝手に騒ぎ立てた。
「信長公が半兵衛を重用した」
「秀吉の下に置かれたのは、信長の深慮遠謀」
「織田家の未来を担う名将」
──違うのだ。私はただ、市姫に会いたいだけなのだ。
ある日、ようやく市姫に会えた。
彼女が現れた瞬間、空気が変わった。
白い衣が風に揺れ、陽の光を受けて淡く輝いていた。まるで雪の中に咲いた梅の花のように、凛とした清らかさを放っていた。
顔立ちは端正で、眉は細く、瞳は澄んだ水面のように静かに光を宿していた。視線が私に向けられたとき、胸の奥が熱くなり、言葉を失った。
唇は紅を差さずとも自然な艶を帯び、微笑むと頬に柔らかな影が生まれる。その一瞬に、私は戦も権力もどうでもよくなった。
声は澄んでいて、まるで琴の音のように耳に響いた。
「あなたが半兵衛殿ですか」
その一言だけで、私は心を奪われた。
彼女の美しさは、華やかさよりも清らかさにあった。
飾り立てることなく、ただそこに立つだけで人の心を揺さぶる。まるで月が雲間から顔を覗かせるように、静かでありながら圧倒的な存在感を放っていた。
──私はただ、この人に会いたかっただけなのだ。
だが世間は、その邂逅を「信長公の信任の証」として語り継いだ。
私の望みとは裏腹に、虚像はさらに膨らんでいく。
──私はただ、市姫に会いたかっただけなのに。
第四話 市姫を救いたかっただけなのに
──私はただ、市姫を救いたかった。
浅井長政に嫁いだ市姫は、戦の渦に巻き込まれていた。浅井家が織田に背き、やがて滅びゆくとき、彼女もまた城に囚われる身となった。世間は「浅井攻めは天下の分岐点」と騒ぎ立てたが、私の心はただ一つのことに向かっていた。──市姫を取り戻せるかどうか。
織田軍が浅井を攻めるとき、私は自ら名乗り出た。
「市姫の救出は、私に任せてほしい」
人々は驚いた。
「半兵衛が自ら救出役を務めるとは」
「信長公の妹を救う使命を担うとは、やはり名将だ」
──違うのだ。私はただ、市姫を救いたかっただけなのだ。
戦場は血と煙に包まれていた。炎に焼かれる城壁を前に、私は必死に進んだ。槍を避け、矢をかわし、ただ市姫のいる場所へと向かった。
彼女は茶々たち三姉妹を庇うように立っていた。白い衣は煤に汚れながらも、毅然とした眼差しを失わなかった。幼い茶々は怯えながらも澄んだ瞳で周囲を見つめ、初は姉の袖を握りしめ、小督は泣きじゃくりながら必死に立っていた。
私は声を張り上げた。
「市姫、こちらへ!」
彼女が振り向いた瞬間、胸の奥が熱くなった。戦も権力もどうでもよかった。ただ、この人を救い出すこと、それだけが私の望みだった。
やがて彼女と三姉妹を抱き寄せ、炎の中を抜け出した。
私はただ、妻に胸を張りたかった。──「市姫を救った」と言えることで、彼女に誇れると思ったのだ。
だが世間は、また勝手に解釈した。
「半兵衛は信長公の妹を救った英雄だ」
「浅井攻めの立役者」
「歴史の証人」
──笑止千万だ。私はただ、市姫を救いたかっただけなのに。
妻にそのことを話すと、彼女は静かに微笑んだ。
「あなたは本当に、人を救うために生きているのね」
私は頷いた。そうなのだ。私はただ、人に会い、人を救いたいだけなのだ。戦も権力も、私にはどうでもいい。
それでも世間は耳を貸さない。
私の望みとは裏腹に、虚像はさらに膨らんでいく。
市姫を救っただけなのに、私は「英雄」として語られる。
──こうして、私の「伝説」はまた一歩、私の意志とは無関係に進んでしまった。
第五話 京都に隠れただけなのに
──私はただ、拗ねていただけなのだ。
浅井攻めで市姫を救ったはずなのに、彼女はやがて柴田勝家に嫁いだ。織田家の重臣にふさわしい縁組だと人々は言ったが、私にとってはただ「奪われた」という事実だった。
茶々もまた、成長するにつれて秀吉の側室となった。幼い頃に会えただけで満ち足りていたはずなのに、結局は権力者のものとなった。
私はただ会いたかっただけなのに、すべて奪われてしまった。
心は空虚だった。戦も権力もどうでもよかった。市姫も茶々も遠ざかり、妻の笑顔さえも私の胸を満たさなくなっていた。私は不貞腐れ、「病」と称して京都に隠棲した。
京の町は華やかだった。寺の鐘が響き、茶屋の笑い声が流れる。だが私はその喧騒に背を向け、ひっそりと暮らした。愛人と共に、庭に咲く花を眺め、酒を酌み交わし、世間の騒ぎから遠ざかる。そんな日々こそが、私の望みだった。
「半兵衛は病に伏した」──その噂は瞬く間に広がった。
人々は「才を惜しまれる天才軍師」と口々に言った。
「病さえなければ天下を動かしただろう」
「若くして病に倒れるとは、惜しいことだ」
──笑止千万だ。私はただ、拗ねて京都に隠れただけなのに。
だが世間は、また勝手に解釈した。
「半兵衛は病に倒れながらも、なお知略を練っている」
「彼の才は惜しまれる。織田家の未来を担うべき人材だった」
「病床に伏してなお、天下の行く末を見通していた」
──違うのだ。私はただ、愛人と静かに暮らしたかっただけなのだ。
妻は私の選択を知り、静かに涙を流した。
「あなたはもう、遠い人になってしまったのね」
その言葉が胸に刺さった。私はただ、逃げていただけなのに。
それでも世間は耳を貸さない。
私の望みとは裏腹に、虚像はさらに膨らんでいく。
京都に隠れただけなのに、私は「才を惜しまれる天才軍師」として語られる。
──こうして、私の「伝説」はまた一歩、私の意志とは無関係に進んでしまった。
第六話 薄幸の天才軍師となっただけなのに
──私はただ、拗ねていただけなのだ。
京都に隠棲し、「病」と称して世間から距離を置いていた。愛人と静かに暮らし、庭の花を眺め、酒を酌み交わす日々。世間の喧騒から離れ、それで満ち足りていた。
だが、皮肉なことに──本当に病に罹ってしまった。
最初は咳が続くだけだった。やがて熱が下がらず、身体は痩せ細り、歩くことさえ難しくなった。医師は首を振り、余命は僅かだと告げた。
私はただ、静かに暮らしたかっただけなのに。
世間はまた勝手に騒ぎ立てた。
「半兵衛は若くして病に倒れた」
「才を惜しまれる天才軍師」
「薄幸の英雄」
──笑止千万だ。私はただ、拗ねていただけなのに。
病床に伏す私のもとを訪れる者は後を絶たなかった。
「知略を授けてほしい」
「天下の行く末を占ってほしい」
私は首を振った。そんなものは持っていない。ただ、妻と笑って暮らしたかっただけなのだ。
愛人は私の枕元で涙を流した。
「あなたは、私のすべてでした」
妻は遠くから便りを寄せた。
「あなたはもう、私の届かぬ人になってしまったのね」
私はただ、人に会いたかっただけなのに。
やがて、世間は私を「薄幸の天才軍師」として語り継いだ。
病に倒れ、若くして命を落とした英雄。
知略を持ちながらも、運命に翻弄された悲劇の人。
──違うのだ。私はただ、拗ねていただけなのに。
それでも世間は耳を貸さない。
私の望みとは裏腹に、虚像は完全に完成した。
私は「薄幸の天才軍師」として伝説となり、私自身の声はもう誰にも届かなくなった。
──こうして、私の「伝説」は私の意志とは無関係に、永遠へと歩み始めてしまった。
第七話 死んだだけなのに
──私はただ、死んだだけなのだ。
京都に隠棲し、「病」と称していたら、本当に病に罹ってしまった。
余命僅かと告げられ、日ごとに身体は痩せ細り、声も弱くなっていった。愛人は枕元で涙を流し、妻は遠くから便りを寄せた。私はただ、静かに人の温もりに包まれて逝きたかった。
だが世間は、また勝手に騒ぎ立てた。
「半兵衛は薄幸の天才軍師」
「若くして病に倒れた悲劇の英雄」
「その才は天下を変えたはずなのに、運命に阻まれた」
──笑止千万だ。私はただ、死んだだけなのに。
死後、私の名はさらに膨らんだ。
「稲葉山城を奪った奇策」
「城を返した器の大きさ」
「信長に認められた知略」
「浅井攻めで市姫を救った勇気」
「病に倒れた悲劇」
人々はそれらをつなぎ合わせ、私を「伝説」とした。
私の実像──妻と静かに暮らしたいだけの男、拗ねて京都に隠れただけの男──は、誰の記憶にも残らなくなった。
私はただ、人に会いたかっただけなのに。
私はただ、妻と笑って暮らしたかっただけなのに。
それでも世間は耳を貸さない。
私の望みとは裏腹に、虚像は完全に完成した。
私は「薄幸の天才軍師」として永遠に語り継がれる。
──こうして、私の「伝説」は私の意志とは無関係に、永遠へと歩み始めてしまった。
終章 伝説となっただけなのに
──私はただ、静かに暮らしたかった。
庭に咲く花を眺め、妻と茶を酌み交わし、人に会い、笑い合う。そんな日々こそが、私の望みだった。
だが世間は、私を放ってはおかなかった。
稲葉山城を奪っただけで「天才軍師」と呼ばれ、城を返しただけで「器の大きい英雄」と讃えられた。市姫に会いたいだけなのに「信長に認められた名将」とされ、茶々に会えただけなのに「歴史の証人」とされた。
不貞腐れて京都に隠れただけなのに「才を惜しまれる天才」とされ、病に倒れただけなのに「薄幸の英雄」とされた。
──違うのだ。私はただ、人に会いたかっただけなのだ。
だが世間は耳を貸さない。
私の望みとは裏腹に、虚像は完全に完成した。
死後、私の名は伝説となり、私自身の声はもう誰にも届かなくなった。
妻の笑顔も、愛人の涙も、私の実像を語る者はいない。
残されたのは「薄幸の天才軍師」という虚像だけ。
──私はただ、静かに暮らしたかっただけなのに。
それでも世間は、私を永遠に語り継ぐ。
私の意志とは無関係に、私の「伝説」は歴史の中で歩み続ける。




