第9話「野営の夜」
リベルタまで、あと二日。
レオンは、そう言った。
森の中を、私たちは歩き続けた。
灰色の狼と、向日葵の王女と、献身的な侍女。
奇妙な、三人組。
◇
五日目の夕方。
レオンは、森の中に野営の場所を見つけた。
小さな泉のそばに、平らな場所。
木々に囲まれていて、外からは見えにくい。
「ここで、夜を明かす」
レオンが言った。
私とマルタは、荷物を降ろした。
疲れた。
足が、痛い。
でも、文句は言えなかった。
レオンは、黙々と火を起こし始めた。
慣れた手つき。
一言も発さず。
あっという間に、火が燃え上がった。
夜が、近づいてくる。
森が、暗くなっていく。
鳥の声が、遠ざかる。
代わりに、虫の声が聞こえ始める。
私は、火のそばに座った。
温かい。
マルタも、隣に座る。
レオンは、立ったまま周囲を警戒していた。
その背中が、火に照らされている。
傷だらけの、背中。
「レオンさん」
私は、声をかけた。
「座ってください。休んでください」
「いい」
レオンは、短く答えた。
「俺が見張る」
「でも」
「お前たちは、休め」
レオンの声に、迷いはなかった。
私は、何も言えなかった。
この人は、ずっと私たちを守ってくれている。
休む暇もなく。
マルタが、小さく囁いた。
「アリア様、あの方は本当に優しいですね」
「ええ」
私は頷いた。
「不器用だけど、優しい」
レオンの背中を見つめた。
孤独な、狼の背中。
どれだけの戦いを、してきたのだろう。
何を、失ってきたのだろう。
◇
夜が、深まった。
マルタは、眠っている。
毛布に包まって、穏やかな寝息。
私は、まだ起きていた。
眠れなかった。
父上のことを、思い出してしまう。
城門で倒れた姿を。
最後の言葉を。
「生きろ」
私は、生きている。
約束を、守っている。
でも、これからどうすればいいのか。
わからない。
「眠れないのか」
レオンの声が、聞こえた。
「はい」
私は答えた。
レオンが、火のそばに座った。
珍しい。
いつもは、立ったまま警戒しているのに。
「無理するな」
レオンが言った。
「体を壊すぞ」
「大丈夫です」
私は、微笑んだ。
「レオンさんこそ、休んでください」
「俺は、慣れてる」
レオンは、火を見つめた。
沈黙が、落ちた。
火が、パチパチと音を立てる。
私は、レオンの横顔を見た。
傷だらけの顔。
でも、整っている。
鋭い目。
でも、時々優しい。
レオンの手に、古い傷がたくさんある。
どれも深く、痛々しい。
この人は、どれだけ戦ってきたのだろう。
何と戦ってきたのだろう。
そして、何を失ったのだろう。
「レオンさん」
「何だ」
「あなたの、妹さんのこと」
私は、ゆっくりと言った。
「聞いてもいいですか」
レオンは、しばらく黙っていた。
長い沈黙。
拒絶されるかと思った。
でも。
「エマ」
レオンが、小さく呟いた。
それだけだった。
「エマ、さん」
私は、その名前を繰り返した。
レオンは、何も言わなかった。
ただ、懐から何かを取り出した。
小さな、向日葵の種。
火に照らされて、黄金色に輝いている。
「これを、握ってた」
レオンが、ぽつりと言った。
それだけ。
でも、その言葉の重さが、わかった。
私は、息を呑んだ。
妹さんの、形見。
最期まで、握っていた種。
レオンの手が、震えている。
種を、握りしめている。
私は、何も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
この人の痛みは、深すぎる。
言葉にできないほど。
沈黙が、続いた。
火の音だけが、響く。
レオンは、じっと種を見つめている。
その目に、何かが浮かんでいた。
悲しみ。
後悔。
そして、愛情。
「いつか、蒔きたい」
レオンが、ぽつりと言った。
その声が、震えていた。
「はい」
私は頷いた。
「一緒に、蒔きましょう」
レオンは、私を見た。
その目が、少し潤んでいた。
小さく、頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
でも、それでいい。
今は、ただそばにいる。
それだけで、十分。
私は、自分の種を取り出した。
父上から受け継いだ、向日葵の種。
「私も、持っています」
二人で、種を見つめた。
小さな、種。
でも、そこには大きな想いが込められている。
失った人々への。
未来への。
レオンが、小さく微笑んだ。
不器用だけど、優しい微笑み。
「一緒に、咲かせよう」
レオンが言った。
短い言葉。
でも、その言葉に、全てが込められていた。
「はい」
私は微笑んだ。
二人の種。
いつか、一緒に蒔く。
エマさんのためにも。
父上のためにも。
失った全ての人々のために。
沈黙が、落ちた。
でも、暖かい沈黙。
二人で、火を見つめる。
種を、握りしめて。
時間が、ゆっくりと流れていく。
「寝ろ」
レオンが言った。
「明日も、早い」
「はい」
私は立ち上がった。
でも、その前に。
「レオンさん」
「何だ」
「ありがとうございます」
私は、真っ直ぐレオンを見た。
「あなたがいてくれて」
レオンは、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
私は、マルタのそばに戻った。
毛布に包まる。
心が、暖かかった。
今日、レオンのことを少し知れた。
エマさんのことも。
そして、レオンの痛みも。
でも、全てを知る必要はない。
少しずつ、でいい。
この人は、不器用だから。
言葉にするのが、苦手だから。
だから、待つ。
いつか、話してくれる日まで。
私は、目を閉じた。
そして、眠りに落ちた。
◇
夜中。
私は、目を覚ました。
何かの気配を感じて。
レオンが、まだ起きていた。
火のそばに座って、種を見つめている。
その背中が、とても小さく見えた。
孤独な、背中。
でも、もう一人じゃない。
私がいる。
マルタもいる。
一緒に、向日葵を咲かせる。
レオンは、種を懐にしまった。
そして、立ち上がって周囲を警戒し始めた。
ずっと、私たちを守ってくれている。
休まずに。
私は、また目を閉じた。
この人を、信じよう。
一緒に、歩こう。
向日葵を咲かせる、その日まで。
◇
翌朝。
私は、鳥の声で目を覚ました。
朝日が、木々の間から差し込んでいる。
暖かい。
レオンは、もう起きていた。
火を消し、荷物をまとめている。
一晩中、起きていたのだろうか。
顔に、疲れが見える。
でも、何も言わない。
「おはようございます」
私は、声をかけた。
「ああ」
レオンは、短く答えた。
「準備しろ。すぐ出る」
「はい」
私は、マルタを起こした。
二人で、荷物をまとめる。
昨夜の会話が、頭によぎる。
エマさんのこと。
向日葵の種。
レオンの、小さな微笑み。
全てが、現実だった。
私は、懐の種を確認した。
まだ、ある。
レオンも、自分の種を持っている。
いつか、一緒に蒔く。
その日が、楽しみだった。
「行くぞ」
レオンが言った。
私たちは、歩き出した。
リベルタへ。
あと、一日。
もうすぐ、着く。
新しい人生が、始まる。
レオンと共に。
マルタと共に。
そして、いつか。
向日葵を、咲かせる。
エマさんの分も。
父上の分も。
失った全ての人々の分も。
私は、前を向いた。
レオンの背中を追って。
灰色の狼の、背中を。
昨夜より、少しだけ。
その背中が、近く感じた。
もう、一人じゃない。
私たちは、共に歩く。
希望を胸に。
森を抜ける。
朝の光が、まぶしい。
レオンが、立ち止まった。
前方を、見つめている。
私も、同じ方向を見た。
木々の隙間から、何かが見える。
城壁。
街。
「見えたか」
レオンが言った。
「はい」
私は頷いた。
リベルタ。
もうすぐ、着く。
新しい場所。
新しい人生。
でも、一人じゃない。
レオンがいる。
マルタがいる。
向日葵の種がある。
それだけで、十分だった。
「行こう」
レオンが、歩き出した。
私は、その背中を追った。
もう、迷わない。
前を向いて。
向日葵のように。
太陽を向いて。
私たちは、リベルタへと歩いていった。
灰色の狼と、向日葵の王女。
新しい未来へ。




