第7話「父の最期」
分かり合えなかった父との、約束を果たすために。
そう誓った、あの冬から。
三年の月日が流れた。
そして、その時は来た。
別れの、時が。
◇
三年前の冬から、三年後。
私は、十八歳になっていた。
あの日以来、父上とは言葉を交わしていなかった。
顔を合わせても、挨拶だけ。
父上は、戦の準備を続けた。
私は、図書館に籠もった。
前世の知識を蓄え、いつか役立つ日を待った。
でも、その日は来なかった。
いや、来たのだ。
国が滅びるという形で。
春。
十八歳の春分の日。
私の誕生日。
その日、帝国軍が国境を越えた。
報せは、瞬く間に城に届いた。
私は、謁見の間にいた。
父上が、玉座に座っている。
廷臣たちが、青ざめた顔で立っている。
クラウスも、マルタも。
皆、そこにいた。
「帝国軍、五万。国境の砦を突破」
伝令が、息を切らせて報告する。
「このままでは、三日で王都に到達します」
謁見の間が、静まり返った。
誰もが、知っていた。
この日が、来ることを。
でも、誰も止められなかった。
父上は、動かなかった。
ただ、玉座に座って、前を見ている。
「全軍、出撃の準備を」
父上の声が、響いた。
「陛下」
宰相が言った。
「まだ、降伏の使者を」
「必要ない」
父上は、立ち上がった。
「我々は、戦う」
「ですが」
「これは、命令だ」
父上の目が、厳しかった。
宰相は、深く頭を下げた。
廷臣たちも、一斉に。
私だけが、立ったままだった。
父上と、目が合った。
三年ぶりに、真っ直ぐ見つめ合った。
父上の目に、何かが浮かんでいた。
悲しみ?
後悔?
いや、違う。
決意だ。
揺るぎない、決意。
私は、何も言えなかった。
ただ、父上を見つめていた。
父上は、小さく頷いた。
そして、謁見の間を出ていった。
廷臣たちも、続く。
気づけば、私とマルタだけが残されていた。
「アリア様」
マルタが、震える声で言った。
「大丈夫ですか」
「ええ」
私は頷いた。
でも、足が震えていた。
ついに、来た。
戦争が。
父上が選んだ、戦争が。
◇
その日の夕方。
私は、向日葵畑にいた。
まだ芽吹いたばかりの、小さな緑の葉たち。
三年前と、同じ。
あの日も、春分の日だった。
前世の記憶を、思い出した日。
そして、今日。
十八歳の誕生日。
国が滅びる日。
風が、吹いた。
まだ冷たい、春の風。
でも、どこか暖かい。
足音が聞こえた。
振り返ると、父上が立っていた。
鎧を着ている。
剣を腰に帯びている。
出陣の、準備。
「父上」
私は、立ち上がった。
「アリア」
父上は、向日葵畑を見た。
「ここにいたのか」
「はい」
私は頷いた。
「昔から、好きな場所でしたから」
父上は、小さく微笑んだ。
「お前の母も、ここが好きだった」
「母上が?」
「ああ」
父上は、遠くを見た。
「お前が生まれた日も、ここにいた」
私は、何も言えなかった。
母のことは、ほとんど知らない。
生まれてすぐ、亡くなったから。
「母さんは、言っていた」
父上が続けた。
「この子に、向日葵のような人生を」
「向日葵のような?」
「ああ」
父上は、私を見た。
「太陽を向いて、真っ直ぐに生きる。それが向日葵だ」
その言葉に、胸が熱くなった。
「お前は、その通りに育った」
父上は、私の頭に手を置いた。
「優しく、強く、真っ直ぐに」
「父上」
「だが、私とは分かり合えなかった」
父上の目が、悲しそうだった。
「それは、私のせいだ」
「いいえ」
私は首を振った。
「私のせいです」
「アリア」
「私が、理解しようとしなかった」
涙が溢れそうになった。
「父上の想いを」
父上は、しばらく黙っていた。
そして、深く息を吐いた。
「アリア。お前は、間違っていない」
「え?」
「誇りより、命。お前の言う通りだ」
父上の声が、優しかった。
「民を想い、命を大切にする。それは、正しい」
「父上」
「だが、私には私の、守るべきものがあった」
父上は、向日葵畑を見た。
「この国の誇り。二百年の歴史。先祖から受け継いだもの」
「それより、命を」
「わかっている」
父上は頷いた。
「お前の言うことも、わかっている」
「なら、なぜ」
「だが、私は王だ」
父上は、私を見た。
「王として、誇りを選んだ」
私は、何も言えなかった。
父上の目に、迷いはなかった。
「お前の母が、最期に言った言葉を知っているか」
父上が、急に言った。
「いいえ」
「『アリアを、頼みます』」
父上の声が、震えた。
「『向日葵のように、育ててください』と」
涙が、溢れそうになった。
「私は、約束を守った」
父上は、私を見た。
「お前を、向日葵のように育てた」
「父上」
「だから、お前も約束を守ってくれ」
父上の目が、真剣だった。
「生きて、向日葵を咲かせると」
「アリア」
「はい」
「生きろ」
父上が言った。
「この国が滅びても、お前は生きろ」
「父上、何を」
「約束してくれ」
父上の手が、私の肩を掴んだ。
「必ず、生き延びると」
「でも」
「私は、戦う」
父上の声が、低くなった。
「この城で、最後まで戦う」
「父上!」
「だが、お前は違う」
父上は、私を抱きしめた。
「お前は、逃げろ」
「そんな」
「城が陥ちる前に、逃げるんだ」
父上の声が、震えていた。
「そして、生きろ」
「父上」
「向日葵を、咲かせろ」
父上は、私を離した。
その目に、涙が浮かんでいた。
「この国が、確かに存在したという証として」
その言葉に、私は何も言えなかった。
三年前。
私が、父上に言った言葉。
覚えていてくれたのか。
「約束してくれ、アリア」
父上が、私の目を見た。
「必ず、生き延びると」
私は、涙をこらえて頷いた。
「約束します」
父上は、小さく微笑んだ。
「良い子だ」
父上は、向日葵畑を見た。
「お前の母も、喜んでいるだろう」
「母上」
「ああ。天国で、見ているはずだ」
父上は、私に背を向けた。
「行くぞ。もうすぐ、日が暮れる」
父上は、歩き出した。
私は、その背中を見つめた。
鎧に覆われた、小さな背中。
もう、会えないかもしれない。
最後かもしれない。
「父上」
私は、叫んだ。
父上が、立ち止まった。
「愛しています」
私は、涙を流しながら言った。
「ずっと、愛していました」
父上は、振り返らなかった。
でも、肩が震えていた。
「私も、だ」
小さな声が、風に乗って聞こえた。
「ずっと、愛していた」
そして、父上は歩いていった。
向日葵畑を離れ、城へ。
戦場へ。
私は、その場に座り込んだ。
涙が、止まらなかった。
分かり合えなかった。
でも、愛し合っていた。
それだけは、確かだった。
◇
その夜。
帝国軍が、王都に迫った。
城壁の外に、無数の松明が見える。
まるで、星のように。
でも、それは死の光。
私は、部屋で荷物をまとめていた。
マルタが、手伝ってくれている。
「アリア様」
マルタが言った。
「本当に、よろしいのですか」
「ええ」
私は頷いた。
「父上との、約束だから」
マルタは、悲しそうに微笑んだ。
「私も、ついて参ります」
「マルタ」
「当然です」
マルタは、私の手を握った。
「あなた様と、どこまでも」
扉が、激しく叩かれた。
「アリア様!」
クラウスの声。
私は、扉を開けた。
クラウスが、血相を変えて立っていた。
「どうしたんですか」
「帝国軍が、城門を破りました」
クラウスの声が、震えていた。
「もう、時間がありません」
「父上は」
「陛下は、城門で戦っておられます」
クラウスは、私の腕を掴んだ。
「早く、逃げてください」
「でも、父上を」
「陛下のご命令です」
クラウスの目が、真剣だった。
「あなた様を、逃がせと」
私は、唇を噛み締めた。
父上。
最後まで、私を守ろうとしている。
「わかりました」
私は、荷物を持った。
懐を探る。
向日葵の種。
三年前に拾った、あの種。
まだ、ある。
いつか、これを蒔く。
父上の想いと共に。
私は、種を握りしめた。
そして、マルタを見た。
「行きましょう」
「はい」
三人で、部屋を出た。
廊下を走る。
遠くから、剣がぶつかり合う音が聞こえる。
叫び声。
悲鳴。
城が、戦場になっている。
裏門へ向かう。
途中、何人もの使用人とすれ違った。
皆、怯えた顔をしている。
「王女様」
誰かが叫んだ。
「どうか、ご無事で」
私は、頷いて走り続けた。
裏門が見えた。
そこに、一頭の馬。
クラウスが、用意してくれたのだろう。
「アリア様」
クラウスが言った。
「この馬で、国境へ」
「クラウスさんは」
「私は、陛下のもとへ」
クラウスの目が、決意に満ちていた。
「騎士として、最後まで」
「クラウスさん」
「早く」
クラウスは、私を馬に乗せた。
マルタも、後ろに。
「リベルタを目指してください」
クラウスが言った。
「あそこなら、安全です」
「クラウスさん、ありがとう」
私は、涙を流しながら言った。
「生きて、また会いましょう」
クラウスは、小さく微笑んだ。
「ええ。必ず」
でも、その目は嘘をついていた。
もう、会えないと。
そう言っていた。
馬が、走り出した。
裏門を抜ける。
城が、遠ざかっていく。
炎に包まれた、城が。
私は、振り返った。
最後に、もう一度。
父上がいる、城を。
城門が見えた。
その前に、一人の騎士が立っている。
金色の髪。
鎧に覆われた、背中。
父上だ。
帝国兵が、何十人も襲いかかる。
父上は、一人で戦っている。
剣を振るう。
敵が、倒れる。
でも、数が多すぎる。
「父上!」
私は叫んだ。
でも、声は届かない。
風に消えていく。
父上が、また一人の敵を倒した。
その動きに、迷いはない。
王として。
騎士として。
誇りを持って、戦っている。
でも。
敵の数が、多すぎる。
父上の動きが、少しずつ鈍くなる。
疲労。
傷。
それでも、父上は剣を握り続けた。
そして。
父上が、膝をついた。
剣が、地面に突き刺さる。
それを支えに、立ち上がろうとする。
でも、体が動かない。
敵が、囲む。
剣が、振り上げられる。
「父上!」
私は、目を逸らそうとした。
でも、見ていなければ。
これが、最後なのだから。
剣が、振り下ろされた。
父上が、倒れた。
動かない。
もう、動かない。
「父上……」
私の声は、風に消えた。
涙が、止まらなかった。
マルタが、私を抱きしめた。
「アリア様」
「父上……父上……」
私は、マルタの肩で泣いた。
馬は、走り続けた。
城から、離れていく。
炎に包まれた、城から。
父上が倒れた、城から。
遠くから、悲鳴が聞こえた。
城壁が崩れる音。
全てが、灰になっていく。
でも、私は前を向けなかった。
ただ、振り返り続けた。
父上がいた場所を。
もう、見えない。
炎と煙に、覆われている。
でも、確かに見た。
父上の最期を。
誇りを持って戦い、誇りを持って散った、王の姿を。
「アリア様、前を」
マルタが言った。
「前を、向いてください」
私は、涙を拭った。
そして、前を向いた。
父上は、言った。
生きろと。
向日葵を咲かせろと。
その約束を、守らなければ。
私は、懐の種を握りしめた。
いつか、必ず。
この種を蒔く。
父上の想いと共に。
馬は、走り続けた。
闇の中を。
未来へ。
◇
それから、三日。
私たちは、森の中を進んでいた。
帝国兵に見つからないように。
食料も水も、わずかしかない。
でも、前に進むしかなかった。
三日目の夕方。
小さな村に着いた。
でも、村は焼かれていた。
家々が、黒く焦げている。
人の姿は、ない。
帝国軍が、通った後だ。
私は、馬から降りた。
村の中を、歩く。
全てが、灰になっている。
そこに、一人の老人がいた。
焼け跡に座り込んで、呆然としている。
「大丈夫ですか」
私は、老人に近づいた。
老人が、顔を上げた。
その目に、光はなかった。
「誰じゃ」
「旅の者です」
私は、水筒を差し出した。
「水を、どうぞ」
老人は、水を飲んだ。
そして、ぽつりと言った。
「王は、何をしておったのじゃ」
その言葉に、私は凍りついた。
「我々を、守ると言ったのに」
老人の声が、震えていた。
「帝国と戦うと、言ったのに」
「王は――」
私は、言葉を選んだ。
「王は、死にました」
老人が、私を見た。
「死んだ?」
「はい」
私は頷いた。
「城門で、最後まで戦いました」
「戦った……」
老人は、遠くを見た。
「剣を握りしめたまま、倒れたと聞きました」
私は続けた。
自分に言い聞かせるように。
「王は、誇りを持って戦い、誇りを持って散りました」
老人は、何も言わなかった。
ただ、焼け跡を見ている。
「守れなんだではないか」
老人の声が、絞り出すように小さかった。
「何も、守れなんだ」
その言葉が、胸に刺さった。
父上。
あなたは、何を守ったのですか。
誇り?
名誉?
でも、民は守れなかった。
国も、守れなかった。
私は、老人に食料を渡した。
「これを、どうぞ」
「済まんのう」
老人は、受け取った。
私たちは、村を後にした。
また、森の中へ。
マルタが、心配そうに私を見た。
「アリア様」
「大丈夫よ」
私は、微笑んだ。
でも、心は痛んでいた。
父上の選択は、正しかったのか。
誇りのために、戦ったのは。
でも、民は救えなかった。
答えは、出ない。
ただ、前に進むしかなかった。
◇
四日目の朝。
森の中で、私たちは帝国兵に囲まれた。
五人。
全員、剣を抜いている。
「動くな」
一人が言った。
「金目の物を、全て出せ」
マルタが、私を庇った。
「アリア様、お逃げください」
「マルタ」
「早く」
その時。
一人の帝国兵が、倒れた。
背中に、剣が刺さっている。
誰?
木々の向こうから、男が現れた。
灰色の髪。灰色の目。
傷だらけの顔。
レオン。
私を殺すために送られた、暗殺者。
でも。
レオンは、帝国兵を次々と倒していった。
まるで狼のように。
素早く。
的確に。
容赦なく。
あっという間に、五人全員が地面に倒れた。
レオンは、剣を鞘に収めた。
そして、私を見た。
灰色の瞳。
感情が読めない、瞳。
「怪我は」
「ない、です」
私は、震える声で答えた。
レオンは、少し考えて、言った。
「ついてこい」
「え?」
「帝国兵が、この辺りを巡回してる」
レオンは、歩き出した。
「安全な場所まで、案内する」
私は、マルタを見た。
マルタも、困惑している。
でも、選択肢はなかった。
この人は、私を殺すはずだった。
暗殺者。
でも、今、助けてくれた。
なぜ?
「早くしろ」
レオンが、振り返った。
「また、来るぞ」
私たちは、レオンについていった。
これが、レオンとの出会い。
全ての、始まり。
◇
現在。
リベルタの城門の前。
私は、レオンの背中を見ながら、思い出していた。
父上の最期。
城門で、一人戦う姿。
剣を握りしめて、倒れた姿。
分かり合えなかった、親子。
でも、愛し合っていた。
それだけは、確かだった。
「父上」
私は、心の中で呼びかけた。
「私は、生きています」
あなたとの約束を、守っています。
「そして、必ず」
向日葵を、咲かせます。
あなたの想いと共に。
あなたが守ろうとした、誇りと共に。
いつか、理解します。
あなたが何を守ろうとしたのか。
王の務めとは、何だったのか。
その日まで。
私は、生きる。
「アリア」
レオンが、振り返った。
「行くぞ」
「はい」
私は、前を向いた。
リベルタへ。
新しい人生へ。
父との約束を、果たすために。
懐の中の、向日葵の種。
いつか、必ず咲かせる。
一面の、黄色い花畑を。
父上。
見ていてください。
私は、前を向いて生きます。
向日葵のように。
太陽を向いて。




