第6話「分かり合えない親子」
父上、あなたは間違っている。
あの日、そう言った。
でも、父上の決意は変わらなかった。
そして、私たちは分かり合えないまま。
時だけが、過ぎていった。
◇
三年前。
十五歳の冬。
帝国への返答から、三ヶ月が経っていた。
父上は、帝国の要求を拒否した。
使者は、冷たく笑って去っていった。
それから、城の空気が変わった。
重苦しい。
まるで、嵐の前のような。
誰もが、知っていた。
戦争が、来ると。
廷臣たちは、連日会議を開いた。
軍備の増強。食料の備蓄。同盟国への使者。
でも、誰もが知っていた。
それでは、足りないと。
私は、図書館にいた。
父上の書斎から持ち出した、軍事書。
歴史書。戦術書。
前世の知識と、この世界の知識を。
必死に照らし合わせていた。
何か、方法があるはずだ。
弱小国が、大国に勝つ方法が。
ゲリラ戦。
焦土戦術。
持久戦。
前世の歴史で、弱者が勝った例。
ベトナム戦争。アフガニスタン。
でも。
それには、民衆の支持が必要だ。
外部からの支援も。
そして、何より。
時間が。
扉が開く音がした。
顔を上げると、父上が立っていた。
「父上」
私は立ち上がった。
「アリア。ここにいたのか」
父上は、部屋に入ってきた。
私の机を見る。
軍事書。歴史書。
そして、私が書いた、大量のメモ。
「勉強熱心だな」
「父上」
私は、父上を見た。
「まだ、間に合います」
父上は、ため息をついた。
「アリア。まだ、そんなことを」
「帝国に、使者を送りましょう」
私は、前世の知識を総動員して言った。
「条件付きで、降伏を」
「もう、その話はやめろ」
父上の声が、低くなった。
「でも」
「私の決意は、変わらぬ」
父上は、窓の外を見た。
雪が、降り始めていた。
最初の雪。
冬が、来た。
「父上は、民のことを考えていないんですか」
私は、思わず言った。
父上が、振り返った。
「何?」
「民は、戦争を望んでいません」
私は続けた。
「平和を、望んでいます」
「お前に、民の何がわかる」
父上の声が、厳しくなった。
「わかります」
私は、真っ直ぐ父上を見た。
「私は――」
言いかけて、止めた。
民の声を聞いてきた、と言おうとした。
でも、それだけじゃない。
前世で見た、戦争の記録。
争いの中で苦しむ人々。
失われた命。消えた未来。
その記憶が、頭によぎる。
でも、それは言えない。
転生者だということは、誰にも。
この知識があることも。
「何も、ありません」
私は、目を逸らした。
父上は、不思議そうに私を見た。
「アリア」
父上は、私に近づいた。
「お前は、最近変わったな」
「え?」
「十五の誕生日から」
父上の目が、私を見つめる。
「何かあったのか」
私は、答えられなかった。
あの日。
向日葵畑で、前世の記憶を思い出した日。
でも、それは言えない。
言えば、どうなるか。
狂人として扱われるか。
魔女として処刑されるか。
「何も、ありません」
もう一度、繰り返した。
「そうか」
父上は、私の頭に手を置いた。
「お前は、優しい子だな」
「父上」
「民を想い、国を想う」
父上は、微笑んだ。
「立派な王女だ」
「でも、父上の心には届かない」
私は、ぽつりと言った。
父上の手が、止まった。
「アリア」
「私は、何を言っても」
涙が溢れそうになった。
「父上を、止められない」
父上は、しばらく黙っていた。
そして、深く息を吐いた。
「アリア。お前は、まだ若い」
「若い?」
「十五歳だ。世の中の厳しさを、まだ知らない」
父上は、窓の外を見た。
「王とは、孤独なものだ」
「父上」
「民を守るために、時には心を鬼にしなければならない」
父上の声が、遠くなった。
「誇りを守るために、時には命を賭けなければならない」
「でも」
「お前には、わからないだろう」
父上は、私を見た。
「まだ、お前は王ではないのだから」
その言葉が、胸に刺さった。
私は、王ではない。
ただの王女。
父上の決定を、覆す権限はない。
「いつか、わかる日が来る」
父上が言った。
「お前が王になった時」
「私が、王に?」
「ああ」
父上は頷いた。
「もし、私が死んだら」
「父上!」
「お前が、この国を継ぐのだ」
父上の目が、真剣だった。
「その時、わかるだろう」
「何が、ですか」
「誇りの重さが」
父上は、私の肩に手を置いた。
「王の務めの、重さが」
私は、何も言えなかった。
父上は、部屋を出ていった。
一人残された私は、机に座り込んだ。
分かり合えない。
父上と、私は。
分かり合えない。
前世の知識があっても。
三十年分の経験があっても。
父上の心は、理解できない。
誇り。
名誉。
王の務め。
前世の世界では、命より大切なものはなかった。
でも、この世界では違う。
命より大切なものが、ある。
私には、理解できない。
でも、父上には理解できる。
それが、私たちの違い。
私は、窓の外を見た。
雪が、降り続いている。
向日葵畑が、白く染まっていく。
夏には、あそこは黄色に染まる。
でも、今は冬。
全てが、白く凍りつく。
◇
それから、一週間後。
私は、城下町にいた。
マルタと一緒に。
市場を歩く。
人々の声が、聞こえる。
「帝国が、攻めてくるらしいぞ」
「本当か」
「ああ。もう時間の問題だ」
不安そうな声。
怯えた声。
人々は、知っている。
戦争が、来ると。
私は、立ち止まった。
パン屋の前。
そこに、母親と子どもがいた。
「お母さん、パンは?」
子どもが聞く。
「ごめんね。今日は我慢して」
母親が、申し訳なさそうに言う。
「戦争が来るから、お金を取っておかないと」
子どもは、悲しそうに頷いた。
私は、その光景を見て、胸が痛んだ。
これだ。
これが、民の声。
戦争を恐れる、民の声。
誇りより、明日のパンを求める声。
前世で見た、戦争の記録。
避難民。飢える子どもたち。
同じだ。
どの世界でも、民が求めるものは同じ。
生きること。
ただ、生きること。
私は、懐から銀貨を取り出した。
パン屋に近づく。
「このパンを、あの親子に」
私は、銀貨を渡した。
パン屋が、驚いた顔をする。
「お嬢様」
「いいから」
私は、マルタに目配せした。
マルタが、パン屋に耳打ちする。
パン屋は、深く頭を下げた。
そして、パンを包んで、あの親子に渡した。
「王女様からだ」
母親が、驚いて私を見た。
私は、微笑んだ。
母親は、深く頭を下げた。
子どもも、一緒に。
「ありがとうございます」
母親の目に、涙が浮かんでいた。
私は、頷いて、その場を離れた。
マルタが、ついてくる。
「アリア様」
「マルタ」
「優しいのですね」
マルタが、微笑んだ。
「優しいだけじゃ、何も変わらない」
私は、ぽつりと言った。
「父上を、説得できない」
「アリア様」
「民は、こんなに苦しんでいるのに」
私は、市場を見回した。
不安そうな顔。
怯えた顔。
皆、戦争を恐れている。
「私は、何もできない」
マルタは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「アリア様は、もう十分にしておられます」
「何も、できていないわ」
「いいえ」
マルタは、私の手を握った。
「あなた様は、民の声を聞いておられる」
「でも」
「それだけで、十分です」
マルタの目が、優しかった。
「いつか、その声が届く日が来ます」
私は、何も言えなかった。
いつか?
いつなのか。
父上が、死んだ後?
国が、滅んだ後?
それでは、遅い。
「マルタ」
私は聞いた。
「あなたは、戦争をどう思う?」
マルタは、少し考えて答えた。
「私は、ただの侍女です」
「でも、民の一人でもあるわ」
マルタは、窓の外を見た。
「正直に言えば、怖いです」
「怖い?」
「はい。戦争が来れば、多くの人が死ぬでしょう」
マルタの目に、涙が浮かんだ。
「でも、陛下のお決めになったこと」
「マルタは、誇りより命だと思わない?」
マルタは、しばらく黙っていた。
そして、小さく答えた。
「わかりません」
マルタは首を振った。
「でも、生きていてくれなければ、何も始まらないと思います」
その言葉に、私は何も言えなかった。
そうだ。
生きていなければ。
何も、始まらない。
誇りも、名誉も。
生きてこそ、意味がある。
でも、それを父上は理解しない。
私たちは、城に戻った。
廊下で、一人の男性に会った。
銀髪の、凛とした騎士。
父上に仕える、クラウス。
「アリア様」
クラウスが、深く頭を下げた。
「クラウスさん」
「城下町へ、行かれていたのですか」
「ええ」
私は頷いた。
「民の様子を、見に」
クラウスは、少し驚いた顔をした。
「王女様が、直接?」
「はい」
「それは、素晴らしいことです」
クラウスが、微笑んだ。
「民は、喜んでいたでしょう」
「でも、何も変わらない」
私は言った。
「父上の決意は、変わらない」
クラウスの顔が、少し曇った。
「陛下は、お決めになったのです」
「クラウスさんは、どう思いますか」
私は聞いた。
「この戦争のこと」
クラウスは、しばらく黙っていた。
その目に、何か深い影が見えた。
まるで、遠い過去を見ているような。
何か、辛い記憶があるのだろうか。
「私は、騎士です」
クラウスの声が、少し震えた。
まるで、何かを押し殺すように。
「騎士?」
「陛下に仕える、騎士です」
クラウスの目が、真剣だった。
「陛下のご命令に、従うのみです」
「たとえ、それが間違っていても?」
クラウスは、少し驚いた顔をした。
王女が、王を否定する。
「アリア様」
「答えてください」
私は、真っ直ぐクラウスを見た。
「たとえ、それが間違っていても、従うのですか」
クラウスは、深く息を吐いた。
「それが、騎士の務めです」
「務め」
私は、その言葉を噛み締めた。
また、務め。
父上も、務めと言った。
クラウスも、務めと言う。
この世界の人々は。
務めのために、命を捨てる。
前世では、考えられないこと。
「でも」
クラウスが、続けた。
「アリア様のお気持ちも、わかります」
「クラウスさん」
「民を想う、そのお心」
クラウスは、微笑んだ。
「立派です」
「でも、何も変わらない」
「いつか、変わります」
クラウスが言った。
「アリア様が、王になられた時」
また、その言葉。
父上も言った。
私が王になった時。
でも、それは。
父上が、死んだ時。
「それでは、遅い」
私は言った。
クラウスは、何も答えなかった。
ただ、悲しそうに微笑んだ。
◇
その夜。
私は、父上の執務室を訪ねた。
扉をノックする。
「入れ」
父上の声。
私は、扉を開けた。
父上は、机に向かっていた。
書類の山。
軍事計画。防衛戦略。
「アリア」
父上が、顔を上げた。
「どうした」
「お話が、あります」
私は、部屋に入った。
父上は、ペンを置いた。
「何だ」
「もう一度、お願いします」
私は、深く頭を下げた。
「帝国との戦争を、やめてください」
父上は、ため息をついた。
「アリア。またか」
「今日、城下町に行きました」
私は、顔を上げた。
「民は、怯えています」
「知っている」
「パンを買うお金も、惜しんでいます」
「それも、知っている」
「なのに、なぜ」
私は、声を荒げた。
「なぜ、戦争をするのですか」
父上は、立ち上がった。
「アリア」
「民は、誇りより、明日のパンを欲しているんです」
私は、必死に訴えた。
「誇りで、腹は膨れません」
「黙れ」
父上が、初めて怒鳴った。
私は、たじろいだ。
父上の目が、厳しい。
「お前は、何もわかっていない」
「わかっています」
私は、食い下がった。
「民の声を、聞いてきました」
「民の声?」
父上が、冷たく笑った。
「民は、何もわかっていない」
「父上!」
「目の前のパンしか、見えていない」
父上は、窓の外を見た。
「だからこそ、王が導くのだ」
「導く?」
私は、信じられない思いで父上を見た。
「誇りを持って生きることを」
父上の声が、低くなった。
「屈辱の中で生きるより、誇りを持って死ぬことを」
「それは、傲慢です」
私は言った。
「民の命を、勝手に決めるなんて」
父上が、振り返った。
その目が、悲しそうだった。
「アリア。お前は、本当に何もわかっていない」
「わかっています」
「いや、わかっていない」
父上は、私に近づいた。
「王とは、孤独なものだ」
「父上」
「正しいことをしても、理解されない」
父上の目に、何かが浮かんでいた。
「それでも、進まなければならない」
「でも、それは間違っています」
私は言った。
「誇りより、命です」
父上は、しばらく私を見つめていた。
そして、深く息を吐いた。
「お前と私は、永遠に分かり合えないのかもしれないな」
その言葉が、胸に刺さった。
「父上」
「下がれ、アリア」
父上は、背を向けた。
「もう、来るな」
その言葉に、私は凍りついた。
もう、来るな。
父上は、私を拒絶した。
「父上」
「行け」
父上の声に、もう迷いはなかった。
私は、震える足で、部屋を出ようとした。
扉に手をかける。
でも、最後に振り返った。
「父上、あなたは間違っている」
もう一度、言った。
父上は、何も答えなかった。
ただ、窓の外を見ている。
背中が、とても小さく見えた。
私は、扉を閉めた。
音が、やけに大きく響いた。
廊下で、私は壁に手をついた。
分かり合えない。
父上と、私は。
永遠に、分かり合えない。
涙が、溢れた。
声を殺して、泣いた。
誰にも見られないように。
私は、懐を探った。
あの日、向日葵畑で拾った種。
まだ、ある。
焼け焦げてもいない。
小さくて、固い種。
いつか、これを蒔く。
父上の想いと共に。
私は、種を握りしめた。
そして、心の中で誓った。
いつか、必ず。
向日葵を、咲かせる。
この国が、確かに存在したという証として。
そして、父上の誇りも。
いつか、理解する日が来るかもしれない。
その日まで。
私は、諦めない。
向日葵を、咲かせる。
それが、私の使命。
◇
現在。
リベルタへの道。
私は、レオンの背中を見ながら、あの日のことを思い出していた。
三年前の冬。
父上と、最後に言葉を交わした日。
「もう、来るな」
あの言葉が、今も胸に残っている。
それから、私は父上の執務室を訪ねなかった。
顔を合わせても、挨拶だけ。
もう、何も言わなかった。
分かり合えないと、諦めたから。
でも、今になって思う。
あの時、もっと話せばよかった。
もっと、父上の言葉を聞けばよかった。
そうすれば。
もしかしたら。
理解できたかもしれない。
父上の想いを。
王の務めを。
誇りの重さを。
でも、もう遅い。
父上は――
「アリア」
レオンが、立ち止まった。
「見えたぞ」
レオンが指差す先に。
城壁に囲まれた、大きな街が見えた。
リベルタ。
自由都市。
私の、新しい人生の始まりの場所。
「ようやく、着いたんですね」
私は、涙を拭った。
「ああ」
レオンが、歩き出した。
私は、その背中を追う。
そして、心の中で思った。
父上。
私は、まだあなたを理解できていません。
でも、いつか必ず。
あなたの想いを、理解します。
そして、向日葵を咲かせます。
それが、私の使命。
転生者としての、使命。
私は、前を向いた。
リベルタへ。
新しい人生へ。
分かり合えなかった父との、約束を果たすために。




