第5話「最後通牒」
この知識で、国を救えるかもしれない。
そう思った、あの日。
だが、その機会は、思ったよりも早く訪れた。
そして、私は無力だった。
◇
現在。
十八歳。
リベルタへの道を、レオンと共に歩きながら。
私は、三年前のことを思い出していた。
十五歳の誕生日。
前世の記憶を、完全に思い出した日。
あの日から、私は変わった。
前世の知識を密かに蓄え、いつか使う日を待っていた。
そして、その時は来た。
三年前の秋。
帝国の最後通牒という形で。
でも、私は何もできなかった。
ただ、父上と対立することしか。
◇
三年前。
十五歳の秋。
あの日も、謁見の間にいた。
父上が玉座に座り、廷臣たちが並んでいる。
そして、帝国の使者。
黒い軍服を着た、冷たい目をした男。
私も、その場にいた。
王女として。
そして、転生者として。
「これが、ドライゼン帝国皇帝陛下からの親書である」
使者は、巻物を広げた。
「アイゼンブルク王国は、帝国の保護下に入れ。さもなくば、我が軍は貴国を敵国と見なす」
謁見の間が、静まり返った。
廷臣たちは息を呑む。
父上は、動かなかった。
「返答の期限は、三日だ」
使者はそう言い残し、踵を返して去っていった。
重い扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
そして、議論が始まった。
「陛下、これは実質的な降伏要求です」
宰相が言った。
「保護下に入るということは、属州になるということ」
「だが、断れば戦争だ」
別の廷臣が言う。
「帝国軍は五十万。我が国は一万五千。勝ち目はない」
「では、降伏しろというのか」
「いや、しかし」
廷臣たちが、口々に言い合う。
私は、黙って聞いていた。
頭の中で、前世の知識を総動員していた。
歴史。政治。外交。
この状況を、どう打開するか。
答えは、すぐに出た。
降伏するしかない。
でも、完全な降伏ではなく。
条件付きの降伏。
自治権を保ったまま、形式的に帝国の保護下に入る。
そして、時間を稼ぎ、内部から変革を。
前世の歴史で、何度も見た戦略。
弱小国が大国に対抗する、唯一の方法。
私は、口を開こうとした。
でも、その前に。
「降伏は、しない」
父上の声が、響いた。
謁見の間が、静まり返った。
全員が、父上を見る。
「陛下」
宰相が言った。
「しかし」
「我が国の誇りを、帝国に売り渡すことはできぬ」
父上の声は、静かだったが、揺るぎなかった。
「アイゼンブルクは、建国以来二百年。一度も他国の支配下に入ったことはない」
「ですが、陛下。現実を」
「現実は承知している」
父上は立ち上がった。
「だが、誇りを失った国に、未来はない」
私は、思わず声を上げた。
「父上」
父上が、私を見た。
「アリア」
「お願いです。もう一度、考え直してください」
謁見の間が、ざわめいた。
王女が、王に意見する。
異例のことだった。
「何を言っている」
父上の声が、低くなった。
「誇りより、命です」
私は一歩前に出た。
「誇りを守って滅びるより、生きて未来を繋ぐべきです」
廷臣たちが、顔を見合わせた。
父上は、私を見つめた。
「アリア。お前は王女として、何を言っている」
「父上こそ、王として、何を考えているのですか」
私は食い下がった。
頭の中で、前世の知識が囁く。
歴史は証明している。
誇りのために滅んだ国が、どれだけあるかを。
ポーランド。チベット。数え切れない国々。
でも、生き延びた国もある。
屈辱に耐え、時を待ち、復活した国々。
「誇りのために民を死なせるのですか」
私は続けた。
「それが王の務めですか」
「黙れ」
父上が、初めて怒りの声を上げた。
私は、たじろいだ。
でも、引かなかった。
前世の知識がある。
この状況を、打開する方法がある。
「父上、お願いです」
私は、前世の知識を総動員して言った。
「形式的に帝国の保護下に入りましょう」
「何?」
父上の目が、鋭くなった。
「ただし、条件を付けるのです」
私は、続けた。
「自治権の保証。税の軽減。軍の独立」
廷臣たちが、ざわめいた。
「それは、実質的な独立ではないか」
一人が言った。
「そうです」
私は頷いた。
「形だけ帝国に従い、実は独立を保つのです」
「それでは、属州と変わらぬではないか」
父上が言った。
「いいえ、違います」
私は、前世で学んだ歴史を思い出す。
弱小国が大国に対抗した方法。
「時間を稼ぐのです。形だけでも帝国に従い、内部から力を蓄える」
「それは、屈辱だ」
「屈辱ですが、生き延びる道です」
私は、必死に訴えた。
「歴史は証明しています」
前世の知識が、言葉になる。
「誇りのために滅んだ国よりも、屈辱に耐えて復活した国の方が多いと」
父上は、しばらく黙っていた。
そして、首を横に振った。
「それは、屈辱だ」
「父上」
「お前に、何がわかる」
父上の目が、厳しい。
「民は、誇りある王を求めている」
「いいえ」
私は首を振った。
「民が求めているのは、平和です。安全です。明日も生きられるという、保証です」
前世の知識が、言葉になる。
政治学。社会学。
人々が本当に求めるものは、何か。
「誇りは、生きてこそ意味がある」
私は続けた。
「死んでしまえば、誇りも何もありません」
父上は、しばらく黙っていた。
そして、深く息を吐いた。
「アリア。お前と私は、『守る』の意味が違うようだな」
「父上」
「私は、この国の誇りを守る。お前は、この国の命を守りたいのだろう」
父上は、遠くを見た。
「どちらも正しい。だが、私は王だ。王として、誇りを選ぶ」
「父上、お願いです」
私は、必死に訴えた。
「もう一度、考え直してください」
「決定は、下した」
父上の声に、もう迷いはなかった。
「下がれ、アリア」
私は、唇を噛み締めた。
前世の知識が、役に立たない。
説得の技術。交渉術。
全部、学んだはずなのに。
父上の心には、届かない。
「父上」
「下がれと言った」
その声に、もう反論の余地はなかった。
でも、私は最後に言った。
「父上、あなたは間違っている」
父上は、驚いたように私を見た。
王女が、王に向かって。
間違っていると。
謁見の間が、静まり返った。
私は、父上を真っ直ぐ見つめた。
「誇りより、命です」
父上は、何も言わなかった。
ただ、私を見ている。
その目に、何が映っているのか。
私には、わからない。
「下がれ」
父上が、もう一度言った。
私は、深く頭を下げた。
そして、謁見の間を出た。
廊下で、私は壁に手をついた。
悔しい。
前世の知識があっても。
三十年分の経験があっても。
何も、できない。
父上を、説得できない。
国を、救えない。
窓の外に、向日葵畑が見える。
あの日、前世を思い出した場所。
この知識で、国を救えるかもしれない。
そう思ったのに。
涙が溢れそうになって、私は顔を上げた。
マルタが、心配そうに近づいてきた。
「アリア様」
「マルタ」
「お聞きしました」
マルタの目が、悲しそうだった。
「陛下は、戦うおつもりだと」
「ええ」
私は頷いた。
「止められなかった」
「あなた様のせいではありません」
マルタが言った。
「陛下は、お決めになったのです」
「でも」
「あなた様は、よくおっしゃいました」
マルタは、私の手を握った。
「誇りより、命だと」
「マルタは、どう思う?」
私は聞いた。
「もし、あなたが私の立場なら、どうする?」
マルタは、少し考えて答えた。
「わかりません。でも」
「でも?」
「アリア様の言葉は、民の声だと思います」
マルタは、窓の外を見た。
「民は、誇りよりも、明日のパンを欲しているのではないでしょうか」
その言葉に、私は何も言えなかった。
そうだ。
民が求めているのは。
誇りではなく。
生きること。
明日も、今日と同じように生きられること。
それなのに。
「私は、何もできなかった」
私は、ぽつりと言った。
「前世の知識があっても。転生者であっても」
「前世、ですか?」
マルタが、不思議そうに聞いた。
「いえ、何でもないわ」
私は首を振った。
前世のことは、まだ誰にも言えない。
レオン以外には。
「マルタ、もし国が滅んだら」
私は言った。
「私と一緒に来てくれる?」
「アリア様」
マルタの目が、潤んだ。
「もちろんです。どこまでも」
その言葉に、少しだけ救われた。
でも、胸の痛みは消えない。
私は、父上の執務室へ向かった。
扉をノックする。
「入れ」
父上の声。
私は、扉を開けた。
父上は、窓の外を見ていた。
「アリア」
「父上」
私は、部屋に入った。
「先ほどは、失礼しました」
「いや」
父上は、振り返った。
「お前の言うことも、わかる」
「父上」
「だが、私には私の、守るべきものがある」
父上は、私に近づいた。
「誇り。名誉。王としての、務め」
「それより、命を」
「アリア」
父上が、私の頭に手を置いた。
「お前は、強い子だな」
「父上」
「私の言うことは、理解できまいな」
「はい」
私は、正直に答えた。
「理解できません」
父上は、小さく笑った。
「そうか」
「でも」
私は言った。
「もし、国が滅びたら」
父上の手が、止まった。
「私は、必ず向日葵を咲かせます」
父上は、少し驚いた顔をした。
「向日葵を?」
「はい。この国が、確かに存在したという証として」
父上は、しばらく私を見つめていた。
そして、小さく微笑んだ。
「そうか。ならば、頼んだぞ」
「父上」
「お前なら、できるだろう」
父上の目が、優しかった。
「向日葵のように、太陽を向いて生きろ」
その言葉に、私の胸が締め付けられた。
「父上は、あきらめたんですか」
「諦めたのではない」
父上は首を振った。
「選んだのだ」
「選んだ?」
「誇りを持って戦い、誇りを持って散る」
父上は、窓の外を見た。
「それが、王の務めだ」
私は、何も言えなかった。
前世の知識が、何の役にも立たない。
この人を、説得できない。
救えない。
「行け、アリア」
父上が言った。
「私の決意は、変わらぬ」
私は、震える足で、部屋を出た。
扉を閉める前に、振り返った。
「父上、あなたは間違っている」
もう一度、言った。
父上は、何も答えなかった。
ただ、窓の外を見ている。
私は、扉を閉めた。
廊下で、私は立ち尽くした。
無力だ。
前世の知識があっても。
転生者であっても。
何も、できない。
父上を、止められない。
国を、救えない。
涙が、溢れた。
声を殺して、泣いた。
誰にも見られないように。
でも、心の中で誓った。
いつか、必ず。
向日葵を、咲かせる。
この国が、確かに存在したという証として。
そして、父上の誇りも。
いつか、理解する日が来るかもしれない。
その日まで。
私は、生きる。
◇
現在。
リベルタへの道。
私は、レオンの背中を見ながら、涙をこらえていた。
あの時。
私は、何をすればよかったのか。
前世の知識で、もっと上手く説得できたのではないか。
もっと、違う方法があったのではないか。
答えは、出ない。
でも、一つだけわかる。
前世の知識は、万能じゃない。
転生者だからといって、全てを救えるわけじゃない。
この世界には、前世では理解できない価値観がある。
誇り。
名誉。
王としての、務め。
それを、私は軽視していた。
理想論だけでは、人は救えない。
前世で学んだはずなのに。
また、同じ過ちを。
「おい」
レオンが立ち止まった。
「どうしたんですか」
「泣いてるのか」
レオンが、振り返った。
私は、慌てて涙を拭った。
「泣いてなんか」
「嘘つくな」
レオンは、私に近づいた。
「何があった」
「何も」
「また嘘だ」
レオンは、私の目を見た。
「お前の目は、嘘をつけない」
私は、目を逸らした。
「昔のことを、思い出しただけです」
「昔?」
「三年前」
私は、ぽつりと言った。
「父上と、対立したこと」
レオンは、何も言わなかった。
ただ、聞いている。
「私は、降伏すべきだと言いました」
私は続けた。
「誇りより、命だと」
「お前の父は、拒否した」
「はい」
私は頷いた。
「父上は、誇りを選びました」
「それで、戦争になった」
「はい」
涙が、また溢れそうになった。
「私は、何もできませんでした」
「お前は、悪くない」
レオンが言った。
「自分を責めるな」
「でも」
「お前の父は、自分で選んだんだ」
レオンの声が、優しかった。
「誇りを選んだ。それは、王としての選択だ」
「でも、間違っています」
私は言った。
「誇りより、命です。何度でも言います」
レオンは、しばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
「アリア」
「はい」
「お前の言うことも、お前の父の言うことも、どっちも正しい」
「え?」
「誇りも大切だ。命も大切だ」
レオンは、遠くを見た。
「どっちを選ぶかは、その人次第だ」
「でも」
「お前は、命を選んだ。お前の父は、誇りを選んだ」
レオンは、私を見た。
「どっちが正しいかなんて、誰にもわからない」
その言葉に、私は何も言えなかった。
レオンは、また歩き出した。
「行くぞ。リベルタまで、あと少しだ」
私は、その背中を追った。
そして、心の中で思った。
あの時から、全ては決まっていた。
父上の選択も。
私の選択も。
そして、国の運命も。
でも、私は諦めない。
いつか、必ず。
向日葵を、咲かせる。
それが、私の使命。
転生者としての、使命。
私は、前を向いた。
レオンの背中を追って。
リベルタへ。
新しい人生の、始まりへ。




