表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/9

第2話「幸福な記憶」

「お前を、殺しに来た」

男の声が、夜の森に響いた。

私は、その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

殺しに来た。

この男は、私を殺すために、ここにいる。

男の手が、腰の剣に伸びた。

月光が、柄を照らす。

私は動けなかった。逃げることも、抵抗することも。

ただ、その灰色の瞳を見つめていた。

剣を抜く音が、静寂を切り裂いた。

刃が、月の光を反射する。

ああ、終わるのか。

ここで。

こんなところで。

私は目を閉じた。

父上。マルタ。みんな。

すぐに、そちらへ行きます。

風が、頬を撫でた。

向日葵の香りが、した気がした。

あの日の、幸福な記憶。

父上と歩いた、花畑。

もう一度、あそこへ──。

時間が、止まった。

いや、止まったように感じた。

剣が、振り下ろされない。

私は恐る恐る、目を開けた。

男は、剣を構えたまま、動かなかった。

ただ、私を見下ろしている。

その目に、何かが浮かんでいた。

迷い。

葛藤。

男の手が、震えた。

ほんの少し。だが、確かに震えた。

剣の切っ先が、揺れている。

男は、何かを堪えるように顔を歪めた。

そして。

「……くそ」

小さく呟いて、男は剣を下ろした。

鞘に収める音。

私は、呆然とその場に座り込んだまま、男を見上げていた。

男は顔を背けた。

「立て」

「え」

「立てと言っている」

私は震える足で立ち上がろうとした。膝が笑っている。力が入らない。

男は舌打ちして、私の腕を掴んだ。そして、引っ張り上げる。

その手は、硬く、冷たかった。

「なぜ」

私は声を絞り出した。

「なぜ、殺さないんですか」

男は答えなかった。

ただ、私の腕を掴んだまま、背後を見た。

遠くから、声が聞こえる。

帝国兵だ。松明の明かりが、木々の間から見える。

「時間がない」

男は私の手を引いた。

「ついて来い」

「でも、あなたは」

「いいから来い」

男の声に、有無を言わせぬ力があった。

私は引かれるまま、歩き出した。

森の奥へ。月明かりだけを頼りに。

男の足取りは確かだった。まるで、この森を知り尽くしているように。

枝を避け、岩を飛び越え、小川を渡る。

「あの、あなたは」

「黙ってろ」

男が低く言った。

「音を立てるな。奴らに気づかれる」

私は口を閉じた。

後ろから、帝国兵の声が近づいてくる。

「このあたりだ」

「王女を見つけろ」

「見つけ次第、殺せ」

私の体が強張った。

男が立ち止まった。そして、私を茂みの中へ押し込む。

「動くな。声も出すな」

男も身を潜めた。

二人で、息を殺す。

帝国兵が近づいてくる。五人。

松明の明かりが、茂みのすぐ近くまで来た。

「どこだ」

「見つからんぞ」

「もっと探せ」

兵士たちが、周囲を見回している。

私は息を止めた。心臓が激しく打っている。その音で気づかれるのではないかと思うほど。

男の手が、私の肩に置かれた。

落ち着け、と言うように。

その手は、さっきより少し温かい気がした。

やがて、兵士たちは別の方向へ歩き出した。

「あっちを探せ」

足音が遠ざかる。松明の明かりが消える。

それでも男は動かなかった。じっと、耳を澄ませている。

完全に静かになってから、男はようやく立ち上がった。

「行くぞ」

また手を引かれる。

さらに森の奥へ。

どれだけ歩いただろう。

私の足は、もう限界だった。

何度もつまずく。その度に男が引っ張り上げる。

「もう、無理です」

私はとうとう、その場に座り込んだ。

男は振り返った。そして、何かを考えるように黙り込む。

「背負うぞ」

「え」

「時間がない。背中に乗れ」

男はしゃがんだ。

私は躊躇したが、他に選択肢はなかった。

細い腕で、男の首にしがみつく。

男は私を軽々と背負い、再び歩き出した。

背中越しに伝わる体温。規則正しい呼吸。力強い足取り。

私は、ぽつりと呟いた。

「どうして、助けてくれるんですか」

男は答えなかった。

ただ黙々と、前へ進む。

「あなたは、私を殺しに来たんじゃ」

「黙ってろ」

男の声が、少し苛立っていた。

私は口を閉じた。

やがて、森の奥深く、小さな洞窟が見えてきた。

男はそこに私を下ろした。

「ここで夜を明かす。中に入れ」

洞窟の中は、暗く、冷たかった。

男は入口近くに座り、外を見張っている。

私は洞窟の奥に座った。

膝を抱える。体が震えている。

男は、何も言わなかった。

ただ背中を向けて、じっと外を見つめている。

私は、その背中を見ながら、思った。

この人の背中は、大きい。

父上の背中を思い出す。

父上。

あなたは、どうなったのですか。

涙が溢れそうになって、私は唇を噛んだ。

泣いてはいけない。

でも。

涙は、止まらなかった。

声を殺して泣いた。肩が震える。

男は、振り返らなかった。

ただ、小さく息を吐いただけだった。

どれだけ泣いただろう。

やがて疲れて、私はその場で眠りに落ちた。

夢を見た。

幸福な夢だった。

向日葵畑。

太陽の光。

暖かい風。

私は、幼い。

父上の手を握って、歩いている。

「アリア、見てごらん」

父上が指差す。

向日葵が、どこまでも続いている。

黄色い花。緑の葉。青い空。

美しい。

こんなに美しい景色があるんだ。

「アリア」

父上が私を抱き上げた。

高い。空に近い。

「この花たちのように生きるんだよ」

「どうやって?」

「太陽を向いて。希望を見上げて。決して、下を向かないで」

「うん」

私は笑った。

父上も笑った。

向日葵が、風に揺れる。

幸せだった。

あの日は、本当に幸せだった。

暖かい日差し。優しい風。父上の大きな手。

全てが、完璧だった。

でも。

向日葵が、枯れ始めた。

一つ、また一つ。

黄色が、灰色に変わっていく。

空が、暗くなる。

風が、冷たくなる。

父上の姿が、遠ざかる。

「父上!」

私は叫んだ。

でも、声が届かない。

父上が、消えていく。

向日葵が、全て枯れた。

灰色の世界。

何もない。

誰もいない。

ただ、私一人。

「父上!」

もう一度、叫んだ。

誰も、答えない。

「起きろ」

男の声で、目が覚めた。

洞窟の外は、もう明るくなっていた。

朝だ。

私は体を起こした。全身が痛い。

「動けるか」

男が聞いた。

私は頷いた。

「はい」

声がかすれていた。

男は洞窟を出た。私もついていく。

森の中。朝日が木々の間から差し込んでいる。

鳥の声。小川のせせらぎ。

平和な朝の風景だった。

でも、遠くからは、煙が上がっているのが見える。

私の国が、まだ燃え続けている。

男は、川の水を手ですくって飲んだ。

「お前も飲め」

私も川に近づいた。

冷たい水。喉を潤す。

少しだけ、生き返った気がした。

「あの」

私は男を見た。

「あなたの名前を、教えてください」

男は、しばらく黙っていた。

そして、短く答えた。

「レオン」

「レオン」

私はその名を繰り返した。

「レオン、さん」

男は何も言わず、立ち上がった。

「行くぞ」

「どこへ」

「リベルタだ」

「リベルタ?」

「自由都市リベルタ。ここから西へ三日。そこなら、帝国も手を出せない」

レオンは、歩き出した。

私は、その背中を見ながら、ついていく。

「あの、レオンさん」

「何だ」

「どうして、私を殺さなかったんですか」

レオンは、立ち止まった。

背中を向けたまま、黙っている。

やがて、小さく息を吐いた。

「お前を見た瞬間、殺せないと思った」

「なぜ」

「お前の目を見て、思った」

レオンは振り返った。

その灰色の瞳が、私を見る。

「お前の目は、まだ生きてた」

私は、自分の目を意識した。

向日葵色の瞳。

王家の眼。

「死を受け入れた目じゃなかった。まだ、生きようとしてた」

レオンは目を逸らした。

「だから、殺せなかった」

私は、何も言えなかった。

レオンは、また歩き出した。

私は、その背中を追う。

二人は、森を進んだ。

時々、レオンが立ち止まって周囲を警戒する。

帝国兵の気配を探っているのだろう。

昼過ぎ、小さな泉のほとりで休憩した。

レオンは腰を下ろし、懐から干し肉を取り出した。

「食え」

私に半分差し出す。

「ありがとうございます」

私は受け取った。

固い。噛み切るのに苦労する。でも、空腹には代えられない。

二人で、無言で食事を続けた。

やがて、私は聞いた。

「レオンさんは、どうして私を殺しに」

レオンは、干し肉を噛むのを止めた。

そして、水を飲んだ。

「それが、仕事だった」

「仕事?」

「ああ」

レオンは遠くを見た。

「俺は、金で動く。依頼を受けて、任務をこなす」

「傭兵、ですか」

「そんなところだ」

レオンは立ち上がった。

「行くぞ。日が暮れる前に、もう少し進む」

また歩き出す。

私は、その背中を見ながら思った。

この人は、私を殺す依頼を受けていた。

でも、殺さなかった。

なぜ。

本当に、私の目を見ただけで?

疑問は尽きない。

でも、聞けなかった。

夕方、また別の洞窟を見つけた。

二度目の野営。

レオンは火を起こした。小さな炎が、洞窟を照らす。

「寒くないか」

レオンが聞いた。

「大丈夫です」

嘘だった。寒かった。でも、これ以上迷惑をかけたくなかった。

レオンは何も言わず、自分の外套を脱いで、私に投げた。

「着ろ」

「でも」

「いいから着ろ」

私は、外套を羽織った。

レオンの匂いがした。汗と、土と、鉄の匂い。

でも、温かかった。

「ありがとうございます」

レオンは、火を見つめていた。

炎が、その顔を照らす。

傷だらけの顔。疲れた目。

でも、どこか優しい横顔だった。

「レオンさん」

「何だ」

「あなたは、どうしてこんな仕事を」

レオンは、しばらく黙っていた。

そして、ぽつりと言った。

「復讐だ」

「復讐?」

「ああ」

レオンの目が、暗くなった。

「俺の家族は、帝国に殺された」

私は息を呑んだ。

「父も、母も、妹も。全員」

レオンの声が、低く沈む。

「俺は、帝国を憎んでる」

火が、パチパチと音を立てた。

「だから、帝国に仕えた」

「え」

「内部に潜り込んで、いつか復讐するために」

私は、信じられない思いでレオンを見た。

「それで、私を殺す依頼も」

「ああ。帝国から受けた」

レオンは私を見た。

「アイゼンブルク王女を殺せ、と」

私の心臓が、跳ねた。

レオンは、立ち上がった。

そして、私に背を向けた。

「俺は元帝国の暗殺者だ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ