第2話「幸福な記憶」
「お前を、殺しに来た」
男の声が、夜の森に響いた。
私は、その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
殺しに来た。
この男は、私を殺すために、ここにいる。
男の手が、腰の剣に伸びた。
月光が、柄を照らす。
私は動けなかった。逃げることも、抵抗することも。
ただ、その灰色の瞳を見つめていた。
剣を抜く音が、静寂を切り裂いた。
刃が、月の光を反射する。
ああ、終わるのか。
ここで。
こんなところで。
私は目を閉じた。
父上。マルタ。みんな。
すぐに、そちらへ行きます。
風が、頬を撫でた。
向日葵の香りが、した気がした。
あの日の、幸福な記憶。
父上と歩いた、花畑。
もう一度、あそこへ──。
時間が、止まった。
いや、止まったように感じた。
剣が、振り下ろされない。
私は恐る恐る、目を開けた。
男は、剣を構えたまま、動かなかった。
ただ、私を見下ろしている。
その目に、何かが浮かんでいた。
迷い。
葛藤。
男の手が、震えた。
ほんの少し。だが、確かに震えた。
剣の切っ先が、揺れている。
男は、何かを堪えるように顔を歪めた。
そして。
「……くそ」
小さく呟いて、男は剣を下ろした。
鞘に収める音。
私は、呆然とその場に座り込んだまま、男を見上げていた。
男は顔を背けた。
「立て」
「え」
「立てと言っている」
私は震える足で立ち上がろうとした。膝が笑っている。力が入らない。
男は舌打ちして、私の腕を掴んだ。そして、引っ張り上げる。
その手は、硬く、冷たかった。
「なぜ」
私は声を絞り出した。
「なぜ、殺さないんですか」
男は答えなかった。
ただ、私の腕を掴んだまま、背後を見た。
遠くから、声が聞こえる。
帝国兵だ。松明の明かりが、木々の間から見える。
「時間がない」
男は私の手を引いた。
「ついて来い」
「でも、あなたは」
「いいから来い」
男の声に、有無を言わせぬ力があった。
私は引かれるまま、歩き出した。
森の奥へ。月明かりだけを頼りに。
男の足取りは確かだった。まるで、この森を知り尽くしているように。
枝を避け、岩を飛び越え、小川を渡る。
「あの、あなたは」
「黙ってろ」
男が低く言った。
「音を立てるな。奴らに気づかれる」
私は口を閉じた。
後ろから、帝国兵の声が近づいてくる。
「このあたりだ」
「王女を見つけろ」
「見つけ次第、殺せ」
私の体が強張った。
男が立ち止まった。そして、私を茂みの中へ押し込む。
「動くな。声も出すな」
男も身を潜めた。
二人で、息を殺す。
帝国兵が近づいてくる。五人。
松明の明かりが、茂みのすぐ近くまで来た。
「どこだ」
「見つからんぞ」
「もっと探せ」
兵士たちが、周囲を見回している。
私は息を止めた。心臓が激しく打っている。その音で気づかれるのではないかと思うほど。
男の手が、私の肩に置かれた。
落ち着け、と言うように。
その手は、さっきより少し温かい気がした。
やがて、兵士たちは別の方向へ歩き出した。
「あっちを探せ」
足音が遠ざかる。松明の明かりが消える。
それでも男は動かなかった。じっと、耳を澄ませている。
完全に静かになってから、男はようやく立ち上がった。
「行くぞ」
また手を引かれる。
さらに森の奥へ。
どれだけ歩いただろう。
私の足は、もう限界だった。
何度もつまずく。その度に男が引っ張り上げる。
「もう、無理です」
私はとうとう、その場に座り込んだ。
男は振り返った。そして、何かを考えるように黙り込む。
「背負うぞ」
「え」
「時間がない。背中に乗れ」
男はしゃがんだ。
私は躊躇したが、他に選択肢はなかった。
細い腕で、男の首にしがみつく。
男は私を軽々と背負い、再び歩き出した。
背中越しに伝わる体温。規則正しい呼吸。力強い足取り。
私は、ぽつりと呟いた。
「どうして、助けてくれるんですか」
男は答えなかった。
ただ黙々と、前へ進む。
「あなたは、私を殺しに来たんじゃ」
「黙ってろ」
男の声が、少し苛立っていた。
私は口を閉じた。
やがて、森の奥深く、小さな洞窟が見えてきた。
男はそこに私を下ろした。
「ここで夜を明かす。中に入れ」
洞窟の中は、暗く、冷たかった。
男は入口近くに座り、外を見張っている。
私は洞窟の奥に座った。
膝を抱える。体が震えている。
男は、何も言わなかった。
ただ背中を向けて、じっと外を見つめている。
私は、その背中を見ながら、思った。
この人の背中は、大きい。
父上の背中を思い出す。
父上。
あなたは、どうなったのですか。
涙が溢れそうになって、私は唇を噛んだ。
泣いてはいけない。
でも。
涙は、止まらなかった。
声を殺して泣いた。肩が震える。
男は、振り返らなかった。
ただ、小さく息を吐いただけだった。
どれだけ泣いただろう。
やがて疲れて、私はその場で眠りに落ちた。
◇
夢を見た。
幸福な夢だった。
向日葵畑。
太陽の光。
暖かい風。
私は、幼い。
父上の手を握って、歩いている。
「アリア、見てごらん」
父上が指差す。
向日葵が、どこまでも続いている。
黄色い花。緑の葉。青い空。
美しい。
こんなに美しい景色があるんだ。
「アリア」
父上が私を抱き上げた。
高い。空に近い。
「この花たちのように生きるんだよ」
「どうやって?」
「太陽を向いて。希望を見上げて。決して、下を向かないで」
「うん」
私は笑った。
父上も笑った。
向日葵が、風に揺れる。
幸せだった。
あの日は、本当に幸せだった。
暖かい日差し。優しい風。父上の大きな手。
全てが、完璧だった。
でも。
向日葵が、枯れ始めた。
一つ、また一つ。
黄色が、灰色に変わっていく。
空が、暗くなる。
風が、冷たくなる。
父上の姿が、遠ざかる。
「父上!」
私は叫んだ。
でも、声が届かない。
父上が、消えていく。
向日葵が、全て枯れた。
灰色の世界。
何もない。
誰もいない。
ただ、私一人。
「父上!」
もう一度、叫んだ。
誰も、答えない。
◇
「起きろ」
男の声で、目が覚めた。
洞窟の外は、もう明るくなっていた。
朝だ。
私は体を起こした。全身が痛い。
「動けるか」
男が聞いた。
私は頷いた。
「はい」
声がかすれていた。
男は洞窟を出た。私もついていく。
森の中。朝日が木々の間から差し込んでいる。
鳥の声。小川のせせらぎ。
平和な朝の風景だった。
でも、遠くからは、煙が上がっているのが見える。
私の国が、まだ燃え続けている。
男は、川の水を手ですくって飲んだ。
「お前も飲め」
私も川に近づいた。
冷たい水。喉を潤す。
少しだけ、生き返った気がした。
「あの」
私は男を見た。
「あなたの名前を、教えてください」
男は、しばらく黙っていた。
そして、短く答えた。
「レオン」
「レオン」
私はその名を繰り返した。
「レオン、さん」
男は何も言わず、立ち上がった。
「行くぞ」
「どこへ」
「リベルタだ」
「リベルタ?」
「自由都市リベルタ。ここから西へ三日。そこなら、帝国も手を出せない」
レオンは、歩き出した。
私は、その背中を見ながら、ついていく。
「あの、レオンさん」
「何だ」
「どうして、私を殺さなかったんですか」
レオンは、立ち止まった。
背中を向けたまま、黙っている。
やがて、小さく息を吐いた。
「お前を見た瞬間、殺せないと思った」
「なぜ」
「お前の目を見て、思った」
レオンは振り返った。
その灰色の瞳が、私を見る。
「お前の目は、まだ生きてた」
私は、自分の目を意識した。
向日葵色の瞳。
王家の眼。
「死を受け入れた目じゃなかった。まだ、生きようとしてた」
レオンは目を逸らした。
「だから、殺せなかった」
私は、何も言えなかった。
レオンは、また歩き出した。
私は、その背中を追う。
二人は、森を進んだ。
時々、レオンが立ち止まって周囲を警戒する。
帝国兵の気配を探っているのだろう。
昼過ぎ、小さな泉のほとりで休憩した。
レオンは腰を下ろし、懐から干し肉を取り出した。
「食え」
私に半分差し出す。
「ありがとうございます」
私は受け取った。
固い。噛み切るのに苦労する。でも、空腹には代えられない。
二人で、無言で食事を続けた。
やがて、私は聞いた。
「レオンさんは、どうして私を殺しに」
レオンは、干し肉を噛むのを止めた。
そして、水を飲んだ。
「それが、仕事だった」
「仕事?」
「ああ」
レオンは遠くを見た。
「俺は、金で動く。依頼を受けて、任務をこなす」
「傭兵、ですか」
「そんなところだ」
レオンは立ち上がった。
「行くぞ。日が暮れる前に、もう少し進む」
また歩き出す。
私は、その背中を見ながら思った。
この人は、私を殺す依頼を受けていた。
でも、殺さなかった。
なぜ。
本当に、私の目を見ただけで?
疑問は尽きない。
でも、聞けなかった。
夕方、また別の洞窟を見つけた。
二度目の野営。
レオンは火を起こした。小さな炎が、洞窟を照らす。
「寒くないか」
レオンが聞いた。
「大丈夫です」
嘘だった。寒かった。でも、これ以上迷惑をかけたくなかった。
レオンは何も言わず、自分の外套を脱いで、私に投げた。
「着ろ」
「でも」
「いいから着ろ」
私は、外套を羽織った。
レオンの匂いがした。汗と、土と、鉄の匂い。
でも、温かかった。
「ありがとうございます」
レオンは、火を見つめていた。
炎が、その顔を照らす。
傷だらけの顔。疲れた目。
でも、どこか優しい横顔だった。
「レオンさん」
「何だ」
「あなたは、どうしてこんな仕事を」
レオンは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「復讐だ」
「復讐?」
「ああ」
レオンの目が、暗くなった。
「俺の家族は、帝国に殺された」
私は息を呑んだ。
「父も、母も、妹も。全員」
レオンの声が、低く沈む。
「俺は、帝国を憎んでる」
火が、パチパチと音を立てた。
「だから、帝国に仕えた」
「え」
「内部に潜り込んで、いつか復讐するために」
私は、信じられない思いでレオンを見た。
「それで、私を殺す依頼も」
「ああ。帝国から受けた」
レオンは私を見た。
「アイゼンブルク王女を殺せ、と」
私の心臓が、跳ねた。
レオンは、立ち上がった。
そして、私に背を向けた。
「俺は元帝国の暗殺者だ」




