第1話「全ては灰になった」
全ては灰になった
向日葵が、咲いていた。
一面の黄色い花畑。見渡す限り、どこまでも続く向日葵。青い空に、白い雲。暖かい風が頬を撫でる。
八歳の私は、父上の手を握って、花畑の中を歩いていた。
「アリア、向日葵は素晴らしい花だ」
父上が言った。優しい声。大きな手。
「どうしてですか、父上」
「向日葵はな、どんな時も太陽を向いて咲く。嵐が来ても、雨が降っても、決して下を向かない」
父上は膝をついて、私の目線に合わせた。
「お前も、向日葵のように生きるんだよ。どんなに辛いことがあっても、希望を見上げて、前を向いて」
「はい、父上」
私は笑った。父上も笑った。
向日葵が風に揺れて、まるで笑っているようだった。
あの日の記憶は、今でも鮮明に残っている。
幸福な記憶。
失われた、幸福な記憶。
◇
十年後。
私は城の謁見の間に立っていた。
玉座には父上、カール四世が座っている。その前には、帝国の使者。黒い軍服を着た、冷たい目をした男だ。
「これが、ドライゼン帝国皇帝陛下の最後通牒である」
使者は巻物を広げた。
「アイゼンブルク王国は、即刻降伏し、帝国の属州となれ。さもなくば、我が軍はこの国を灰にする」
謁見の間が静まり返った。
廷臣たちは息を呑む。父上は、動かなかった。
「期限は三日だ。返答を待つ」
使者はそう言い残し、踵を返して去っていった。
重い扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
「陛下」
老いた宰相が言った。
「いかがなさいますか」
父上は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「降伏は、しない」
「しかし、陛下」
「我が国の誇りを、帝国に売り渡すことはできぬ」
父上の声は静かだったが、揺るぎなかった。
「たとえ滅びようとも、アイゼンブルクの民は誇りを持って生きる。それがこの国の、そして私の使命だ」
廷臣たちは顔を見合わせた。
私は、声を上げた。
「父上」
父上が私を見た。
「アリア」
「お願いです。降伏してください」
謁見の間がざわめいた。
父上の目が、少し驚いたように見開かれた。
「何を言っている」
「誇りより、命です」
私は一歩前に出た。
「誇りを守って滅びるより、生きて未来を繋ぐべきです。民の命を守ってください」
「アリア」
父上の声が、低くなった。
「お前は王女として、何を言っている」
「父上こそ、王として、何を考えているのですか」
私は食い下がった。
「誇りのために民を死なせるのですか。それが王の務めですか」
「黙れ」
父上が立ち上がった。
初めて見る、父上の怒りの表情。
「お前に、何がわかる」
「わかります」
私も負けなかった。
「人が死ぬということが、どういうことか。国が滅びるということが、どういうことか」
「ならばなぜ、降伏などという恥辱を口にする」
「恥辱ではありません。それは、選択です」
私は父上を真っ直ぐ見つめた。
「生きるための、選択です」
父上は、何かを言いかけて、口を閉じた。
そして、深く息を吐いた。
「アリア。お前と私は、『守る』の意味が違うようだな」
「父上」
「私は、この国の誇りを守る。お前は、この国の命を守りたいのだろう」
父上は玉座に座り直した。
「どちらも正しい。だが、私は王だ。王として、誇りを選ぶ」
「父上」
「下がれ、アリア」
その声に、もう反論の余地はなかった。
私は唇を噛み締めて、謁見の間を出た。
廊下で、私は壁に手をついた。
分かり合えなかった。
父上と、分かり合えなかった。
涙が溢れそうになって、私は顔を上げた。
窓の外に、向日葵畑が見える。
あの日、父上と歩いた花畑。
父上、あなたは向日葵のように生きろと言いました。
でも、今のあなたは、太陽ではなく過去を向いているのではないですか。
◇
三日後。
帝国軍が、国境を越えた。
報せは瞬く間に城に届いた。五万の大軍。対するアイゼンブルク王国軍は一万五千。勝ち目はない。
父上は、最後まで戦うことを選んだ。
城下町に避難命令が出された。だが、逃げ切れる者がどれだけいるか。
私は自室で、窓の外を見ていた。
人々が荷物を抱えて逃げていく。子どもが泣いている。老人が倒れている。
これが、戦争。
これが、誇りの代償。
扉がノックされた。
「アリア様」
侍女のマルタだった。いつも優しく微笑んでいる彼女の顔が、今は強張っている。
「父上は」
「陛下は、城門へ向かわれました」
自ら戦場に立つつもりなのだ。
私は立ち上がった。
「マルタ、私も行くわ」
「なりません」
マルタが私の腕を掴んだ。
「あなた様は、ここにいてください」
「でも」
「お願いです」
マルタの目が、涙で潤んでいた。
その時だった。
遠くから、轟音が響いた。
爆発音。続いて、悲鳴。
城が、揺れた。
「始まった」
マルタが呟いた。
窓の外を見る。城下町から、煙が上がっている。
帝国軍が、街を焼いている。
「アリア様、逃げましょう」
マルタが私の手を強く引いた。
廊下を走る。城の中が混乱している。人々が逃げ惑っている。悲鳴が響く。
階段を下りる。裏門へ。
足音が追ってくる。重い、軍靴の音。
「こっちです、早く」
マルタが私を引っ張る。
裏門が見えてきた。
そこで、マルタが立ち止まった。
「マルタ?」
「アリア様」
マルタは私の手を、ぎゅっと握った。
「一緒に来て」
私は言った。
マルタは首を横に振った。
「私は、囮になります」
「だめよ、そんなの」
「あなた様は、生きてください」
マルタは私の手を離した。
そして、来た道を戻り始める。
「マルタ!」
「それが、私たちの願いです」
マルタが大声で叫び始めた。「こっちです、王女はこっちです」と、わざと違う方向を示しながら。
重い足音が、マルタの方へ向かっていく。
私は裏門を開けた。
二人の近衛兵が、そこに立っていた。見覚えのある顔。父上に長年仕えてきた、歴戦の兵たち。
「お逃げください、姫様」
一人が言った。
「我らは殿を務めます。どうか」
言葉が続かなかった。
私は頭を下げた。ありがとう、と言おうとして、声が出なかった。
ただ一度だけ振り返り、そして扉の外へ。
背後で扉が閉まる音。
続いて、剣戟の音。
私は走った。
向日葵畑を抜ける。炎が迫っている。煙が目に染みる。黄色い花が、次々と燃えていく。
あの日、父上と歩いた花畑が。
幸福な記憶の場所が。
灰になっていく。
森へ。木々の間を縫って。枝が頬を引っ掻く。つまずいて転ぶ。膝が痛い。それでも立ち上がる。また走る。
どれだけ走っただろう。
息が切れた。喉が焼けるようだった。足がもつれる。
もう、無理。
私は木の根元に崩れ落ちた。
振り返る。
城が、燃えている。
真っ赤な炎が、夜空を照らしている。
アイゼンブルク王国が、滅びていく。
父上は。
マルタは。
近衛兵たちは。
涙が溢れた。声を殺して泣いた。
嗚咽が止まらない。体が震える。
全てが、終わった。
私の国が。
私の家族が。
私の、幸福な記憶が。
全ては、灰になった。
向日葵も。
城も。
人々の笑顔も。
全部、全部。
灰に。
どれだけ泣いただろう。
やがて涙も枯れて、私はただ、虚ろな目で炎を見つめていた。
もう、何も残っていない。
もう、何もかも。
その時だった。
足音が聞こえた。
草を踏む音。枝を折る音。
誰か、来る。
私は顔を上げることもできなかった。
帝国兵だろう。もう、逃げる力も残っていない。
ああ、ここで終わるのか。
それでも、いい。
もう、疲れた。
足音が、近づく。
そして、止まった。
私の目の前に、誰かが立っている。
月明かりが、その人の姿を照らしていた。
男だった。
灰色の髪。灰色の瞳。傷だらけの顔。
粗末な服を着て、腰には剣を下げている。
男は、私を見下ろしていた。
その目には、何の感情もなかった。
ただ、冷たく、虚ろで。
灰色の瞳が、私を映している。
男は、ゆっくりと口を開いた。
「アリア・フォン・アイゼンブルク」
低い声。
掠れた声。
男が、私の名を呼んだ。
そして。
「お前を、殺しに来た」




