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第1話「全ては灰になった」

全ては灰になった

向日葵が、咲いていた。

一面の黄色い花畑。見渡す限り、どこまでも続く向日葵。青い空に、白い雲。暖かい風が頬を撫でる。

八歳の私は、父上の手を握って、花畑の中を歩いていた。

「アリア、向日葵は素晴らしい花だ」

父上が言った。優しい声。大きな手。

「どうしてですか、父上」

「向日葵はな、どんな時も太陽を向いて咲く。嵐が来ても、雨が降っても、決して下を向かない」

父上は膝をついて、私の目線に合わせた。

「お前も、向日葵のように生きるんだよ。どんなに辛いことがあっても、希望を見上げて、前を向いて」

「はい、父上」

私は笑った。父上も笑った。

向日葵が風に揺れて、まるで笑っているようだった。

あの日の記憶は、今でも鮮明に残っている。

幸福な記憶。

失われた、幸福な記憶。

十年後。

私は城の謁見の間に立っていた。

玉座には父上、カール四世が座っている。その前には、帝国の使者。黒い軍服を着た、冷たい目をした男だ。

「これが、ドライゼン帝国皇帝陛下の最後通牒である」

使者は巻物を広げた。

「アイゼンブルク王国は、即刻降伏し、帝国の属州となれ。さもなくば、我が軍はこの国を灰にする」

謁見の間が静まり返った。

廷臣たちは息を呑む。父上は、動かなかった。

「期限は三日だ。返答を待つ」

使者はそう言い残し、踵を返して去っていった。

重い扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

「陛下」

老いた宰相が言った。

「いかがなさいますか」

父上は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開く。

「降伏は、しない」

「しかし、陛下」

「我が国の誇りを、帝国に売り渡すことはできぬ」

父上の声は静かだったが、揺るぎなかった。

「たとえ滅びようとも、アイゼンブルクの民は誇りを持って生きる。それがこの国の、そして私の使命だ」

廷臣たちは顔を見合わせた。

私は、声を上げた。

「父上」

父上が私を見た。

「アリア」

「お願いです。降伏してください」

謁見の間がざわめいた。

父上の目が、少し驚いたように見開かれた。

「何を言っている」

「誇りより、命です」

私は一歩前に出た。

「誇りを守って滅びるより、生きて未来を繋ぐべきです。民の命を守ってください」

「アリア」

父上の声が、低くなった。

「お前は王女として、何を言っている」

「父上こそ、王として、何を考えているのですか」

私は食い下がった。

「誇りのために民を死なせるのですか。それが王の務めですか」

「黙れ」

父上が立ち上がった。

初めて見る、父上の怒りの表情。

「お前に、何がわかる」

「わかります」

私も負けなかった。

「人が死ぬということが、どういうことか。国が滅びるということが、どういうことか」

「ならばなぜ、降伏などという恥辱を口にする」

「恥辱ではありません。それは、選択です」

私は父上を真っ直ぐ見つめた。

「生きるための、選択です」

父上は、何かを言いかけて、口を閉じた。

そして、深く息を吐いた。

「アリア。お前と私は、『守る』の意味が違うようだな」

「父上」

「私は、この国の誇りを守る。お前は、この国の命を守りたいのだろう」

父上は玉座に座り直した。

「どちらも正しい。だが、私は王だ。王として、誇りを選ぶ」

「父上」

「下がれ、アリア」

その声に、もう反論の余地はなかった。

私は唇を噛み締めて、謁見の間を出た。

廊下で、私は壁に手をついた。

分かり合えなかった。

父上と、分かり合えなかった。

涙が溢れそうになって、私は顔を上げた。

窓の外に、向日葵畑が見える。

あの日、父上と歩いた花畑。

父上、あなたは向日葵のように生きろと言いました。

でも、今のあなたは、太陽ではなく過去を向いているのではないですか。

三日後。

帝国軍が、国境を越えた。

報せは瞬く間に城に届いた。五万の大軍。対するアイゼンブルク王国軍は一万五千。勝ち目はない。

父上は、最後まで戦うことを選んだ。

城下町に避難命令が出された。だが、逃げ切れる者がどれだけいるか。

私は自室で、窓の外を見ていた。

人々が荷物を抱えて逃げていく。子どもが泣いている。老人が倒れている。

これが、戦争。

これが、誇りの代償。

扉がノックされた。

「アリア様」

侍女のマルタだった。いつも優しく微笑んでいる彼女の顔が、今は強張っている。

「父上は」

「陛下は、城門へ向かわれました」

自ら戦場に立つつもりなのだ。

私は立ち上がった。

「マルタ、私も行くわ」

「なりません」

マルタが私の腕を掴んだ。

「あなた様は、ここにいてください」

「でも」

「お願いです」

マルタの目が、涙で潤んでいた。

その時だった。

遠くから、轟音が響いた。

爆発音。続いて、悲鳴。

城が、揺れた。

「始まった」

マルタが呟いた。

窓の外を見る。城下町から、煙が上がっている。

帝国軍が、街を焼いている。

「アリア様、逃げましょう」

マルタが私の手を強く引いた。

廊下を走る。城の中が混乱している。人々が逃げ惑っている。悲鳴が響く。

階段を下りる。裏門へ。

足音が追ってくる。重い、軍靴の音。

「こっちです、早く」

マルタが私を引っ張る。

裏門が見えてきた。

そこで、マルタが立ち止まった。

「マルタ?」

「アリア様」

マルタは私の手を、ぎゅっと握った。

「一緒に来て」

私は言った。

マルタは首を横に振った。

「私は、囮になります」

「だめよ、そんなの」

「あなた様は、生きてください」

マルタは私の手を離した。

そして、来た道を戻り始める。

「マルタ!」

「それが、私たちの願いです」

マルタが大声で叫び始めた。「こっちです、王女はこっちです」と、わざと違う方向を示しながら。

重い足音が、マルタの方へ向かっていく。

私は裏門を開けた。

二人の近衛兵が、そこに立っていた。見覚えのある顔。父上に長年仕えてきた、歴戦の兵たち。

「お逃げください、姫様」

一人が言った。

「我らは殿を務めます。どうか」

言葉が続かなかった。

私は頭を下げた。ありがとう、と言おうとして、声が出なかった。

ただ一度だけ振り返り、そして扉の外へ。

背後で扉が閉まる音。

続いて、剣戟の音。

私は走った。

向日葵畑を抜ける。炎が迫っている。煙が目に染みる。黄色い花が、次々と燃えていく。

あの日、父上と歩いた花畑が。

幸福な記憶の場所が。

灰になっていく。

森へ。木々の間を縫って。枝が頬を引っ掻く。つまずいて転ぶ。膝が痛い。それでも立ち上がる。また走る。

どれだけ走っただろう。

息が切れた。喉が焼けるようだった。足がもつれる。

もう、無理。

私は木の根元に崩れ落ちた。

振り返る。

城が、燃えている。

真っ赤な炎が、夜空を照らしている。

アイゼンブルク王国が、滅びていく。

父上は。

マルタは。

近衛兵たちは。

涙が溢れた。声を殺して泣いた。

嗚咽が止まらない。体が震える。

全てが、終わった。

私の国が。

私の家族が。

私の、幸福な記憶が。

全ては、灰になった。

向日葵も。

城も。

人々の笑顔も。

全部、全部。

灰に。

どれだけ泣いただろう。

やがて涙も枯れて、私はただ、虚ろな目で炎を見つめていた。

もう、何も残っていない。

もう、何もかも。

その時だった。

足音が聞こえた。

草を踏む音。枝を折る音。

誰か、来る。

私は顔を上げることもできなかった。

帝国兵だろう。もう、逃げる力も残っていない。

ああ、ここで終わるのか。

それでも、いい。

もう、疲れた。

足音が、近づく。

そして、止まった。

私の目の前に、誰かが立っている。

月明かりが、その人の姿を照らしていた。

男だった。

灰色の髪。灰色の瞳。傷だらけの顔。

粗末な服を着て、腰には剣を下げている。

男は、私を見下ろしていた。

その目には、何の感情もなかった。

ただ、冷たく、虚ろで。

灰色の瞳が、私を映している。

男は、ゆっくりと口を開いた。

「アリア・フォン・アイゼンブルク」

低い声。

掠れた声。

男が、私の名を呼んだ。

そして。

「お前を、殺しに来た」

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