第七話 花に忍び寄る影
【第二章のあらすじ】
父王に冷遇され、姉ラーニアに虐げられながらも、ひっそりと花のように生きるアーシャ。
だが、姉の婚約者だった名門の若き貴公子ファリードは、アーシャへと想いを募らせていく。
ファリードの想いは、ラーニアの嫉妬と憎悪を燃え上がらせ、やがて刃となってアーシャへと迫る。
アーシャを護ると誓ったターリクは、主とともに運命へ抗う道を選ぶ──。
王宮では、日陰で健気に咲く花を、無情にも手折ろうとする影が蠢いていた──
その日、離宮の朝は静かだった。
庭では小さな噴水が涼やかな水音を響かせ、木々に群れる小鳥たちが羽を震わせる。アーシャは薄紫のヴェールを整え、小鳥や池の魚たちに微笑みかけた。
手に持った小さな水差しを傾け、足元を彩る花々に水をそっとかける。滴が赤い花弁を濡らし、陽に透けて宝石のように光る。
「ありがとう、今日も綺麗に咲いてくれて……」
囁きかける声は穏やかで、柔らかく風に溶けていった。
少し離れた門の傍らに、背筋を伸ばして立つ影がある。
離宮の衛兵ターリク。青い瞳が離宮の門から庭の隅々まで鋭く巡り、わずかな物音にも耳を澄ませていた。だが、その視線がふと王女の姿に触れたとき、氷のような眼差しは一瞬、淡い温かさを帯びるのだ。
アーシャが顔を上げると、彼はすぐに目を逸らし、衛兵としての構えに戻る。
その変わらぬ姿が、かえって彼女の胸に静かな安らぎを与えていた。
だが、その安らぎを乱す影が不意に現れる。
「ターリク……お勤めご苦労さま」
紅色の薄絹を揺らして、ラーニアが王宮の回廊から姿を現した。離宮の門をくぐった緋色の髪は陽を受けて燃えるように輝き、艷やかな唇には妖艶な笑み。
微笑みかけても表情を変えない衛兵に近づき、自慢の体を青い衛兵の隊服にそっと押し付ける。艶やかな肌と緋色の髪からは、甘く刺激的な香りが漂う。
「ターリク、私の傍に戻らない? ……給金も、離宮の衛兵とは比べものにならないわ……それに、私に触れることを──」
「ラーニア王女殿下。恐れながら、お体が近すぎます。衛兵の私は、ここから動けませんので……」
色を変えないターリクの青い瞳が伏せられる。端正な顔は表情を変えず、切れ長の美しい瞳は石畳を静かに見つめている。
その様子を見つめていたラーニアが、悔しそうに唇を結ぶ。鳶色の瞳は揺れ、噛み締めた唇は震えていた。
(今まで、私の誘いに手を伸ばさなかったのはこの男だけ……アーシャになんて渡さないわ。ターリクを、今日こそ手に入れてみせる……!)
「ターリク、これが最後よ。……まだ間に合うわ……私の近衛に戻してあげるって言ってるのよ? ……ずっと、こんな所にいるつもりなの?」
扇の骨で肩章をなぞり、切なげな眼差しで顔を近づける。
王宮で仕える男なら誰もが憧れる王女ラーニアからの誘い──だが、ターリクは眉一つ動かさなかった。
「お戯れを……私は与えられた任を果たすのみです」
低い声が、石畳に硬質な響きを落とす。乾いた強い風が拭いて、砂色の髪と緋色の髪が激しく靡く。
(“ザフラーンの紅い宝石”と呼ばれるこの私が、これだけ声を掛けてあげてるのに……!)
ラーニアの美しい笑みが歪む。
「この私の誘いに……まだそんなことを……!」
紅い爪先が扇をぎり、と締めつける。怒りに燃え始めた鳶色の瞳にも、ターリクは動じる様子を見せない。
「ターリク……もう、この先はないわよ!」
ラーニアは捨て台詞を残し、紅色の衣を翻して去っていった。
その背を見送りながら、ターリクの胸に記憶が蘇る。
* * *
二年前、ターリクがまだ王宮の近衛兵だった頃──第一王女を守る近衛として任じられていた。
ある夜更け、背後に守る王女の寝室の扉がゆっくりと開かれた。振り返ると、窓辺から差し込む月明かりの中で、まだ少女だったラーニアが美しく微笑んでいた。
彼女は目を見開くターリクへゆっくりと歩み寄り、金の髪飾りを外して緋色の髪をほどくと、熱く見つめた。
月明かりに照らされた紅色の薄絹から、充分に育った豊満でしなやかな体がうっすらと覗き、波打つ豊かな髪や薄絹を纏う体から甘い香がふわりと香る。
「あなたなら、私を退屈させないでしょうね……」
まだあどけなさがわずかに残る甘い声でラーニアはそう囁くと、ターリクへと手を伸ばす。
「私のこと、好きにして良いのよ……?」
その鳶色の瞳には甘い誘惑と、望まれて当然という傲慢さが宿っていた。
ラーニアの指先が、近衛の濃紺の隊服の胸元をなぞる。見た目にはわからなかった厚い胸板の硬さに、鳶色の瞳が期待に揺れ、紅い唇からは甘いため息が零れた。
ターリクは深く頭を垂れ、ただ一言「恐れながら、私には王女殿下を守る任がございますので」と退いた。
まだ十七歳だったラーニアは、愕然とした表情を浮かべるとすぐに俯いた。その揺れる瞳は涙を滲ませ、次第に羞恥と屈辱に染まっていった。
その夜以来、ラーニアは自らの美貌を心から誇れなくなった。どんな男でも靡くはずと信じて疑わなかった微笑みが、この男には通じなかった──それが彼女の自尊心を狂わせ、手に入らない男への憎しみと、自覚のない執着へと変わっていった。
翌日、ターリクは王宮付きの近衛兵の任を解かれ、離宮の警護へと異動を命じられた。
周囲は口々に、「近衛兵から離宮の衛兵になるとは、気の毒に」と噂した。だが──
(あの夜のおかげで……私は、こうしてアーシャ様をお守りできる……)
ターリクには、悔いは微塵もなく、感謝の気持ちさえ抱いていた。
* * *
一方そのころ、都の繁華な一角にある豪奢な屋敷では、酒と笑い声が渦を巻いていた。
「聞いたか? なんとファリードが、アーシャ王女殿下を娶るそうだ!」
「なんと……あの“ザフラーンの白い花”を? 羨ましいことよ」
ザフラーンの有力貴族で豪商でもあるカリーム家の嫡男、ファリードは杯を掲げた。
琥珀色の瞳は歓喜に溺れ、隠しきれぬ自尊心が溢れ出す。
「そうだ。陛下より正式にお許しをいただいた。──アーシャ王女は、私の妻となるのだ」
友人たちは一斉に羨望の声を上げた。
「“日陰の花”と聞いていたが……実際はまさに天女のようだった」
「羨ましい! あの真珠のような肌に触れられるなんて……」
下卑た想像を含む言葉に、ファリードの笑みが一瞬だけ硬直した。
胸の奥からこみ上げるのは優越感ではなく、嫌悪と怒りに似た熱だった。
(……貴様らに語らせるものか。アーシャ王女は、私のものだ……あの清らかさは、誰にも穢させない……!)
ファリードの握っていた繊細な硝子細工の杯が割れ、鮮血と赤い葡萄酒が零れて絨毯を染めた。
数多の女を泣かせてきた過去の自分を棚に上げ、彼はただ一人、アーシャだけは清らかでなければならぬと願っていた。
* * *
夜。王宮の奥、誰もいない回廊の闇。
そこに、影が二つ佇んでいた。
「……あの方を、消せば良いんだな」
低い声が囁く。灯火に揺れるのは、冷たい刃の輝き。
その手に渡された革袋と、誰かの命令。
影に囁く声は女のものではなかったが、その革袋には命じた者を想像させる甘く刺激的な香の匂いが残っていた。
狙われた花は、まだその危うさを知らない。
静かな闇に、砂を踏む足音だけが遠ざかっていった。
次回、第八話「失われた命」
穏やかな午後、花咲く離宮に忍び込む見えざる刃──静かに忍び寄る影は、アーシャの命を狙う。
その時、小さな命が儚く散り、すべてを悟った青い瞳が動いた。
涙と決意の交錯の中、王宮で蠢く憎悪に満ちた影が、アーシャの運命を大きく揺り動かしていく──。




