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第六話 婚約破棄

 王の誕生を祝う宴が終わり、一週間ほどが経った。

 ザフラーン王国の謁見の間では、白大理石の床に陽が差し込み、金細工の装飾がまばゆい光を返していた。


 王座に座るシャフリヤール王の前に、ひとりの青年が進み出る。豊かな黒髪を襟足で結って背に流し、琥珀の瞳をまっすぐに向ける──第一王女ラーニアの婚約者、名門カリーム家の嫡男ファリードであった。


「国王陛下……どうかお聞き届けください」


 ファリードの声に、玉座の間が静まり返る。彼は深く膝を折り、恭しく頭を垂れた。


「私は……ラーニア王女殿下との婚約を解消し、アーシャ王女殿下を正妻に迎えたいと願っております」

「──何を申すか!!」


 玉座の間を震わせるような大声が響いた。左右に控えていた従臣たちが息を呑み、誰もが凍りついた。

 ファリードは王の怒気を浴びながらも、視線を逸らさず言葉を重ねる。


「本来ならば当主である父が申し上げるべきところ……しかし、アーシャ王女を妻に迎えたいという願いは、私自身の覚悟ゆえに。どうか直々にお聞き届けいただきたいのです」


「無礼を承知の上での願いでございます。ですが……」と、彼は用意していた理を一つひとつ突きつけていった。


 ──ラーニア王女殿下の類稀な美貌と才は、むしろこの国に留めるより、他国の王妃として国益を広げるにふさわしい。


 ──アーシャ王女殿下は離宮で暮らしており、このままでは一生日陰の身。国王陛下の高貴な血を受け継ぐ王女でありながら、王宮の片隅で一生を終えてしまう。


 ──もしアーシャ王女殿下との御縁を賜ることができたなら、代償として至高の逸品といわれる“暁の女神の紅玉”を献上し、カミーラ王妃殿下が求めておられた宝飾として捧げる──。


 ざわめきが広がった。


「“暁の女神の紅玉”と言えば、あのサフィールで採れたという……」

「一城ほどの価値があると聞くが……」


 家臣たちが囁き合う中、ファリードの瞳が真っ直ぐに国王を見つめる。


「国王陛下、私は、アール=カリーム家の名にかけて、この御縁を賜りたく、心よりお願い申し上げます」


 響いた青年の真剣な声に、王の間が静まり返る。


(“暁の女神の紅玉”……確か、カミーラがずっと欲しがっていた宝石だな……)


 王は重々しく瞼を伏せ、長い沈黙の後、深く息を吐いた。


「……そこまで申すか」


 シャフリヤール王の声音には、苦々しい色が滲んでいた。だが、最後には重く頷いた。


「よかろう……我が娘、アーシャを娶るがいい。ラーニアには、改めて良き縁を探そう」

「感謝いたします……あの御方こそが、私の未来にふさわしい、唯一の姫君にございます」


 ファリードの膝を折る姿勢は変わらぬまま、その声だけは押さえきれぬ熱を孕んでいた。


(暁の女神の紅玉……カミーラの喜ぶ顔が眼に浮かぶ)


 愛する王妃のことを思い浮かべるシャフリヤール王は、髭を撫でながらかすかに口元を綻ばせた。


 そのとき、玉座の間の奥に潜んでいた影が、ぎり、と音を立てて扇を握りしめた。

 ラーニアである。彼女の紅い爪先から、扇の骨がひび割れるほどの力が加わっていた。


(ファリード様……私を捨てて、アーシャを望むというの……?!)


 王への嘆願が認められ、薄い微笑みを浮かべているファリードの姿を、紅い垂れ幕の隙間から鳶色の瞳が見つめる。


(この国の貴族で、彼ほど私の伴侶としてふさわしい方はいないわ……ファリード様は、私の隣に立つべき人なのよ! それなのに……! アーシャなんかに、渡してなるものですか……)


 紅い唇が震え、怒りと屈辱で顔が歪んだ。


* * *


 謁見の後。

 王が一人でいるところへ、ラーニアは烈火のごとく飛び出した。


「お父様! どうしてですの! なぜアーシャに……!」


 王は眉を顰め、娘を見下ろす。


「ラーニア、聞いていたのだな……お前ならば、別の良縁を得られる。お前には美貌も華もあるではないか。だが、アーシャには行き場がない……可哀想なあれを救うためにも、この縁は必要なのだ……」


「このまま、ずっと離宮に置いておくわけにもいくまい……」と呟いた父王に、ラーニアは唇を震わせる。


「行き場がない……ですって……?」


 ラーニアの胸を突いたのは、父の言葉よりも、その無造作な冷たさだった。

 彼女にとってアーシャは「取るに足らぬ日陰の妹」に過ぎない。なのに父は、光を浴びる自分ではなく、長年離宮に放っておいたアーシャを「救う」と言ったのだ。そして、ファリード様からの婚約破棄を受け入れた……私がどんな想いをするかも考えずに……!


(……アーシャ、やっぱりあの子が……!)


 紅い唇を震わせ、ラーニアは玉座の間を後にした。


* * *


 その夜。

 ラーニアは母である王妃の私室に駆け込み、涙ながらに訴えた。


「お母様! お父様が、私の婚約者のファリード様とアーシャを結婚させると……! 私のファリード様が、アーシャなんかに……!」


 王妃は娘を抱き寄せ、柔らかく微笑んだ。薔薇の花を思わせる豊かな赤毛に、成熟した色香を漂わせながら、紅い唇を開く。


「あらあら……泣くことはないわ、可愛いラーニア。あなたほど美しい娘なら素晴らしい殿方が星の数ほどいるでしょう? むしろ好都合よ。他国の王妃になれば、私のように幸せになれるわ」


 ラーニアは愕然と顔を上げた。

 母の声は、慈しみに満ちているはずなのに──ラーニアの心の痛みを和らげるものではなかった。

母は確かに愛してくれている。けれど、いま自分が欲しいのは未来の栄華などではなく、ただ“ファリード様”なのに……。


「……お母様……?」

「ふふ、アーシャは所詮、日陰の花よ。貴族の妻で終わるのがお似合い。ファリードは、いくら見目が良く財を持っていても、所詮はただの貴族なのだから……」


 母親の言葉に、瞬きをしたラーニアの瞳から涙が零れ落ちる。


「あなたは違うわ。この国の王妃の娘なのよ。太陽の下に立って、誰よりも輝く存在なの──さあ、涙を拭いて。あなたにはもっと大きな未来があるのだから……」


 王妃の声は甘く、慰めるようでいて、娘の痛みに本気で寄り添ってはいなかった。


「可愛いラーニア、あなたには私のような……いいえ、きっと、もっと立派な玉座が待っているわ」


 王妃の手が、ラーニアの髪を優しく撫でる。

 ラーニアは抱きしめられながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。


* * *


 部屋を出たラーニアの瞳は、もはや涙に濡れていなかった。

 代わりに、嫉妬と憎悪の炎が燃えさかっていた。


(お父様も、お母様も……誰も分かってくれないのね……。だったら──)


 扇の骨が、ぱきりと音を立てて折れた。

 彼女の心には、ただひとつの答えが刻まれていた。


「……アーシャさえ、いなければ……」


 闇に沈む回廊の先。

 灯火が揺れ、紅い影が長く伸びていった。

次回、第七話「花に忍び寄る影」


王宮に渦巻く嫉妬と執着。

ラーニアとの婚約を解消しアーシャを望んだファリードと、ラーニアの誘いを退け続ける衛兵ターリク──男たちの拒絶は、ラーニアの自尊心を深く傷つけ、アーシャへの更なる憎悪へと変わっていく。

何も知らずに静かに咲く花を枯らそうと、静かに迫る闇──。


第二章「狙われた花」。男たちは、アーシャを守ることができるのか──

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