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第五話 燃える瞳

 宴から一夜明けても、王宮はまだその余韻に包まれていた。

 宴の舞台で、淡い水色の装束に紫水晶の瞳を煌めかせて舞ったアーシャの姿は、見た者の心に強烈な印象を残したのだ。


「ザフラーンの白い花とは、まさにあのことよ」

「なんと清らかな姫君だ……。これまで隠されていたとは惜しい」


 年齢も性別も関係なく貴族たちは口々に噂し、若い士官や王侯貴族の子息たちの多くも、密かにその名を囁き合った。

 花嫁を望む年頃の貴族たちは、口々に語った──「あの清らかなザフラーンの白い花を、花嫁として迎えられたらどれほど幸せか……」と。


 ──だが、その賛美の声がラーニアの耳に入ると、甘い蜜はすぐに毒へと変わる。


「……皆、あの子のことばかり!」


 ラーニアは玉座の間の回廊を歩きながら、長い爪を立てるように扇を握りしめた。

 昨夜の宴で、婚約者のファリードがアーシャに向けていた熱の籠もった瞳を思い出す。ファリードは、婚約者である自分ではなく、あの娘に心奪われていたのだ。


 父王や王妃である母に泣きつきたいけれど、それは女としての誇りが許さなかった。


 ──地味で貧相なアーシャよりも、この私の方がずっと華やかで美しいし、女として魅力的だ。男は誰だって、この私に夢中になる。それなのに……。


 不意に、自分の誘いを拒んだターリクの冷たい瞳を思いだし、ラーニアは怒りに震えた。


(あの男も、私には冷たい言葉しか返さないくせに、アーシャには甲斐甲斐しく付き添って……)


 怒りと屈辱が胸を灼き、彼女の美しい顔に険しい影を落とす。


「アーシャ……許さない、絶対に……」


 扇を閉じる音が乾いた音を響かせる。その視線には、誇りと自信を踏みにじられた女の嫉妬が渦巻いていた。


* * *


 午後になると、アーシャの離宮には、招かれざる訪問者の姿があった。

 白地に金糸をあしらった豪奢な外套を纏い、悠然と歩み寄るのは、豊かな黒髪に褐色の肌の美しい青年──ファリードである。


「ご機嫌麗しゅう、アーシャ王女」


 琥珀色の瞳に柔らかな笑みを浮かべるファリードに、アーシャは身を固くした。


「カリーム様……」


 ──姉姫ラーニアの婚約者。彼がなぜ、この離宮に……。


「御機嫌よう……お姉様の婚約者の方が、どうしてこちらへ? このような離宮にご用とは、不思議でございますね」


 毅然とした紫水晶の瞳が真っ直ぐ彼を射抜いた。

 ファリードは一瞬たじろいだが、すぐに笑みを深める。


「ただ、あなたに一言申し上げたくて……昨夜の舞、まるで天上から女神が舞い降りたかのようでした……」


 その言葉にアーシャは眉を寄せ、かすかに微笑むと静かに首を振る。


「ご冗談を。……そのようなお言葉は、お姉様にこそおかけくださいませ」


 凛とした拒絶の瞳に射抜かれた瞬間、ファリードの脳裏に過去のラーニアの姿がよぎった。

 夜会で初めて出会ったあの日、迷いなく彼を誘った少女。──艶やかではあったが、彼にとってはただの遊び相手に過ぎなかった。彼女が自ら求め、ファリードは軽い気持ちで受け入れた。

 だが、一年前に第一王女ラーニアとの婚約が決まった時、血の気が引いたことを今でも覚えている。あの王女を娶るなど、望んだことは一度もなかったのだから。


 ──だが、この王女アーシャは違う。

 凛とした拒絶の奥に秘められた気高さが、ファリードの胸を強く打ち据えた。

 儚げでありながらも、真っ直ぐに見据える清らかな瞳。その一瞬で、ファリードは初めて“欲”ではなく、“渇望”を覚えていた。


「アーシャ王女──」

「カリーム様……離宮でのご用事がお済みでしたら、どうぞお姉様の元へ」


 アーシャはそう言い切ったものの、胸の奥では小さな震えが走っていた。

 ──姉の婚約者に望まれるなど、決して許されないこと……背筋を冷たいものが走った。


 アーシャの態度に、ファリードは胸の内がかすかに苦しくなるのと同時に、動揺していた。


 アーシャは、“日陰の花”と揶揄され、王女でありながらこの小さな離宮に追いやられている、幼い頃から不遇で気の毒な身の上だと評判の姫君。ザフラーンの有力貴族で、豪商でもある名門カリーム家の嫡男である自分なら、声を掛ければ喜んで頼ってもらえるはずだとファリードは信じていた。

 だが、返ってきたのは凛とした拒絶。アーシャは、儚げでありながらも、王女らしい気高さを持っていた。

 その清廉さが、かえって彼の執着心を煽った。

 アーシャの凛とした振る舞いは、この一度で彼の心を捉えてしまったのだ。


 今まで、ファリードは数多の女性を虜にし、自ら擦り寄ってくる女性も少なくはなかった。ラーニアもその内の一人だった。

 だが、女性を妻として迎えたいと願ったのは、彼にとって生まれて初めてのことだった。


「……アーシャ王女、私は真剣に──」


 さらに言葉を重ねようとした瞬間、門の方から硬い足音が響いた。

 戻ってきた衛兵の影──ターリクである。


 鋭い青の瞳が、ただならぬ気配を察したかのように二人へ向けられる。

 ファリードはその視線に気づき、アーシャに一礼すると、軽く外套を翻した。


「……今日はこれで失礼します」


 すれ違いざま、彼とターリクの視線が交錯した。

 剣を抜いたわけでもないのに、火花が散るような緊張が走る。


(衛兵風情が、この私に向かって生意気な……)


 ファリードは薄い笑みを浮かべたまま去っていき、静寂が残された。


(あの男を、王女様に近づけるわけにはいかない……)


 ターリクは、去っていくファリードの後ろ姿を鋭い眼差しで見つめる。


「王女様……お気をつけください。あの方は……」


 言いかけて、ターリクは口を閉ざした。

 しかしアーシャには、その沈黙の奥にある懸念が伝わった。

 紫の瞳を伏せながら、彼女は静かに小さく頷いた。


* * *


 その日の晩。貴族の屋敷の奥の一室で、若い男たちの笑い声が響いていた。

 ファリードは友人たちと杯を酌み交わしながらも、心は昼の出来事に囚われていた。


 ──アーシャ王女……儚げで、か弱い姫君かと思っていたが、あれほどの気高さを持っているとは……。


 ファリードは、自身に向けられた真っ直ぐな瞳を思い出していた。


 ──欲しい。あの美しい瞳が……あの可憐な声で、この名を呼んでもらえたなら……。


 だが、耳障りな話題に、その清らかな姿が掻き消される──


「いやぁ……ラーニア王女殿下は、確かに素晴らしい美貌の姫君だ……だが、どうも奔放が過ぎるらしいな」

「夜だけじゃないぞ、昼でも男を呼び寄せると噂だ……。もし子が出来ても、誰の子やら」


 そう言って、ちらりとファリードを窺う友人たちの視線には、同情と侮蔑の色が含まれている。


「ふん……それでも、あのお方に誘われて断れる男がいるのか? ……まぁ、俺たちには到底叶わん相手だが……」

「見目の良い男でないと、あのお方は目もくれないからな……」


 語られた話には、ファリード自身、よく心当たりがあった。あまりにも耳の痛くなる話題に、ファリードは彼らを追い出したい気分に駆られたが、彼のプライドがそれを許さなかった。


「妹姫の、アーシャ王女殿下は随分と清らかなお方らしいな……離宮でひっそりと暮らしておいでとか……」

「……まだ、何も知らないんだろうなぁ……」

「おい! “ザフラーンの白い花”を汚すようなことを口にするなよ! まぁ、簡単に興じると噂のお方とは大違いだろうが……」


 男たちの笑い声が響く。


(不愉快だ……)


 眉間に皺を寄せるファリードには誰も気付かず、下卑た笑いと酒の匂いが部屋を満たす。だが、やがてその中の一人が口を開く。


「俺なら絶対に“ザフラーンの白い花”だな。清らかで可憐で……あの王女様は、守って差し上げたくなる……」


 発された言葉に、その場にいる男たちが何度も頷く。


「あの真珠のような肌、たまらないよなぁ……」


 その瞬間、ファリードの手にあった杯が軋むように鳴った。

 中の葡萄酒が揺れ、赤い滴が手の甲に零れる。


 友人たちの談笑が続く中、彼はただ黙って杯を握り締める。


 ──ラーニア王女との婚約は国王と父親が定めたもの。カリーム家の嫡男として、背くことは許されない。


(……それでも、あの瞳を諦められるものか……)


 脳裏には、離宮で毅然と言葉を返してきた少女の姿が焼きついていた。


(……私だって、妻に迎えるなら……欲しいのは、あの清らかさだ。アーシャ王女……あなたこそが、私にふさわしい……誰にも、渡すものか……)


 静かに、しかし確かな執念が、彼の胸に芽吹いた。

 その瞳の奥で燃えるのは、理性を越えた執着と欲望の炎だった──


* * *


 翌日の昼下がり。

 王宮に程近い、貴族たちの邸宅が並ぶ閑静な住宅地。その中でも、カリーム邸は一番広大な敷地を持ち、美しい庭と贅を尽くした立派な屋敷が、その家門の豊かさを示していた。


 当主の部屋からファリードが足早に去っていったあと、部屋に残された両親の間には沈黙が残った。

 深く溜め息を吐いた当主である父親は、杯を置きながら低く呟く。


「……言い出したら、聞かないからな……仕方あるまい」


 その横で、当主夫人は長い沈黙ののちに小さく笑みを漏らした。


「正直、安堵していますの。──“あの王女殿下”をファリードの正妻に迎えるなど、わたくしには到底受け入れられませんでしたから」


 紅茶を見下ろす視線には冷ややかな色が浮かぶ。

 まだ少女だった頃から夜会で奔放さを晒し、いまや社交界の貴婦人たちの間でも噂の種となっているラーニアの姿が脳裏にちらついたのだろう。


「生まれた子が、本当にファリードの子か……そんな疑念に一生縛られるなど、屈辱以外の何物でもありませんわ」


 吐き捨てるような声に、当主は頷きながら静かに杯を回した。その様子を見ながら、夫人は言葉を続ける。


「……ラーニア王女殿下は確かに華やかな御方。ですが、息子の心が伴わぬ縁など破綻は見えています。──アーシャ王女殿下であれば、ファリードも“夫”として変われるでしょう」


「……そうだな……確かに、アーシャ王女殿下は清らかで心根もお美しいと評判だ。これであのファリードが落ち着くなら、むしろ望ましい縁かもしれんな」

「ええ……けれど、問題は王のお心でしょう。シャフリヤール陛下が素直にお認めになるとは限りませんわ」


 夫人は不安気に瞳を伏せた。


「ですが……あの子が初めて、心から誰かを求めているのですもの。ならば──私はそれを支えてやりたいと思うのです」


 その声には、安堵とともに親としての確かな想いが籠もっていた。


 こうしてカリーム家は、息子の決断を家としても受け入れた。


 数日後、ファリードは王宮へ向かい、王の前で婚約破棄を願い出ることとなる──それが、愛しい王女アーシャを巻き込む嵐の幕開けとなるとも知らずに……。

次回、第六話「婚約破棄」


王の前でファリードが嘆願したのは、ラーニアとの婚約解消と妹姫アーシャへの求婚。国益を口実にしながらも、ファリードは熱い瞳でアーシャを見つめる。

裏切りと屈辱に震えるラーニアの心は、更なる嫉妬と憎悪に染まっていく──

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