第三話 宴の準備
王の誕生祝いの宴が近づくにつれ、宮殿は朝から香の甘い匂いと絹の擦れる音で満ちた。職人は金糸の縁取りを直し、楽人は音階を合わせ、侍女たちは宝石の飾りを光に翳しては色を確かめる。
舞の稽古場となった大広間には紅い敷物が新たに敷かれ、天井から下がる灯りが磨かれた床に揺れていた。
今日は、姉妹の対の舞の通し稽古だ。
先に入って来たラーニアは、燃えるような緋色の髪を高く結い上げ、美しい深紅の薄絹を纏っている。立つだけで視線を集める華やかさを放っていた。
続いて、淡い水色の薄絹をまとったアーシャが入ってくる。静かな佇まいは水面の光のようで、目にした者の呼吸を自然に落ち着かせた。
アーシャにとって、宴に参加することも、人前で舞を披露するのも初めてのことだった。わずかに緊張した面持ちで、堂々としたラーニアの隣に静かに立つ。
「始めます」
楽人長の短い合図。弦の柔らかな一撥で、二人は同時に一歩を踏み出した。
ラーニアの舞は大きく、艶やかに空間を支配する。腕が大胆に弧を描き、緋色の薄衣が花弁のように開くたび、見ている者を虜にした。
対してアーシャは、指先まで息の通った静かな美しさ。繊細な足さばきは正確で、水色の薄衣が澄んだせせらぎのように流れ、見る者の心を清らかにさせる。
曲が折り返しに差しかかったとき、ラーニアがさりげなくアーシャの前を横切った。
ふたりの袖がふわりと触れ、アーシャの進路が半歩、狭められる。
ラーニアの緋色の裾が一瞬大きく翻り、その先がアーシャの足首をかすめた。
ほんのわずか、しかし確かにバランスを崩すほどの動き。
「っ……」
アーシャの身体が傾きかける。けれど咄嗟に膝を折り、柔らかに体を捌いて姿勢を戻した。舞の型は乱れなかったが、心臓がひどく高鳴っている。
「……失礼」
横目で微笑むラーニア。
その瞳の奥に一瞬、挑むような光が走った。
アーシャは瞬き一つで間合いを調整し、乱れを見せずに舞を続けた。
次の型。ラーニアは自分の回転を一拍長く取り、視線を客席の奥に投げるように見せる。
その分、対になるアーシャの見せ所が薄まった。
だがアーシャは、与えられた枠の中で最も美しく見える角度と間を選び、繊細な舞いで視線を惹きつける。
曲が終わる。
楽人が音を収めると同時に、稽古場の空気がほどけた。
「アーシャ、悪くはないけれど……」
ラーニアはアーシャに近付くと扇を開いた。紅い唇に笑みを乗せたまま、さも優しげに言う。
「もっと大きく舞わないと、最後列までは届かないわよ。そうね、こう──」
彼女はアーシャの肩に軽く触れ、意図的に袖を絡めて見せた。
薄絹の袖が破れないようアーシャは一歩下がり、丁寧に会釈する。
「お姉様、ご助言感謝いたします。……わたしは、型を外さないよう心を置いております」
「アーシャは真面目ね……けれど舞は“見られてこそ”よ?」
ラーニアは意味ありげに笑い、扇で自分の喉もとをそよいだ。鳶色の美しい瞳が、アーシャの装いを不躾に眺め回す。
「それに……その衣、似合ってはいるけれど、ちょっと地味すぎない? 宴なんだから、もっと華やかなものを纏えば良いのに……」
「私の衣は、今度の宴のためにお父様が新しく誂えてくださったのよ……」と緋色の袖をふわりと広げ微笑んだラーニアに、アーシャは瞳をそっと伏せる。その様子を見て、ラーニアが目を細めて笑った。
「そんな衣では、お父様の──誰の目にも留まらないわよ。……まぁ、アーシャにはその地味な衣がお似合いかしら?」
何も返せず俯くアーシャを、ラーニアは笑って見つめている。
「アーシャ? 具合でも悪いの?」
「……いえ……少し、疲れてしまっただけです」
そう小さく返したアーシャに、「まぁ、アーシャは随分か弱いのね……本番は大丈夫かしら」とラーニアは笑い、扇で口元を隠す。
水色は、亡き母が好んで纏っていたという大切な色──母が遺してくれたこの水色の衣は、アーシャにとっては何より大切な一着だった。
アーシャは袖をそっと握り締めた。母が遺してくれた形見の衣──これだけは、誰に笑われても手放せない。
そのとき、手を叩く音が大広間に響いた。
楽人長が場を取りまとめる。
「本番ではお二方の対比が見せ場になります……ラーニア王女様は大胆な奥行きで魅せ、アーシャ王女様は繊細な線の清らかさで……。このまま、もう一度」
アーシャは小さく息を整え、頷いた。
ラーニアは「当然ね」と言わんばかりに顎を上げ、再び位置につく。
* * *
夕刻、稽古はお開きとなった。
侍女たちが衣を整える間、アーシャは大広間の外の柱影で水の入った銀杯を受け取る。汗は少し、息も乱れていない。けれど心はわずかに波立っていた。
──父王に捧げる舞は、二人でひとつ。才能や体格の差はどうしようもない。姉様が大きく魅せるなら、私は線で支える。
そう言い聞かせるように、アーシャは水の入った銀杯を両手で包む。
「王女様、お疲れが残りませんよう」
背後から、静かに落ち着いた声が響いた。
振り返れば、大広間の外で控えていたターリクが一歩だけ近づき、深く頭を垂れていた。
青い瞳は、いつも通りの誠実な色。
「ありがとう、ターリク」
安堵したように微笑んだアーシャに、彼の睫毛が一瞬だけ揺れる。
「お身体を冷やされませんよう……侍女たちが、湯を準備しております」
アーシャが頷くのを確かめると、ターリクは一礼して静かに回廊の端に退いた。
* * *
その少し前。
アーシャが衣を直している間、ターリクは大広間の外の回廊に佇んでいた。近衛のいない第二王女のため、アーシャが離宮を離れる際は身辺警護としてターリクが付き添うようになっていた。ターリクが門を離れる際は、別の衛兵たちが交代で門と離宮を警護している。
夕光が砂の色を濃くする刻限、石畳は温もりを残していた。
「ちょうど良かったわ」
回廊の柱の影から現れたラーニアが、ターリクの姿を目にし軽やかに歩み寄る。
結い上げられた緋色の髪が揺れ、金の飾りが細く鳴った。
「ターリク……前に私を拒んだこと、後悔しているでしょう?」
甘い香りとともに、囁きが耳元で落とされる。
扇の先が、ふわりとターリクの肩章すれすれを撫で、豊満な身体が軽く押し付けられる。
ターリクは一歩退き、礼の傾ぎを作った。その角度は完璧で、けれど距離はきっちり一歩、保たれている。
「……お戯れを。私は与えられた任をこなしているだけにございます」
「任、ね。──ふふ……じゃあ、“私の近衛”としての任を再び与えたら?」
ラーニアが更に体を寄せる。夕陽を受けた鳶色の瞳は炎のように熱い。
「恐れながら」
ターリクは視線を乱さぬまま、静かに言葉を重ねた。
「私は王命により、離宮の警護を仰せつかっております。任を離れることはできません」
「そんなもの、お父様には私が言えばどうとでも──」
「お許しください」
はっきりと言葉を遮られたラーニアの笑みが、わずかに固くなる。
「……二度、三度と同じ答え……あなたは、あの時から変わらないのね……」
短い沈黙。
ラーニアは扇をぱたりと閉じ、艶のある声で囁いた。
「いつまで“日陰”に仕えるつもり? 光の側にいらっしゃいな……」
腕を絡めてきたラーニアに、ターリクの睫毛が微かに伏せられた。
「……光も影も、私には等しく与えられた道でございます……失礼いたします」
礼法どおりの退き方で、ターリクは数歩離れた位置へと移動した。そして、その場で何事もなかったかのように佇む。
(どうして、私を見ないのよ……! まさか……)
回廊の端で動かず“誰か”を待ち続けるその姿勢に、ラーニアは閉じた扇に爪を立てる。
──そんなはずないわ……私を拒んだターリクが、あの子を選ぶなんて……。
(……ターリク、私を選ばせてみせるわ……必ず)
ラーニアは、胸の内でそう呟いた。
* * *
日が落ち、灯りが順にともる。
離宮へ戻る回廊で、アーシャはターリクの背中を見つめる。
彼はいつも通り少し前を歩き、角ごとに視線を走らせて安全を確かめている。
──今日も、ターリクは変わらない。
それだけで、胸の奥が不思議と安らいだ。
「王女様、段差がございます」
「ええ」
短い言葉のやりとり。足元を照らす灯りが、ふたりの影を長く引き伸ばした。
遠く、宮廷の大広間からは明日の最終稽古に向けた楽の音が微かに聞こえる。
姉の舞は、きっと明日にはさらに華やかさを増すだろう。
自分はどう舞うべきか。
アーシャは胸に手を当て、静かに息を吸った。
──私は、私の舞を。
恐らく、父王に褒められることはないだろう。華やかな姉姫と比べられることも避けられない──それでも、自分の舞で誰かの心を和ませることができたら……。その想いが、アーシャの胸に静かに灯っていた。
その決意の煌めきを、青い瞳の衛兵は横顔のわずかな変化から察したのかもしれない。
けれど彼は何も言わない。ただ、歩幅を半歩だけ緩め、アーシャが歩きやすい速度に合わせた。
* * *
夜風が砂の匂いを運ぶ。
星が昇り始めるころ、王宮のどこかで扇の音が鋭く鳴った。
嫉妬という名の火が、静かに、しかし確かに燃え始めている。
そして明日、宴の灯りがすべてを照らし出す。
光と影、ふたつの舞は、それぞれの運命を変える一歩となるだろう──
次回、第四話「王宮の宴」
王の誕生祝いの夜、華やかな宴の舞台に立つ二人の王女。
燃える太陽のように華やかなラーニアと、月明かりのように清らかなアーシャ──。
だが、ラーニアの婚約者ファリードの眼差しが捕らえたのは、妹姫のアーシャだった。
その熱い眼差しが、姉妹の運命を大きく狂わせていく……。




