エピローグ ―蒼き海に咲く未来―
サフィールの宮殿にアーシャが迎えられてから、数か月が過ぎた。
海辺の白亜の城に暮らす日々は、アーシャにとって夢のようでありながら、決して楽なものではなかった。
サフィールの王子妃として求められる礼儀作法や言葉遣い、舞踏や音楽、さらには外交に必要な知識まで──すべてが新しく、離宮でひっそりと育ったアーシャには難解で、時に胸を押し潰しそうになった。
* * *
サフィール宮殿の中庭は、まるで楽園のようだった。
白亜の回廊に囲まれたその一角には、美しい花々が咲き誇り、整えられた花壇には薔薇や百合、珍しい砂漠の花までもが彩りを添えている。
中央には澄み切った泉を湛える噴水があり、水音は穏やかな調べを奏でていた。小鳥が噴水の縁に降り立ち、羽を濡らしては軽やかに飛び立っていく。
噴水の縁には白い石のベンチが並び、陽光を受けた水滴がきらめきながら舞い上がる。
この日もまた、長い講義を終えたアーシャは、中庭を訪れていた。
彼女が纏う淡い水色を基調にしたドレスは、陽光を受けて柔らかに輝き、裾には白金の刺繍で星と花の文様が織り込まれている。
頭には青いサファイアがあしらわれた白金のティアラ。腰の白金の帯にも大きなサファイアの留飾りが輝き、サフィール王家の象徴である“蒼の輝き”を身に纏うことで、その存在が“王子妃”であることを示していた。
首元には、ターリクから贈られたサファイアの首飾りが輝いている。
かつて「日陰の花」と呼ばれた彼女が、今や堂々と王宮に立ち、誰もが振り返る美しき王子妃となっていた。
中庭を少し歩いたアーシャは、静かな中庭の東屋に身を落ち着けた。
東屋の柱には絡みつくように緑の蔦が伸び、紫や薄青の小さな花を咲かせている。天井から垂れ下がる白い薄布が風に揺れ、日差しを和らげていた。
アーシャの目の前の卓では、ガラスの茶器から香り高い湯気が立ち昇っている。甘やかな果実の香りを含んだ茶の香気が漂い、花々の匂いと溶け合って、心地よい安らぎを与えてくれる。
それでも、アーシャの胸には小さなため息がこぼれた。
(……王子妃の教育って、難しいわ……)
ため息が風に溶けた瞬間、後ろから温かな声が届いた。
「──アーシャ様、ここにいらしたのですね」
振り向けば、深い紺青の礼装に身を包んだターリクが立っていた。その腰に剣を差しているものの、金の装飾付きの美しい剣はかつての衛兵のものではなく、紛れもなく王子のもの。
けれどその眼差しは、いつも自分を守ってくれた時のままの優しさに満ちていた。
「今日は一段と長かったでしょう。……ひと息、入れませんか」
そう言って彼は自ら茶を注ぎ、アーシャの前にそっと差し出す。淡い湯気が立ちのぼり、緊張に強張っていた心がほぐれていく。
だが、その様子に、少し離れた場所に控えていた侍女と近衛兵が、目を見張っていた。
「ターリク……また怒られるわよ……」
苦い顔でアーシャがそう漏らすと、ターリクは小さく笑った。
「私は侍従ではなかったはずなのですが……あなたにお仕えしていた、癖ですね」
楽しげに笑みを零すアーシャに、ターリクが口を開く。
「今日、何かありましたか? ……少し元気がないように感じたので……」
「……王子妃の教育が難しくて……一応王女だったのに、恥ずかしいわ……」
アーシャの小さなため息に、ターリクは隣にそっと腰を下ろした。
「それは、私も同じですよ。……剣を振るうことには慣れていても、王子として机に向かうのはまだまだ慣れません。実を言えば、毎日叱られてばかりです」
「何せ、離宮の門を守る衛兵でしたからね」と冗談めかして笑ったターリクに、アーシャの唇が自然とほころぶ。
「……ですから、どうか気負わないでください。私たちは一緒に学び、一緒に進めば良いのです」
そう言って、彼はアーシャの手を取った。大きな掌の温もりに包まれて、彼女は安堵の笑みを浮かべた。
「……わたしも、負けていられないわね」
「はい。これから先もずっと、共に歩むのですから」
二人は顔を見合わせ、小さく声を立てて笑った。その笑い声は、噴水の水音と小鳥たちの囀りに溶けていった。
* * *
その日の夕刻、二人は並んで海辺を歩いた。
白い砂浜には波が寄せては返し、薄紅色に染まる海と空がひとつに溶け合っていた。
アーシャの纏う、薄青のドレスの裾が海風にふわりと広がる。
「アーシャ様は……本当に、この海辺がお好きですね」
寄り添うように歩きながら、ターリクが微笑む。
「だって、こんなに綺麗なんですもの……」
潮風に淡い金の髪を揺らしながら、アーシャは目を細めた。その瞳は海を見つめている。
「ターリクの──」
「──私の瞳みたいで?」
アーシャが言いかけた瞬間、彼が囁くように重ねる。
思わず頬を染めて目を逸らしたアーシャは、恥ずかしそうに笑った。
ターリクの青い瞳は夕陽を移して、確かに海の色によく似ていた。
「では……どちらがお好きなのですか?」
真剣な声色で問われ、アーシャはきょとんと瞬きをした。
そして、小さく笑いながら答える。
「決まっているでしょう? わたしが好きなのは、あなただけよ」
その言葉に、ターリクは幸せそうに笑みを浮かべた。
「私も、アーシャ様だけを愛しています」
ターリクがアーシャをそっと抱き寄せ、アーシャはその胸に頬を寄せる。
──わたしの居場所は、ここなのね……。
夕陽に染まる海を見つめながら、アーシャは温もりに包まれて微笑んだ。
穏やかな波音が、薄紅を帯びる砂浜に優しく打ち寄せる。
「ねぇ、ターリク……」
「何ですか? アーシャ様」
少し体を離して見上げるアーシャを、ターリクが見つめる。
「……“アーシャ”って、呼んでほしいの……」
紫水晶の瞳に見つめられ、ターリクがわずかに頬を染める。
海風に砂色の髪と薄紅を纏う金の髪が靡き、銀細工の髪飾りの青い宝石が夕陽に煌めく。
期待に満ちた紫水晶の瞳に、ターリクは僅かに瞼を伏せる。
「……アーシャ……」
恥ずかしそうに青い瞳を伏せたまま、小さく囁かれた名前。アーシャが嬉しそうに微笑む。
「もう一度呼んで」
「……お許しください」
アーシャの可愛らしいお願いに、少しだけ顔を逸らしたターリク。その顔は夕陽に照らされて紅く染まっている。
「ねぇ、ターリク──」
その瞬間、アーシャの瞳が見開かれた。
ふたつの影が重なり、アーシャの唇は塞がれていた。
ゆっくりと、体が離される──
「ターリク……もう……」
顔を紅く染めたアーシャが、少し俯いて呟く。
「……お嫌、でしたか」
俯きがちに首を振るアーシャが、恥ずかしそうにそっと顔を上げる。華奢な肩をそっと包んで、ターリクが身を屈めた。
再び、二人の影が重なった。
遠く、城下町の灯りが煌めき始める。
夕陽に照らされた二人の影は重なり合い、夕闇に溶けていった。
* * *
ふたりの、王子と王子妃としての日々は、決して平坦ではなかった。
だが二人は寄り添い、笑い合いながら、その一歩一歩を共に進んでいく。
蒼き星と白い花が交わるように──彼らの未来は、確かにひとつに結ばれていた。
― fin ―
✧ 読んでくださった方へ ✧
アーシャとターリクの物語をここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
王宮愛憎劇と切ない主従から始まる純愛ロマンスと、孤独だったアーシャとターリクが幸せを掴む姿を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
この物語が、皆様の心に何かしらを残せたら、この上なく幸せです。
これからもロマンスファンタジーを執筆していきます。
また別の物語でお会いできますように……。
星谷明里




