第二十八話 辿り着いた場所
長い旅路の果て、海からの湿った風が砂漠を抜ける一行を包んだ。
馬車の窓から差し込む潮の香りに、アーシャは思わず顔を上げる。
「……これが……」
砂の地平線の向こうに、どこまでも広がる蒼があった。煌めく水面は陽光を反射して揺れ、果てを知らぬ海が天空の蒼と溶け合っている。
海辺の国──サフィール。
白亜の石で築かれた城郭と、階段状に重なる街並みが海風にきらめき、砂漠とはまるで別の世界のように広がっていた。
馬車が城門近くに着くと、男たちの一部は城へ向かっていったが、数名の者たちは隊列を離れずに残っていた。
その中の一人がターリクに歩み寄り、低く報告を告げる。
「ザフラーンに残した者たちから伝令が届きました。……王宮内は落ち着きを取り戻し、姫君に向けられた不審な動きは確認されておりません」
短く頷いたターリクは、胸の奥にあった僅かな棘が抜けるのを感じた。
だが表情を崩さず、さらに命じる。
「引き続き、油断はするな。アーシャ様に関わる影は徹底的に探れ。些細な変化でも報せを怠るな」
「はっ」
護衛は深々と頭を下げると、再び隊列に戻っていった。
アーシャは海の光景に瞳を輝かせていたため、このやり取りには気付いていなかった。
彼女の笑顔を見やりながら、ターリクは胸の奥でひとり誓った。
──この地でなら、必ず……。
「ターリク……! すごいわ……海って、こんなにも青くて、広いのね……」
残った者たちに守られながら佇むアーシャは、初めて見る光景に瞳を輝かせている。
そんなアーシャの姿に、ターリクは小さく笑みを零す。
「私も、海を見るのは初めてです……綺麗ですね」
二人は、サフィールの城下町へ足を踏み入れた。
白い石畳の道には露店が並び、海で獲れたばかりの魚や色鮮やかな果実が積み上げられている。
潮風に混じって香辛料や焼き魚の匂いが漂い、どこからか子どもたちの笑い声が響いた。
行き交う人々は、揃いの紺の外套を纏う一行に囲まれた二人の姿に目を留め、ひそひそと囁き合う。
戸惑うアーシャは少し俯いたが、その手をターリクがそっと取った。
温かく大きな手の感触に、アーシャは顔を上げ、そして嬉しそうに微笑む。
繋いだ手に優しく引かれて歩き出すと、潮風も喧噪もすべて、まるで祝福の歌のように二人を包み込んだ。
──ここでなら、ターリクと生きられるはず……。
そう思うだけで、アーシャの胸はときめきで満たされていた。
* * *
城下町を歩いていたとき、アーシャの目に一組の親子が映った。
白い石畳の上を、幼い娘の手を取って歩く母親の姿。娘は屈託なく笑い、母はそれを愛しげに見つめている。
その光景に思わず足を止めたアーシャは、小さく息を呑む。母を知らない彼女にとって、あまりにも眩しい光景だった。
「……そういえば、ターリク」
彼女は躊躇いがちに問いかけた。
「以前……オアシスで言っていたわよね。お母様のこと……聞いてもいいかしら」
ターリクは一瞬歩みを止め、柔らかな潮風を受けながら静かに頷いた。
「私の母は、育ての母です。……ザフラーンの辺境の貴族の侍女をしていた女性で、迷子になっていた私を、保護してくれたのです。……血の繋がりはありませんでしたが、優しくも厳しくもあり……本当の母のように育ててくれた方です……」
「ですが、よく祖母かと間違われていましたね」と彼は目を細め笑って、どこか遠くを見つめる。
「その後、母が仕えていた貴族が亡くなり、リディア王妃様の使用人としてザフラーンの王宮に仕えることに……その時から、私も王宮の片隅に置いてもらっていたのです」
「そうだったの……何も知らなかったわ」
驚いた様子のアーシャに、「アーシャ様は、まだとてもお小さかったので……」と笑うターリク。
「母は、私が十の時に病で亡くなりましたが……」
静かな声に、アーシャの胸はひときわ締め付けられる思いがした。
「……アーシャ様と出会えたことは、母が私を拾って、育ててくれたおかげですね」と微笑んだターリクに、アーシャもそっと微笑み返す。
「素敵なお母様だったのね……」
(お会いしてみたかった……わたしも、ターリクのお母様に、感謝の気持ちでいっぱいだわ……)
──母を知らない自分。けれど、ターリクの語る“母の愛”に触れることで、心の奥に空いていた穴が少しだけ埋まっていくようだった。
もし自分の母も生きていたら、こんな風に愛してもらった思い出があったのだろうか……と。
* * *
城下町を抜けると、白い石壁の家々が階段のように並び、窓辺には鮮やかな布や花が翻っていた。海鳥の声が空に響き、潮風がアーシャの金の髪を揺らす。
小さな子どもたちが無邪気に手を振り、アーシャも思わず手を振り返した。
「ターリク……この街、とても温かいわ……素敵な国なのね」
「ええ。ここなら、きっと穏やかに暮らせます……」
ターリクの言葉に、アーシャが幸せそうに微笑む。その姿を、ターリクは愛しそうに見つめていた。
* * *
やがて賑やかな市場を抜け、ふたりは海を望む石畳のテラスに立った。蒼の彼方に沈みゆく夕日が、水面を金色に染めていく。
潮風に頬を撫でられながら、アーシャは目を細める。
「……わたし、こんなに自由を感じたのは、初めてよ……」
「この国が、あなたの安らぎの場所になりますように……」
返ってきた言葉に、アーシャがターリクを見上げる。
「……ここでも、ずっと傍にいてくれるの……?」
「勿論です……ずっとお傍にいますよ」
微笑んだターリクの言葉にアーシャは花のような笑顔を浮かべ、繋いだ手を握り返した。
* * *
露店で買った果実を分け合い、寄り添って笑い合う二人を見て、通りすがりの老婆が目を細めた。
「良いねぇ……新婚さんかな」
その言葉に、アーシャの頬は熱を帯び、思わず視線を落とした。ターリクは微笑んで僅かに首を振り、「恐れ入ります」と短く返した。
けれど、その横顔には隠しきれない柔らかな光が宿っていた。
空が淡い珊瑚色から橙色へと移ろっていく。
海風に吹かれるアーシャの朝焼けのような金の髪を眺めながら、ターリクが静かに口を開いた。
「アーシャ様……少し浜辺を歩きませんか」
その言葉に、胸が小さく跳ねる。
──潮騒に包まれる浜辺で、彼と二人きり……。
アーシャは頬を染めながら、そっと頷いた。
──そしてターリクは思っていた。
自らの想いと真実を告げる時が迫っている。
今こそ、この手を離さぬために、胸の内に秘めていた全てを明かす時だと……。
次回、第二十九話「明かされる想いと真実」
夕陽に染まる海辺で、ふたりの心は揺れ動く。
言葉にできなかった想い、隠されていた真実──そして、交わされる言葉が、未来を大きく変えていく。




