第一話 日陰に咲く花
【第一章のあらすじ】
王宮の片隅の離宮で、誰からも顧みられずに育った第二王女アーシャ。
華やかで愛されている姉ラーニアに比べ、冷遇される彼女の傍に立つのは、左遷され離宮に配属された一人の衛兵・ターリクだった。
静かな日常の中、少しずつ交わされる言葉。
孤独な姫と寡黙な衛兵──二人の間に芽生えた小さな絆は、やがて宮廷の陰謀と愛憎に巻き込まれていく。
その美しく健気な花は、王宮の片隅でひっそりと育った──
砂漠の真珠と呼ばれるオアシスの地に、ザフラーン王国の王宮は建っていた。
灼熱の太陽に照らされながらも、オアシスの泉は澄みきった水を湛え、宮殿の壁は白大理石のごとく輝きを放っている。その華やかさとは裏腹に、奥まった場所に佇む離宮はひっそりと影に沈んでいた。
そこに住むのは、王の末娘にして第二王女のアーシャ。
薄絹のヴェール越しに透けて見える真珠のような白い肌。優しい朝焼けを思わせる淡い金色の髪は、風に揺れるたびに金とほのかな薄紅の光を映した。澄んだ紫水晶の瞳は、静かな憂いを帯びた光を宿している。
この国では珍しいその容姿ゆえに、彼女は宮廷の内外から「ザフラーンの白い花」と囁かれていた。
だがその誉れは、同時に揶揄でもあった。
国王と現王妃に愛される姉姫ラーニアの輝きの傍らで、父王に顧みられることもなく、小さな離宮に幽閉されるように育ったアーシャは、「日陰の花」とも呼ばれたのだ。
離宮に勤める侍女や衛兵たちは同情を寄せつつも、王やラーニアの目を憚って遠巻きに仕える。笑顔で接してくれていても、その背後にはどこか怯えるような影が纏わりついていた。
──それでも、アーシャは静かに花を咲かせ続けた。
「わたしはアーシャよ……皆、良いわね。自由に飛んで行けて……」
アーシャは毎朝、離宮の庭に出て小鳥や池の魚たちに餌を与えた。そして、庭を彩る花々に水を与え、言葉をかける。
昼は侍女たちとともに刺繍をし、ときおり書庫に籠って古い書物を読む。
夕暮れには池の畔で涼み、風に頬を撫でられながら塀に囲まれた空を仰ぐ。
孤独の中でもその姿は健気で、ただ在るだけで見る人の心を和ませるものだった。
アーシャの静かな日常に変化をもたらしたのは、二年前のある日のことだった。
アーシャがまだ十五歳の頃。王宮近衛兵の中から、一人の青年が離宮付きの衛兵に配されることになった。
王宮の近衛兵は、容姿端麗で文武に優れた、名家出身の若者たちを中心に選ばれる誉れある役目。その役目から外され離宮に配属されることは異例で、王宮だけでなく離宮の者たちにもざわめきが広がった。
その日、離宮の門を静かにくぐったのは、淡い褐色の肌に輝く砂色の髪を持つ青年。深く澄んだ切れ長の青い瞳はサファイアを思わせ、群青の衛兵の隊服に包まれた若く引き締まった精悍な体躯は、無駄のない美しさを湛えていた。
ターリク・アール・ハーディ──。
彼が初めて離宮の門に立ったとき、アーシャは庭からそっとその姿を見ていた。
彼は衛兵としての礼を正しく守り、王女の視線に気付くと、静かに頭を垂れた。
どんな沈んだ様子を見せているかと、アーシャも含めた離宮の者たちは皆懸念していた。だが、彼の端正な顔はただ静かで、真っ直ぐな眼差しと凛とした佇まいで跪き、アーシャに忠誠を誓ったのだ。
その眼差しと目が合ったとき、なぜか胸の奥がほのかに温まるのをアーシャは感じた。彼の瞳からは、今まで王女に向けられてきた憐憫の情が一切感じられなかったからだ。
その日から、アーシャの小さな日常に彼の影が差し込むようになる。
アーシャが書物を抱えて庭に出ると、門の傍らに立つ衛兵の姿。
侍女を下がらせて、ひとり池の畔の椅子に腰掛けると、少し離れたところで目を配る鋭い眼差し。
彼は決して距離を乱さず、王女に仕える者としての礼節を欠かさなかった。
けれど──。
「……ターリク」
初めて彼の名を呼んだ日のことを、アーシャは今も忘れない。
あの春の日、庭に咲いた花を摘んで籠に入れていると、風に煽られて花びらが散った。慌てて拾おうとしたアーシャの前に、影が差し込んだ。
差し伸べられたのは、淡い褐色の大きな掌。その指先には、白い花弁がひとひら乗っていた。
「王女様、お手を汚されます。私が」
低く落ち着いた声。跪き、アーシャを見上げた青い瞳には、ただ主を守る者の誠実な光が宿っていた。
「……ありがとう、ターリク」
アーシャが微笑んだその瞬間、彼の青い瞳がわずかに揺らいだ。
二人は、それまで一度も言葉を交わしたことがなかった。アーシャの「名で呼ぶ声」が、彼の心の奥に何かを響かせたのだろうか──それとも、彼女の花のような微笑みか……。
けれど彼はすぐに表情を引き締め、拾った花びらを籠に入れて恭しく礼をした。
だが、離宮の門から王女を静かに見守る青い瞳には、まだ自覚されぬ温かな光が灯っていた。
アーシャはそっと胸に手を当てた。
侍女や他の衛兵たちは、皆親切にしてはくれるものの、同情する眼差しや距離を感じていた。
だが、彼は違う──そんな気がした。
アーシャは、何故だか彼の名を口にしただけで、心が少し強くなれたように思えた。
それ以来、アーシャは彼にごく自然に声をかけるようになった。
「今日は風が強いわね」「花が綺麗に咲いたわ」──どれも些細な言葉で、返ってくるターリクの言葉は短いが、真っ直ぐな瞳で真摯に答えてくれる。
そのやりとりが積み重なるほど、閉ざされていたアーシャの心に小さな温もりが芽生えていった。
しかし、彼が王女に見せるのは、決してそれ以上の色を帯びた表情ではなかった。
あくまでも王女に仕える者としての誠実さ。それ以上でも、それ以下でもない。
だからこそ、アーシャは思うのだ。
この人は、私にとって特別な存在。けれど、きっと私だけにとっての特別なのだろう、と……。
* * *
ある日の午後、アーシャが離宮の回廊を歩いていたときだった。
柱の陰で、侍女たちが小声で囁き合うのが耳に入る。
「やっぱり、ラーニア様は王妃様にそっくりでお美しいわね。舞の稽古でも皆を惹きつけて……」
「ええ……けれど、アーシャ様だって“ザフラーンの白い花”と評判よ」
負けじとそう言った侍女の言葉に、他の侍女たちが少し沈黙する。
「でも……いくらお美しくても、誰にも顧みられない花でしょう……咲いていても、日陰では気づかれることもない……私たちにも、あんなにお優しい方なのに……」
「本当に、お可哀想な王女様……」と呟かれたその言葉に、ひどく胸が締めつけられた。
アーシャはヴェールをそっと整えて、足音を立てぬよう歩き出したが、耳に残った響きは容易に消えてくれなかった。
──日陰の花、お可哀想……。
分かっていたはずなのに、誰かの口から聞くと、胸の奥に冷たい影が落ちる。
白い離宮の壁に夕陽が差すと、光と影の境界にアーシャの姿が映し出された。
侍女が遠慮がちに礼をすると、彼女は穏やかに微笑んで頷く。けれどその微笑の奥には、隠された翳りがあった。
──親しく名を呼ぶ相手がいない。「アーシャ」と名で呼んでくれる相手も……。
アーシャには、幼い頃から父に抱き上げられた記憶がない。抱き締められたことも、微笑まれたこともなかった。
腹違いの姉のラーニアは、父親である国王と現王妃である母親に愛され、王宮の光の中にいた。
自分だけが、誰の心にも置き去りにされている。
けれど。
庭で差し伸べられた青年の手と、低く響いた声が、胸の奥に温かな火を灯した。
『……ありがとう、ターリク』
口にした自分の声を思い出すだけで、心が少し温かくなる。
門の傍らに立つ彼は、決してアーシャに微笑まないし、自ら話しかけることもない。
ただ職務に徹し、王女を守る者として在り続ける。
だが、真っ直ぐな眼差しとその揺るがぬ誠実さが、かえってアーシャを惹きつけてやまなかった。
日陰にひっそりと咲く花のような日々の中、アーシャにとって、寡黙で実直な彼の存在だけが温かな光となっていた。
だが、その光が姉姫の嫉妬と憎悪に狙われつつあることを、アーシャも衛兵もまだ知らなかった。
ターリクは、ただひたすらに──守るべき主を見つめ続けていた。
次回、第二話「ふたりの王女」
光を浴びる姉ラーニアと、日陰に咲く妹アーシャ。
二人の対比が運命の幕を開け、衛兵ターリクの瞳が静かに彼女を見つめる。
──光と影の姉妹、その物語が動き出す。




