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第二十七話 砂漠の旅路

 馬車に乗せたアーシャとターリクを守るように騎馬が囲み、砂漠を進む一行。

 昼は灼けるような陽光の下、夜は星々の瞬きに照らされ、彼らはオアシスや街に立ち寄りながら、海辺の国サフィールを目指していた。


* * *


 その日立ち寄った大きな街は、明るい喧騒と活気に満ちていた。

 石畳の通りには、炭火で焼かれる肉の香ばしい匂いが漂い、香辛料を量り売りする商人の声が響いていた。水瓶を担いだ少年たちが元気に呼び声をあげ、色鮮やかな布を売る露店では、値段をめぐって女たちの笑い声が弾んでいる。

 その中を行き交う人々の視線が、揃って一組の男女に集まる。


「可憐な姫君だな……」

「どこかの貴族かしら……」

「まぁ、あの殿方……なんて素敵なの……」


 耳に入ってくる声に、アーシャの胸はざわめいた。若い女性たちの熱い視線が、隣を歩くターリクに集まっている。

 堪らなくなったアーシャは、彼の腕にそっと抱きつくように腕を絡め、体を寄せた。

 ターリクは少し驚いたように目を瞬かせる。腕に縋るように歩くアーシャの耳が、ほんのり染まっていることに気付いた。


「婚約者かしら……あの姫君が羨ましいわ」


 周囲の様子に気付いたターリクはすぐに察し、少し俯いているアーシャを見つめた。


(私には、あなたしか見えていないのに──)


 薄く微笑んだターリクは歩みを緩め、彼女の手を包み込むように握った。


* * *


「何とお美しい……!」

「よくお似合いです! 真珠のような美しい肌が際立っておいでです」


 二人が立ち寄ったのは、女性用の装飾品や衣を扱う店。称賛の声を浴びせる女性店員たちの中には、薄桃色の美しい衣とヴェールを纏うアーシャが立っていた。

 アーシャの髪には銀色の髪飾りが飾られている。店員たちから様々な髪飾りを勧められたが、アーシャは全て断った。彼女の髪を飾る小さな青い宝石に、ターリクは嬉しそうに目を細めた。


 アーシャは少し前に出ると、薄桃色の袖を広げて、ターリクをそっと窺う。


「ターリク、どうかしら……?」

「よく似合っておいでです……本当に、花のようです……」


 微笑んでそう答えたターリクに、アーシャが頬を染めてはにかむ。


 煌めく宝飾や美しい衣の数々に見惚れているアーシャの姿に、ターリクは迷うことなくそれらを買い与えた。腕輪、耳飾り、色鮮やかな衣──次々と差し出される贈り物に、初めは遠慮がちだったアーシャの顔も、次第に明るくなる。


 離宮にいた頃、アーシャは一国の王女にしては質素な衣ばかりを纏っており、宝飾品もほとんどなかった──父であるシャフリヤール王が、最低限の維持費しか与えなかったからだった。当人のアーシャは気にしていなかったが、一時はラーニアに仕えていたターリクは、その差を憎く感じていたのだ。


 ──アーシャ様を、幸せにしてみせる……。


 その笑顔を愛おしそうに見つめるターリクの瞳は、柔らかな光と強い決意を湛えていた。


「姫君の宝石や御衣装ならば、サフィールでいくらでも……」


 思わず口を出そうとした男たちに、ターリクは静かな視線を投げる。その一瞥で、彼らは口を噤み、居住まいを正した。


 アーシャはそんな様子を見て、胸に小さな疑問を抱く。


 ──なぜ彼らは、ターリクに従い、わたしにまで丁寧に接してくれるのだろう……?


 だが、傍らで優しく微笑んでくれるターリクに心を満たされていたアーシャは、深くは考えなかった。


* * *


 日が暮れる頃、男たちに案内された宿は、街の中心にそびえる壮麗な建物だった。

 正面の大扉は黒檀に金の装飾が施され、扉を押し開けると、天井まで届く大理石の柱が並ぶ広間が現れる。天井から吊るされた無数のランプには瑠璃色や琥珀色のガラスがはめ込まれ、柔らかな光が床一面に散らばっていた。


 床は磨き抜かれた白大理石で、足音が反響するたびに静謐な響きを返す。壁には織物が掛けられ、鮮やかな花や鳥の模様が夜の灯りに浮かび上がっている。街だけでなく、砂漠一の宿と謳われる名に恥じない、王宮さながらの格式だった。


「ターリク……この宿、とても高いのではないかしら」


 物価を少しずつ理解し始めた彼女は、不安そうに囁く。


「ご心配なさらないでください。近衛兵と衛兵の給与は、それなりにありましたから」


 穏やかに答えるターリク。だが、その言葉に男たちの顔が一瞬強張った。


「……衛兵……」


 男たちの口から掠れた声が漏れたが、すぐに沈黙が戻る。ターリクは何事もなかったようにアーシャを導いた。


* * *


 部屋を決める際、男たちは当然のように二部屋を取ろうとした。

 だが、ターリクは迷わず制した。


「アーシャ様に、万が一のことがあってはなりません。私は傍を離れるつもりはありません」


「で、ですが、ターリク様……婚前に姫君と同室など──」


 男たちの言葉を遮るように、ターリクの声音は揺るぎなかった。


 結局、宿の最上級の部屋を取り、そこで休むことになった。広い居間と複数の寝室が備わっており、二人は寝室を分けて休むことになったのだ。


* * *


 最上階へと続く階段を上り、二人が通されたのは宿でも最も上等な一室。重厚な扉を開けると、広い居間には柔らかな絨毯が敷かれ、金糸を織り込んだ帳やクッションが随所に配されている。奥には寝室が複数並び、それぞれの寝台には真新しい白布と薔薇の花弁が飾られていた。


 アーシャは思わず足を止め、圧倒されたように部屋を見渡した。

 窓の外には街の灯が宝石のように瞬き、遠く砂漠の夜風がカーテンを揺らしている。その美しい光景も、アーシャにはどこか現実味が薄かった。──自分が見知らぬ土地で、こうして高級な宿にいること自体が夢のようだったからだ。


 ──離宮よりずっと立派なお部屋……でも、ターリクと離れるのは心細いわ……。


「ターリク、もう少し傍にいてくれる……?」


 寝台に腰掛けたアーシャは、どこか寂しげな眼差しでターリクを見上げる。その表情を見てターリクは瞳を伏せると、躊躇いなく彼女を抱き寄せた。


「アーシャ様……どうか安心してお休みください」


 ターリクは壊れ物を抱くように、アーシャをそっと抱き締めると、薄紅を纏う金の髪を優しく撫でた。


 そして、毛布に包まった彼女の小さな手を握り、アーシャが眠りに落ちるまで寄り添い続ける。

 無垢な寝顔が静かな寝息を立てるのを確かめてから、ターリクはようやく名残惜しそうに手を離す。けれど離そうとしたその瞬間、眠っているアーシャが小さく指を動かし、彼の手を握り返した。

 無意識の愛らしい仕草に胸が熱を帯び、ターリクは一瞬、離れることを躊躇った。彼女の心もまた、自分を求めているのかもしれない──そう思うだけで、胸の内に切なさと幸福が入り混じる。


 アーシャの指をそっと外して、自分も休むために隣室へ移動するターリク。部屋の外では、護衛の男たちが幾人も控えている。

 それでも、廊下は息を呑むほどの静けさに包まれていた。誰かの足音すら吸い込まれるように消え、聞こえてくるのは遠くで揺れる灯火の微かな音だけ。静謐な空気が逆に不安を煽り、ターリクの胸に残る焦燥はますます強まった。


 (アーシャ様を狙う刺客が来ないとも限らない……)


 ──それに、傍にあった彼女の温もりが忘れられない……。


 ターリクは、柔らかなアーシャの温もりを思い出していた。抱き寄せた時の淡い花の香も……。


 夜が更けても、彼はなかなか眠りに就くことができなかった。

次回、第二十八話「辿り着いた場所」


長い旅路の果てに、ふたりを待っていたのは──。

新たな地に広がる美しい景色と、人々の温かさ。

胸に広がる希望と、ときめきに満ちたひと時。

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