第二十六話 海辺の国を目指して
アーシャとターリクの座る馬車は、外から見れば質素で堅実な造りながら、中に足を踏み入れると別世界だった。
壁には美しい紺の布地が張られ、青紺の柔らかな座面には金茶の刺繍が施されている。
窓には上質なレースのカーテンがかかり、砂漠の強い日差しを和らげていた。天井からは繊細な装飾が施された銀の飾り灯が下がり、揺れるたびに柔らかな光を細やかに散らす。
足元に敷かれた濃紺の絨毯には細かい波紋が織り込まれており、砂漠の乾いた空気の中にあっても、馬車の内側は心地よい静けさと温もりに包まれていた。
砂漠を渡る車輪の揺れに身を任せながら、アーシャは求めていた温もりにそっと寄り添った。
「ターリク……迎えに来てくれて、ありがとう……」
「当然です。……遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
その言葉を聞いただけで、張りつめていた心がほぐれていく。アーシャは小さく首を振り、安堵の微笑みを浮かべた。
「その……大丈夫でしたか?」
少し上擦ったようなターリクの声音は、いつもの冷静さを失っていた。きょとんとした表情を浮かべるアーシャに、彼は少し口籠りながらも言葉を続ける。
「その、カリーム家の屋敷で……何か無体なことは……」
「皆様には、とても良くしていただいたわ。……申し訳なくなるくらいに……」
アーシャはそう答えると、着ている淡い水色の衣に視線を落とし、大切そうに袖を撫でる。
「この衣は、大切なお母様の形見……カリーム様が、わざわざ離宮から持ってきてくださったの」
その顔には、懐かしい温もりに触れたような、やわらかな微笑みが浮かんでいた。
ターリクは安堵するのと同時に息を詰める。その微笑みが、ファリードに向けられたものではないことがわかっていても、胸の奥に淡い嫉妬が滲んだことが否めない。
だが、彼女が幸せなら、それでいい──彼は心の内でそう言い聞かせた。
アーシャはターリクの肩にそっと寄りかかり、幸せそうに淡い微笑みを浮かべている。
淡い金の髪に飾られた銀細工の髪飾りが、馬車の動きに合わせてかすかに揺れ、青い光を煌めかせる。
──『これが良いわ。……ターリクの瞳の色みたいだもの』
髪飾りを贈った日のアーシャのはにかんだ微笑みが、脳裏に思い出される。ターリクは、アーシャがそれを大切そうに身につけている姿を愛おしげに見つめた。
* * *
窓を流れる砂漠の景色を眺めながら、アーシャが小さな声で尋ねる。
「……どこへ向かっているの?」
「サフィールです」
短く答えたターリクの声音に、アーシャの胸は高鳴った。
海辺の国──サフィール。ターリクと約束した、二人の旅の目的地。
本や話でしか知らない、美しい青い海と海辺に広がる美しい街並みを思い浮かべる。
黄金の砂漠を越えた先に広がる、果てしない蒼穹と水の世界。そこへ自分が向かっているのだと思うと、胸の奥に小さな光が灯る。
──サフィールでなら、きっと、ターリクと共に……。
アーシャは、隣にある確かな温もりに、そっと頬を寄せて微笑んだ。
* * *
一方、窓の外を見やれば、馬車を守るようにして走る騎馬の列があった。揃いの紺の外套を翻し、砂を蹴立てながら並走する彼らの姿は、荒野を渡る小さな軍勢のようである。
乾いた風に靡く旗印はなく、あくまで無言の護衛隊のよう。それでも、彼らの統率の取れた動きからは、ただ者ではない雰囲気が漂っていた。
馬の蹄が砂を打つ音、外套が風を裂く音──そのすべてが馬車の静けさと対照的で、アーシャの胸を少しざわめかせる。
アーシャの視線を辿り、ターリクが静かに口を開く。
「彼らは、アーシャ様を迎えに行くために助けてくれたのです。行き先が、同じで……」
「そうだったの……」
ほんの数日ではあったが、アーシャは砂漠を駱駝で進み、砂埃の舞う街を質素な砂色の衣で歩いて過ごした。
王宮で過ごしていた頃のように、綺麗な衣とヴェールを纏い、綺麗な馬車に揺られるのを、心の何処かで不思議に感じてしまう。
──こんな馬車にも、乗せてもらえるなんて……。
見知らぬ者たちに護られているという不安はあった。だが、ターリクの言葉に、胸のざわめきはすっと消えていく。傍らで寄り添ってくれているターリクの存在が、不思議と全ての不安を溶かしていくようだった。
「その服はどうしたの? とても素敵で……よく似合っているけど……」
アーシャの瞳は、ターリクの装いを見つめている。紺を基調とした落ち着いた雰囲気の中に、襟や袖元を彩る金茶の刺繍や肩章が美しく際立っている。凛々しいターリクの佇まいに、アーシャは見惚れていた。
そんなアーシャの視線に、ターリクは少しだけ瞳を伏せて笑った。
「これも、彼らが用意してくれました。あの装いではカリーム家を訪問することはできなかったので」
「随分、親切な方たちなのね……」
アーシャは、なおも疑問を抱きつつも、それ以上は深く問わなかった。
今はただ、すぐ傍らにいてくれるターリクの存在が嬉しく、心を満たしていたからだ。
柔らかくなった彼の眼差しは、アーシャの瞳を真っ直ぐに見つめてくれている。どこか遠慮がちだった硬い表情や仕草はいつの間にか消え失せ、以前よりもずっと彼の存在を近くに感じる。
「……こうしてまた一緒にいられるなんて、夢みたい……」
アーシャは胸をときめかせ、そっと彼の肩に寄り添った。
「不安だったの……もう、ターリクと会えなかったらと……怖くて、たまらなくて……」
その言葉に、ターリクは瞳を少し伏せるとアーシャの細い肩をそっと抱き寄せた。
アーシャは、紅くなった顔を隠すようにターリクの胸に頬を押し付ける。高鳴る鼓動が伝わっていないか、アーシャは恥ずかしくてたまらなかったが、彼から離れたくはなかった。
「アーシャ様、もう大丈夫です……絶対に、離れませんから」
「ターリク……」
胸元に顔を埋めたまま、アーシャが囁くように名を呼んだ。ターリクは、愛しそうにアーシャの髪に触れる。
淡い金の髪から覗く可愛らしい耳がほんのり紅潮しているのに気付いて、ターリクの胸にも熱が灯った。
──サフィールで、必ず幸せにしてみせる……。
彼女の笑顔を、全てを、何があっても守り抜こう──ターリクの心に、刻まれたのは、揺るぎない誓い……そして、彼にとってそれは、愛そのものだった。
「必ず、彼女を幸せにする」──その想いだけが、今もこれからも、彼を突き動かしていく。
* * *
アーシャが馬車の中で眠りに落ちたころ、ターリクもまた、揺れる車輪の音に瞼を閉じた。
淡い微睡みの中で、記憶のような光景が浮かぶ。
──窓から見えるのは、刃を手にし砂塵を上げて迫る男たち。
馬車が激しく揺れ、響いたのは男たちの剣戟と若い女の悲鳴。
そして、庇うように抱き締められた腕の温もり。
「どうかお逃げください……! 急いで!」
女の手で馬車の影から押し出され、「どうかご無事で……」と呟かれた涙声を背に、泣きながら必死に走った幼い足。
気付けば追う人もなく、夕陽に染まる荒野でひとり彷徨っていた──。
そこで差し伸べられたのは、皺だらけの褐色の手。
その人は優しく微笑み、温かな腕で抱き締めてくれた。
(母さん……)
ターリクが微睡みから醒めたとき、揺れる馬車の窓の外には、夕陽に照らされた砂漠が広がっていた。
あれが自身の記憶なのか、それとも男たちに語られた断片を夢に見ただけなのか──彼自身にも分からなかった。
(──サフィールに着いたら、私は……)
胸にもたれる愛しい寝顔を見つめながら、ターリクは静かに瞼を伏せた。
揺れる馬車の音に重なる鼓動は、彼にとってただ一つの誓いのように響いていた。
次回、第二十七話「砂漠の旅路」
街の人々の視線、贈られる宝飾、豪奢な宿──。
けれどアーシャが求めたのは、ターリクの温もりだった。
砂漠を越える旅路で、二人の距離はさらに近づいていく……。




