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第二十四話 囚われの姫君

 アーシャが連れて来られたのは、カリーム家の広大な屋敷だった。

 白亜の石で築かれた館は、外壁を覆う蔦の彫刻や繊細な彩色ガラスの窓が夕陽を受けて赤く輝き、王宮にも劣らぬ荘厳さを放っている。門前には整えられた庭園が広がり、噴水の水柱がきらきらと光を散らしていた。


 まるで一国の王宮のような光景に、アーシャは思わず立ち止まる。彼女は嫡男ファリードの婚約者の王女として丁重に迎え入れられ、従僕や侍女たちに深々と頭を下げられた。

 アーシャを迎えるために顔を出したのは、ファリードの母──琥珀色の瞳や端正な顔立ちが息子によく似た、気品ある貴婦人だった。


「ようこそ、アーシャ王女殿下。あなたをお迎えできることは、我が家の誉れにございます」


 「お話は伺っております。さぞや恐ろしい思いをなされたことでしょう……どうかここでゆっくりとお過ごしくださいね」と柔らかな声がアーシャを包む。労わるように、夫人はアーシャの手をそっと取った。その手は温かく、眼差しも慈愛に満ちていた。

 けれど「王女」と呼ばれるたび、アーシャの胸は重く沈む。


(……お父様は、きっとわたしをお捨てになったはず……わたしはもう、ザフラーンの王女ではないし、カリーム様との婚約も……)


 捨てられた王女と婚約を継続するつもりなのだろうか……。アーシャには、助けてもらったことに感謝しながらも、ファリードやカリーム家の意図に疑念を抱いていた。


 ──ターリク……早く会いたい……。


 複雑な思いを抱えつつも、アーシャは微笑みを返すしかなかった。


* * *


 やがて案内されたのは広い湯殿だった。白大理石で縁取られた湯船には花びらが浮かび、芳しい香が湯気とともに立ち上る。壁には金箔で唐草模様が施され、天井の小窓から射す光が水面をゆらめかせている。


 侍女たちは、アーシャの肌に塗られていた染粉を丁寧に落とし、柔らかな布で全身を拭いながら感嘆の声を漏らした。


「まぁ……なんとお美しい御髪でしょう……」

「真珠のようなお肌……」

「アーシャ王女殿下は、本当に花のようなお美しさですわ」


 賛美の言葉が降り注いでも、アーシャの胸は遠くにあった。微笑んで返しながらも、その瞳はずっとひとりの青年を探している。


 ──ターリク……。


 芳しい香油で長い髪を梳かれ、絹のように整えられても、その心は温かさを覚えなかった。


* * *


 湯浴みを終え、通された部屋は、離宮の王女の居室よりもずっと広く豪華だった。

 美しい装飾の豪奢な化粧台に、揃いの装飾が施された大きな寝台には、銀糸で花の紋様が織り込まれた美しい薄絹の天蓋が掛かり。部屋の至るところに白や薄紅の美しい花々が飾られている。

 壁際には宝石を散りばめた装飾品や金の細工物が並び、金糸や銀糸を織り込んだ色鮮やかな絹の衣がいくつも衣桁に掛けられている。


「ここにあるものはすべて、ファリード様がアーシャ王女殿下のためにお揃えになられました」


 誇らしげに告げる侍女の声に、アーシャは息を呑んだ。


 だが心を動かしたのは華美な品々ではなく、部屋の片隅に置かれた古びた紙箱だった。

 見覚えのあるその蓋を開けると、そこには水色の衣が丁寧に納められていた。


 ──これは、お母様の……。


「離宮から、ファリード様がお運びになったのです」


 その言葉に胸が熱くなり、思わず目頭が滲む。


(……きっと、王宮で捨てられるはずだったんだわ……それを、残してくれたのね。ありがとう、カリーム様……)


 アーシャは母の衣を胸に抱きしめ、香りを吸い込む。亡き母が傍にいてくれるような気がして、涙が一筋こぼれ落ちた。


 衣に袖を通すと、懐かしい布の感触が心を包み込む。

 そして、化粧台の鏡に向かうと、懐から取り出した銀細工の髪飾りをそっと髪に挿した。青い石は灯火に煌めき、ひっそりとターリクの存在を示すように輝いた。


(ターリク……いつ会えるの……?)


 侍女たちは、ファリードの用意した豪華な宝飾や衣には目もくれず、少し古びた衣と持っていた髪飾りを身に付けたアーシャを残念そうに見つめていた。


* * *


 アーシャが淡い水色の衣を纏い、銀の髪飾りを揺らす姿を目にした瞬間、ファリードの胸に息苦しいほどの感情が押し寄せた。


「母の形見の衣を、カリーム様が持ってきてくださったと聞きました……ありがとうございます」


 淡く微笑んだアーシャに、ファリードも柔らかい微笑みを浮かべる。


「いえ……あなたに喜んでいただけたのなら、何よりです」


 「もう少ししたら、夕食の時間になります。私の両親も、ご一緒させていただけるのを楽しみにしているのですよ」とファリードは努めて明るく言った。だが、優しい眼差しで微笑んだファリードの瞳の奥には翳りが揺れていた。


 自分が用意した美しい衣も宝飾も目に入れず、ただ古びた形見の衣と持っていた髪飾りを身に付ける彼女。豪奢で煌びやかな装いをせずとも、彼女は充分に美しい。

 しかし、その装いは私のためではないのだろう……。


 薄紅色を纏う金の髪に揺れる髪飾りの青い石は、ある男の瞳を思い起こさせた──彼女が大切そうに身に付ける姿に、ファリードはそれを奪い捨てたい衝動に駆られた。だが、少し悲しげな彼女の瞳をこれ以上曇らせたくはない。


 馬車に乗せたときから、戸惑いを隠せずに揺れている紫水晶の瞳。その瞳が遠くにいる誰かを映しているようで、ファリードの胸が痛んだ。


(……やはり、あの男のことを想っているのか……。それでも、何の後ろ盾もない衛兵にこの方を委ねることなど、出来るものか……私が、必ず幸せにしてみせる──)


 ファリードは心の奥で自らに言い聞かせた。

 アーシャが淡く微笑みながらも影を落とすその瞳を、どうにかして晴らしてやりたい。


「アーシャ王女……いえ、アーシャ様。どうか、ここを安らぎの場所と思っていただければ……」


 ファリードはそう言い直して、穏やかに微笑んだ。無理に「王女」と呼び続けることが、かえって彼女の心を縛っているのではないかと気付いたからだ。


「……あなたが微笑んでくださるその日まで、私はどれほどでも待ちましょう」


 返事はなかった。けれど、アーシャがわずかに肩を揺らし、視線を静かに逸らしたのを見て、ファリードは胸の奥に痛みを伴う熱を宿す。

 その瞳に自分が映らないことを悟りながらも、ファリードは笑みを崩さなかった。──彼女の心に触れるためには、まだ時間が必要なのだと知っていたから……。


(この方を、必ず笑顔に──いつか、振り向かせてみせる……全てを懸けてでも)


 そう強く誓いながら、彼は深く息を吐いた。

 その胸に燃えるのが恋か執着か、彼自身にも分からなかった。ただ一つ確かなのは──彼女を手放すつもりは決してない、ということだけだった。


* * *


 夜風が吹き込む露台に出ると、広い庭園の向こうには、灯りが灯る住宅地や街並みが広がり、天蓋のような夜空には無数の星が瞬いていた。

 遠くに見える砂漠を見つめる紫水晶の瞳は、ただひとりの面影を追っている。


「……ターリク……」


 アーシャの囁きは夜気に溶け、風に紛れて消えていった。

 どれほど豪奢な部屋を用意され、美しい衣や装飾品を差し出されても、胸を占めるのはひとりの青年への想いだけ……。


 ──あの時、カリーム家の馬車からすぐに降りるべきだった──違う、乗せられる前に、すぐにターリクを探しに戻るべきだったのだ。そうすれば、彼と離れることにはならなかったのに……。


 星々の下に立つアーシャの姿は、煌びやかな館の中で、囚われた花のように、ひそやかに揺れていた。

 その美しさは誰の目にも明らかだったが──彼女自身には、ただ孤独の影しか感じられなかった。

ここまでお読みいただいた皆様、本当にありがとうございます!


第四章では、互いの想いが揺れ動き、すれ違いに胸を痛め葛藤する二人を描いてきました。


次は第五章、物語はいよいよ最終章へ──


苦悩と葛藤の果てに、揺るぎない絆と主従を超えた愛が溢れ、すれ違い続けた二人が、ついに「結ばれた絆」へと辿り着きます。

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