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第二十三話 攫われた花

 街外れの荒れた砂地。夕陽は傾き、赤く染まる光が長い影を落としていた。

 アーシャは刺客たちに腕を掴まれ、必死に抵抗していた。


「離してっ……!」


 掴む手は鋼のように固く、非力な腕では振りほどけない。紫水晶の瞳は恐怖に揺れ、胸の奥で心臓が激しく脈打つ。

 身をよじらせ、声を張り上げても、夕暮れの街外れに助けは届かない。アーシャが、抵抗する気力を失いかけた瞬間──


「アーシャ王女!」


 乾いた砂塵を割るように、馬蹄の音と共に声が響いた。

 黒髪を靡かせた青年が豪奢な白い外套を翻し、後ろには武装した私兵の一団を従えている。胸元には深紅の宝石をあしらった紋章飾り。


 ファリードと、カリーム家の兵だった。


「……!」


 刺客たちは一瞬で顔色を変え、互いに合図を交わすと、蜘蛛の子を散らすように退いていく。

 それを追うように、兵たちが街や路地の方へと姿を消す。


 残された砂塵の中には、アーシャとファリードだけが取り残された。

 砂埃を纏う風に波打つ淡い金の髪が揺れ、夕陽を受けて薄紅色に煌めいている。


「カリーム様……どうして、ここに……?」


 困惑するアーシャに、彼は真摯な眼差しを向けた。


「アーシャ王女、お探し申し上げました……本当に、よくご無事で」


 馬から降りたファリードが歩み寄り、砂に膝をつきかけていたアーシャの肩を支える。

 その瞳には憂慮と安堵が混じっていたが、掴んだ手は決して逃がさぬほど強く固かった。


(肌を染めても、粗末な衣を纏っていても、アーシャ様はお美しい……)


「どれほど恐ろしい思いをなさったことか……もう大丈夫です、アーシャ王女。これからは私がお守りいたします」

「……ありがとうございます……」


 アーシャは助けられたことに安堵するも、戸惑いの表情を浮かべることしか出来なかった。まだ路地で刺客に囲まれているかもしれないターリクの姿が頭から離れない。


「あの、カリーム様、ターリクがまだ──」


 アーシャが言い終わるより早く、彼はその細い肩を抱き寄せ、豪奢な馬車へと導いた。

 深紅の布で飾られた座席に座らされ、アーシャは戸惑いに声を失う。


 ──ターリクが心配だわ……。


 窓の外、街の方を見つめるアーシャの胸は強く波立っていた。助けが来た安堵と、ターリクを案じる強い気持ち。そして、唐突に距離を詰めてくるファリードへの戸惑い。それらの想いが胸の奥でせめぎ合い、呼吸が浅くなる。


「……カリーム様、ターリクがまだ刺客に囲まれて──」


 アーシャの言葉を、ファリードの真摯な眼差しが遮った。


「アーシャ王女。私は、誰よりもあなたをお慕いしているのです」


 「私は、あなたの婚約者としてお迎えに上がったのです」と微笑んだその声音は柔らかいが、拒む余地を与えぬ強さを帯びていた。


「……ハーディ殿は、カリーム家の兵に探させますから、何も心配はいりません……あなたのことは、私が必ずお守りします」


 優しい微笑とともに握られた手は温かい。だがそこには、逃がさぬ意思が宿っていた。


(ターリク……)


 馬車の窓から外を見つめながら、アーシャの胸はざわめく。


「あっ……」


 馬車がかすかに震え、窓の景色が流れ出す。

 揺れる馬車の中、アーシャは膝の上で両手を固く握りしめていた。窓の外に流れる砂の景色が、遠ざかる彼の姿を現しているようで胸が締め付けられる。


 ──ターリクが、まだ街にいるのに……!


 ファリードは隣に座り、変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。だが、彼の手は常にアーシャの手を包み込み、その力は少しも緩むことがなかった。

 強く訴えかけるようなアーシャの瞳に、ファリードは優しい微笑みを浮かべる。


「ご安心ください。私の両親のいる、カリーム家の屋敷にお連れします。屋敷を守る兵も多く、アーシャ王女には何の不自由もさせません」


 ──不自由……。


 紫水晶の瞳が揺れ、喉の奥で声にならぬ想いが震えた。


 ──もし、このままカリーム家の屋敷に連れて行かれたら……。


 思考がそこに至った瞬間、紫水晶の瞳が揺れた。あの夜、離宮を抜け出したときの鼓動、砂漠を越えて共に歩んできた背中。命を懸けて自分を守ってくれた人の姿が、どうしても脳裏を離れない。


「カリーム様、必ずターリクを助けてくださるのですよね?」

「……勿論です。カリーム家の兵は精鋭揃い……それに、ハーディ殿は王宮でも大層腕が立つと評判だったとか……何の心配も要りませんよ」


 ファリードの言葉に、アーシャは街を振り返るように窓の外を見つめる。


(ターリクは強いもの……きっと大丈夫よね。また、すぐに会えるわよね……)


 ──この人は、嘘を言っているようには見えない。


 それでも、アーシャはターリクが傍にいないことが、不安でたまらなかった。

 胸の奥に募る切なさを押し殺すように、アーシャは膝の上で両手を強く握りしめた。窓の外に広がる砂漠の景色が、失われていく自由を象徴するかのように滲んで見えた。


* * *


 一方その頃、街外れまで駆けてきたターリクは、砂煙の向こうに霞む馬車に息を呑んだ。

 豪奢な造り、車体に刻まれた赤い紋章──


(……カリーム家の紋章……! あの男の……)


 砂塵を巻き上げて遠ざかる馬車を見据え、ターリクの血の気が引く。

 砂煙の向こうに小さく霞んでいく馬車を睨み続ける。胸の奥に燃え広がるのは怒りだけではなかった。守り切れなかった悔恨、彼女を失った恐怖──すべてが混ざり合い、心臓を焼くような痛みに変わる。


「アーシャ様……」


 握り締めた拳に血が滲む。誰に向けるでもない誓いが、砂漠の風に溶けて消えた。


 だが胸の奥では、煮えたぎる感情が燃えていた。


(あの男、もしアーシャ様に指一本でも触れていたら……)


 奥歯が軋む音を自分で聞いた。剣の柄を無意識に強く握り締め、殺気にも似た気配を放つ。

 すれ違った市井の人々が「ひっ」と息を呑み、慌てて視線を逸らし早足で通り過ぎる。


 脳裏をぎるのは、宴で見たあの瞳。舞台で舞うアーシャを見つめていたファリードの眼差しには、純粋な想いなどではなく、欲望に近い熱が確かに宿っていた。


(アーシャ様が……あの男の手に渡るなど……絶対に……)


 心臓を焼くような激情に駆られ、ターリクは深く息を吐いた。冷静さを取り戻さねば……。

 彼は周囲を見渡し、馬を探し始める。


 その時だった。


「──あなたは……その痣は……!」


 振り返ると、見知らぬ男が目を見開いて見つめていた。

 質の良い揃いの紺の外套を纏い、胸には宝石の付いた留飾りを付けた一団。三人、四人と次々に現れ、いつの間にかターリクを囲んでいた。


(……刺客か? いや、害意はない……だが一体……)


「私に何か? 急いでいるのですが……」


 冷たく応じたターリクに、ひとりの男が震える声を上げた。


「星の形の痣に、その青い瞳……間違いありません。あなたは──」


 喧噪にかき消されても、男の言葉がターリクの耳にははっきり届いた。

 青い瞳が驚愕に見開かれ、呼吸が止まる。


 男たちの紺の外套が風に揺れ、胸元の留飾りの宝石が夕陽を反射して煌めいた。その姿は市井の者ではなく、由緒ある何かを背負った者のように見えた。

 ターリクを見つめる男たちの瞳は、驚愕と熱に揺れている。まるで長年探し求めた宝を目の前にしたかのように……。


「ターリク様、どうか我らと──」

「行けません」


 短く切り捨て、立ち去ろうとする彼の背を「お待ちください!」と必死に呼び止める声が追う。

 だが彼は足を止めず、鋭い眼差しで彼らを振り払おうとした。


「大切な女性が攫われたのです……私には時間がない。行かせてください」


 ──どうでも良い……彼女以外は……。


 拳を握りしめるその姿に、男たちは互いに視線を交わし、深く頷いた。


「……承知致しました。我らも御助力いたします」


 揺らめく砂塵の中、新たな影が絡み合う。


 ターリクの瞳に燃えるのは、ただひとつ。

 ──必ずアーシャを取り戻すという、揺るぎない誓いだった。

次回、第二十四話「囚われの姫君」


カリーム家の豪奢な館に迎え入れられたアーシャ。

青い宝石の髪飾りを大切そうに身に付ける彼女の姿に、ファリードの胸は締め付けられる。

どれほど美しい宝飾や衣を捧げても、その瞳に映るのは遠く離れてしまった青年ただ一人。


星々の下、囚われの花となった姫が心の奥で呼ぶのはただ一つの名──

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