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第二十一話 淡い希望と追手の気配

 昼の喧噪を抱く市場バザールの通りには、人の声と駱駝の鳴き声が入り混じり、熱気を帯びた風が砂と香辛料の匂いを運んでいた。

 焼きたての平たいパンや甘い蜜菓子の匂いが鼻をくすぐり、通りの両脇には布を広げた商人や陶器を並べた露店が隙間なく続いている。


「ターリク……良いの?」

「どうされましたか?」


 立ち止まって、少し不安気な表情を浮かべているアーシャ。ターリクの瞳がわずかに揺れる。


「ターリクは、この街をすぐに出たいって……言ってたから……」


 その言葉に、ターリクは一瞬言葉を失った。

 アーシャの言う通り、本来であればすぐにでもこの街を出るつもりだった。だが、自分の言葉で表情を曇らせた彼女を──涙が滲んだその瞳を、見ていられなかった。


「少しだけなら大丈夫です……アーシャ様のお好きなものを見に行きましょう」


 ターリクの優しい眼差しに、安堵の表情を浮かべたアーシャは、花が咲いたように笑う。


「ターリク、ありがとう」


 「見たいものが、たくさんあるの!」とアーシャはターリクの袖を引いて、鮮やかな小物が並ぶ方へと歩き出す。その瞳は、無垢な子どものように澄んで輝いている。

 ターリクは、その様子に口元を綻ばせると、辺りの様子を伺いながらアーシャに手を引かれて続いた。


 市場のざわめきに胸を躍らせるアーシャの紫水晶の瞳は、あちらこちらへと吸い寄せられた。


「綺麗……!」


 アーシャの視線が止まったのは、小箱に入っている装飾品だった。繊細な銀細工で造られた花の中央には、小さな青い宝石が陽光を受けて煌めいている。深い青を湛えながらも美しく透き通っているその石は、彼の瞳の色によく似ていた。


「それは小さいが、サフィール産のサファイアだよ、お嬢さん。とても珍しい品だ」


 「青いサファイアは、サフィールでは王族だけが身に着けることを許された特別な宝石なんだ。滅多に出ない代物だよ」と商人が得意げに胸を張る。


 その名を聞いた瞬間、アーシャの胸に書物で読んだ記憶が蘇る。


(……サフィール。青い海に囲まれた、美しい国……)


 その想いを遮るように、隣のターリクが問うた。


「どれが良いのですか?」

「え……」

「気に入ったものをお選びください」


 見上げると、ターリクが優しい眼差しで見つめていた。


(嬉しい……!)


 アーシャは迷いなく、先程から見ていた銀細工の装飾品の小箱を手にする。花を模した繊細な銀細工に、小さな青いサファイアが嵌め込まれている髪飾りだ。


「これが良いわ。……ターリクの瞳の色みたいだもの」


 小さく呟かれた声に、一瞬、彼の手が止まった。


(……私の、瞳……)


 普段は冷静な青の眼差しが、わずかに揺らぐ。アーシャはほんのりと頬を染め、視線を逸らした。

 代金を払ったターリクが髪飾りを差し出すと、彼女は嬉しそうに受け取り、胸の前で大切そうに抱きしめる。

 その様子を見て、ターリクはわずかに目を細めた。


「ありがとう……ずっと大切にするわ」


 そう言ったアーシャの笑顔は、降り注ぐ陽の光よりも眩しかった。


 市場の喧噪はさらに熱を帯びていった。

 行き交う人々が肩をぶつけ合い、売り子たちの声が幾重にも重なり、香辛料の赤や黄の粉が風に乗って舞い上がる。

 裸足の子どもが走り抜け、陶器の皿がぶつかり合う乾いた音が響く。

 アーシャは宝石の入った小箱を胸に抱いたまま、まるで夢の中にいるかのようにその雑踏を見つめていた。


* * *


 装飾品の入った小箱を大切そうに抱き、アーシャは小さな声で呟く。


「サフィール……いつか、透き通る青い海を見てみたいわ」


 その言葉に、ターリクが即座に応じた。


「それでは、サフィールに向かいましょう」

「え……?」


 思いもよらぬ答えに、アーシャは瞳を瞬かせる。


「ザフラーンからは、できるだけ離れたほうが良い。サフィール程離れていれば、追手の手も届きにくいでしょう」

「でも……砂漠の果てにある遠い国なのでしょう?」

「遠いからこそ、目指す価値があるのです。アーシャ様を、守るために……」


 真っ直ぐな言葉に、アーシャの心臓が跳ねる。

 脳裏に広がるのは、碧い海を臨む白い城下町。彼と共にその地に立つ自分の姿──。


(サフィール……ザフラーンから遠く離れたその地でなら、ターリクと生きられるかしら……身分も、過去も忘れて、ただのアーシャとターリクとして……)


 通りを寄り添って歩く恋人たちを見つめながら、アーシャの胸の奥に淡い期待が灯る。

 だが、隣を歩く彼は人混みを睨み、深刻な表情で黙したままだった。 


(ターリク……)


 彼女の胸には、淡い憧れと同時に不安と罪悪感が広がっていた。

 彼は、これで良かったのか──その思いが一瞬よぎる。離宮の衛兵だったばかりに、自分アーシャを守ることが当然であるかのように巻き込んでしまった。

 アーシャが生きていられるのも、こうして王宮の外で無事に過ごせているのも、全てはターリクあってこそだった。彼が離宮の衛兵でなければ──あの日、アーシャの寝室に控えていなければ、今頃ザフラーンの王宮で変わらず衛兵として勤めていたはずだ。


(ターリクは、後悔してないのかしら……)


 だが隣に立つ彼の横顔を見た瞬間、自分の気持ちを確信する。


 ──それでも……わたしは、ターリクにそばにいてほしい……王女としてではなく、ひとりの女性として……。


 そう願う気持ちが、いつしか胸の奥で膨らんでいた。

 初めは、胸の奥に静かに灯った憧れだった──その想いは淡い恋心へと変わり、気付けば、彼にひとりの女性として愛されたいと願うようになっていた。


(……でも、ターリクは……私のことを……)


──『……兄妹です』と呟いた彼の声が脳裏に響く。


 アーシャは俯いてから唇をそっと噛んだ。紫水晶の瞳に淡い期待と切なさが揺らめいた。


 海辺の国サフィール──そこならきっと二人で生きられる……。そう思うだけで胸が高鳴るのに、“兄妹”という言葉が鎖のように絡みついて離れなかった。


* * *


 一方、ターリクの思考を支配していたのは迫りくる現実だった。


(サフィールに着いたら、どうする……。王宮に士官を願い出るか? だが、その間、私は彼女を一人にできるのか……)


 ──離れている間に、またアーシャ様が危険に晒されたら……。


 思考は焦燥に満たされ、無力感が胸を締め付ける。


 ──自分は、没落した地方貴族ハーディの血筋を名乗ってはいても、どこで産まれたかもわからぬ身……王女であるアーシャ様には到底相応しくない……。あの男のように、揺るぎない身分があれば、堂々とアーシャ様を……。


 苦悩するターリクの脳裏に、ファリードの姿が浮かぶ。

 その時、不意に耳に入った噂が彼の胸を刺した。


「白い肌の娘と、青い瞳の若い男を探してる連中がいるらしいぞ」

「どこかの王族だとか……」


 商人同士の他愛ない会話だった。だが、ターリクは即座に警戒を強める。

 背筋に冷たいものが走り、視線は人混みを走査するように動いた。


(……追手が近くまで来ているのか……!)


 ターリクは一歩足を止め、周囲を見渡した。

 門の方から入ってくる旅人の列、建物の影に立つ男たちの視線。

 彼の鋭い眼差しは、一人ひとりを素早く測り、腰の刃物や動きにまで注意を払っていた。握りしめた掌には汗が滲み、脈打つ鼓動を抑えるように息を整える。


 ──既に、誰かが目を光らせているかもしれない。


 アーシャはターリクを不安げに見上げたが、彼の険しい顔に声を掛けられなかった。


(守ってくれるのは、わたしが王女だから? ……わたしは、ひとりの女性としては見てもらえないの……?)


 その切ない想いは胸の内に溶け、口には出来なかった。

 アーシャはそっと彼の横顔を盗み見ていた。強く結ばれた唇の奥に、彼が何を押し殺しているのか──それを知りたくてたまらない。

 けれど、踏み込んではならない気がして、胸に秘めたまま歩を進める。

 その沈黙の重さが、二人を繋ぎも引き離しもしていた。

 

 彼の瞳は鋭く人混みを測り続け、彼女の切ない視線には気付かぬまま……。

 喧噪と熱気の中、ふたりの間には触れられそうで触れられない距離が、静かに横たわっていた。

次回、第二十二話「迫る影との戦い」


夕刻の街外れ、潜む影がふたりを襲う。

アーシャを守るため、ターリクは剣を振るう──

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