第二十話 すれ違う心
昼下がりの市場、宿へと戻る道すがら。
通りの屋台に並んだ蜜菓子に、沈んだ表情のアーシャの足が止まった。琥珀色の蜜を絡めた小さな果実の菓子が、陽光に照らされてきらめいている。
「……綺麗……」
小さく呟いた声を聞き、ターリクは足を止めた。
彼は短く逡巡した後、屋台の男に銅貨を数枚渡し、その菓子を買い求める。
「どうぞ」
包み紙を開いて差し出された一粒を、アーシャは嬉しそうに受け取った。微笑んだアーシャに、ターリクも少し安堵の表情を浮かべる。
「ターリクも、一緒に食べましょう」
街角の石段に並んで腰掛け、ふたりで蜜菓子を口にする。甘い蜜が舌に広がり、乾いた喉にとろりと流れ落ちる。アーシャは思わず笑みを零した。
「……美味しい」
その横顔に、ターリクもまたほんの一瞬だけ微笑んで、再び包み紙を開く。
「これも、召し上がってください」
「ターリクは?」
「私は良いのです」と淡く微笑んだターリクに、アーシャの頬がほんのりと染まる。
美味しそうに蜜菓子を口にするアーシャを、ターリクは静かに見つめる。その青い眼差しの奥には彼女への愛しさが滲んでいた。
そのとき、通りを歩いていた行商の夫婦がふたりに目を留めた。
「まぁ、なんて美男美女! お似合いだねぇ!」
「恋人かい? ……それとも兄妹?」
(──恋人……)
不意の明るい問いかけに、アーシャの頬が熱を帯びた。発された言葉の甘い響きに胸の鼓動が早鐘を打ち、答えを待つように隣のターリクをそっと見上げる。
だが──ターリクはわずかに目を伏せ、息を詰まらせてから「……兄妹です」と頷いた。
その瞬間、アーシャの胸に冷たい影が落ちる。
笑みを浮かべようとした唇が震え、落胆の色が隠せなかった。
(……兄妹、なの……?)
賑やかな街角で、言葉を飲み込みひとり俯いたアーシャ。その紫水晶の瞳は滲んで揺れている。アーシャはターリクの顔も見られず、顔も上げられなかった。
そんなアーシャの様子に、ターリクの胸にも葛藤が生まれていた。彼女を想う心を押し殺すように、彼は目を伏せると拳を強く握り締めた。
* * *
同じ頃、ザフラーン王宮。
豪奢な化粧台の前で、ラーニアは鏡に映る自らの姿を睨みつけていた。
アーシャがいなくなった今、ファリードはきっと自分の元へ戻る──そう信じて疑わなかった。
だが、現実は違った。
「……どうしてなの……」
ファリードの態度は冷たく、かつての優しい眼差しは一度として自分に向けられない。
ついには氷のような眼差しと声音で「二度と私の前で、アーシャ王女の名を口にしないでいただきたい」と告げられた。それからは、冷たく避けられるようになり、話し掛けることすら出来なくなった。
彼の冷淡な態度は、ラーニアの心を深く抉った。
「どうして……どうして私じゃ駄目なの……!」
鏡の前に並んでいた美しい細工の化粧瓶がいくつも床に叩きつけられ、香油の甘い匂いが部屋に充満する。
ラーニアは涙と怒りに震えながら、荒れ果てた部屋で叫んだ。
「アーシャは……まだ生きているの? でも、どうせ砂にまみれて惨めに生きているだけでしょう! 私はこんなにも美しいのに、なぜファリード様は私を見てくださらないの!?」
ラーニアのその様子は、第一王女に仕える侍女たちの間で密かな話題となっていた。
* * *
ひとしきり暴れたラーニアは、侍女たちに部屋を片付けさせ、新しい化粧瓶を準備させた。
そして、侍女たちを大勢呼び付けると、紅い花弁をたくさん浮かべた湯舟に浸かり、自慢の緋色の髪の手入れをさせ、湯上がりには最高級の香油で小麦色の肌を磨かせた。
新しく仕立てたばかりの艶やかな衣を纏ったラーニアは、再び鏡台の前に座る。鏡に映るのは、“ザフラーンの紅い宝石”と評判の美しい顔と自慢の体……。
けれど、鏡に映る自分を見てもちっとも満たされない。隣に並ぶはずだった男は、もうこちらを振り向こうとしないのだから。
(どうして……ファリード様は私を見てくださらないの? ザフラーンの王女はこの私しかいない。もうアーシャはいないのよ……!)
唇を噛みしめ、ラーニアは思い切って父王シャフリヤールの居室を訪れた。
「お父様! ……お願いです。ファリード様が、冷たくなってしまわれたのです! 何とか、仲を取り持っていただけませんか……」
「もうアーシャはいませんわ……この国の王女は私だけ。どうか私とファリード様が婚姻できるよう、また婚約をさせてください」と必死な面持ちで願い出る娘に、王は深いため息を吐いた。
「ラーニア……ファリードの心までは縛れぬ。お前が騒ぎ立てれば、カミーラの立場を損ねるだけだ。王妃が軽んじられるような真似は、断じて許されぬぞ」
「お前の言う通り、あれはもういなくなった……余計な真似は、二度とするでない……ラーニア、わかっているな」と王は呟いた。その冷たい叱責に、ラーニアの胸は鋭く抉られる。
「……私は、ただ……ファリード様に愛されたいだけなのに……」
小さく呟く声は父王には届かない。彼女の瞳に宿るのは、悔しさと執着の色だった。
(王女である私に相応しいのは、ファリード様だけ……婚約前は、あんなにも優しくしてくださっていたのに……)
かつてファリードから向けられた甘い微笑みを思い出し、ラーニアは震える唇を噛みしめる。
──でも、お父様はとっくに全てを見抜いている。妹を葬ろうとした自分の行動も……。
(……わかっているわ。いなくなったアーシャのことなんて、もうどうでも良い……それより……ファリード様が……)
胸の内で独りごちる声は、執念と焦燥に揺れていた。
* * *
一方、ファリードは王宮から姿を消したアーシャを諦めていなかった。
彼は幾人もの旅商人や衛兵たちに金や宝石を握らせ、愛しい姫の行方を探し続けていた。
そしてついに耳にした報せ──
『小麦色の肌をした美しい娘と、青い瞳の若い男の二人連れを、砂漠の街で見かけたと……』
その娘の髪は朝焼けのような金色で、紫の瞳をしていたという。
男の青い瞳は、彼の記憶に焼き付いて離れない──
「……アーシャ王女、そして……あの衛兵か」
──ターリク・アール・ハーディ……あの男は、没落した地方貴族の血筋と聞く……アーシャ王女を任せることはできない……。
ファリードの胸に熱がこみ上げた。
確信と共に、砂漠の街へ向かう決意を固める。
(待っていてください、アーシャ王女。必ず……この手でお迎えに上がります)
彼の瞳には、アーシャへの純粋な想いと、狂おしいほどの執着が燃え上がっていた。
次回、第二十一話「淡い希望と追手の気配」
市場で出会った青い宝石が、アーシャの胸に淡い希望を灯す。
一方で、追手の噂がふたりを脅かし──。
揺れる想いと迫る危機の狭間で、ふたりの心はすれ違っていく。




