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第十九話 ふたりの距離

【第四章のあらすじ】


寄り添うほどに募る、それぞれの想い。

しかし、守りたいと願う心は立場と戒めに揺れ、すれ違いを生む。


「王女」と「衛兵」──決して結ばれることのないはずだった二人。

切なさと葛藤の中で、互いの心を試される物語が続く。

 朝の街は、昨日の喧噪をそのまま引き継いでいた。市場バザールの通りには色鮮やかな布や香辛料が並び、呼び声と笑い声が混じり合って、砂漠の乾いた風に渦を巻いていた。


 通りの奥からは笛の音色が響き、足元では裸足の子どもが陶器の水瓶を抱えて走り抜けていく。焼きたての平たいパンの香ばしい匂いに混じり、蜂蜜を煮詰めた甘い香りが鼻をくすぐった。


 異国の布地を広げる商人が「滅多に見られない品だよ!」と声を張り上げ、色とりどりの布が風に揺れて波のように重なり合う。

 アーシャは立ち止まったまま、眩しそうにその光景を見上げた。まるで色の着いた本の挿絵の中に迷い込んだようで、胸がときめくのを抑えられなかった。


「わぁ……今日も賑やかね」


 肌を小麦色に染め、砂色の衣を纏うアーシャは楽しげに辺りを見渡した。昨日に続く街の散策は胸が高鳴るばかりだ。

 けれど、どこかおかしい。隣を歩くはずのターリクの距離が、昨日よりもどこか遠く感じるのだ。


「ターリク?」


 呼びかけて伸ばした手が、彼の腕に触れた瞬間──ターリクはわずかに肩を引いて、距離を置いた。

 アーシャは思わず目を瞬かせる。


「……アーシャ様、参りましょう」


 ターリクの低い声に促され、二人は再び歩き出す。

 彼は、変わらずに寄り添ってくれている。避けられたわけではないはず……そう思っても、アーシャの胸の奥には冷たい影が落ちた。


(……昨日までは、もっと自然に寄り添ってくれていたのに……)


 彼の変化に戸惑いつつ、アーシャの視線は市場に並ぶ品々へと移っていく。

 赤いざくろ、金色の干し杏、色鮮やかな陶器。美しい布や装飾品。

 香辛料の山から立ち上る匂いは、刺激的で甘くもあり、気づけば夢中で眺めていた。


「ターリク……?」


 気が付いた時には遅かった。押し寄せる人波の中、傍らにいたはずのターリクの姿が消えている。


「ターリク、どこにいるの?!」


 細い声は喧噪に掻き消され、返事はない。必死に背伸びして姿を探しても、似たような砂色の外套を纏う者は多く、人波に押されてアーシャはよろめいた。

 雑踏の中で人々の肩や荷が容赦なく押し寄せ、必死に動こうとしてもなお体が流される。

 誰かの体に押され、足元の砂が舞い上がる。手を伸ばしても、掴むべきはずの逞しい背は、どこにも見えない。


「ターリク……!」


 掠れた声は喧噪に呑まれ、返事はなかった。視界に映るのは見知らぬ顔ばかりで、胸が締め付けられるように苦しい。


(どうしよう……離れないよう言われていたのに……!)


 一人になってしまったアーシャの瞳は、不安と焦りに染まっていた。人混みに流されないよう、必死にターリクの姿を探す。


 そのとき、不意に声が降ってきた。


「嬢ちゃん、迷ったのか?」


 振り返れば、小麦色の肌の若い男が立っていた。年は、ターリクよりも少し下だろうか。

 アーシャの顔を見た男は、わずかに目を見開くと、人の良さそうな笑みを浮かべた。

 アーシャは戸惑いながらも口を開く。


「あの……人を探していて……」

「一緒に探してやるよ。こっちだ」


 男は強引にアーシャの腕を掴むと、雑踏の人混みの中へと歩き出す。


(この人、何だか怖いわ……)


「あの、自分で歩けます。放してください……」


 男の手を振り解こうとするが、力は強く、アーシャは腕を引かれるまま歩くしかなかった。不安に駆られてあたりを見回すが、小麦色の肌に砂色の衣を纏う、どこにでもいるような少女のことなど、誰も見てはいない。


(ターリク、どこにいるの……?)


 気付けば、アーシャは市場の外れまで来ていた。人混みから外れるにつれ人影は減っていく。

 腕を強引に引く男は振り返りもせず、無言で歩き続けている。


「あの、どこに行くんですか……?」


 男からの返事はない。ただ、アーシャの手首を掴む手の力だけが、次第に強くなっていく。


(この人、やっぱり変よ……)


「放してください……誰か!」


 腕を引かれるアーシャの瞳に、薄暗い路地の影が映る。


(怖い……ターリク……!)


 薄暗い路地が目前に迫った瞬間──背後から力強い腕が彼女を抱き寄せた。


「その手を放せ。……今すぐにだ」


 アーシャの頭上で、怒りに震える低い声が響いた。細い肩を守るように抱き込んだその腕は、震えていた──


* * *


 (アーシャ様……?!)

 

 ターリクは、全身から血の気が引くようだった。

 ほんの一瞬、露店の陰を確かめた間に、傍らにいたはずのアーシャの姿が消えてしまったのだ。心臓が凍り付くような感覚に駆られ、我を忘れて人波を掻き分ける。


「……アーシャ様!」


 叫び声は喧噪に紛れるが、それでも声を出さずにはいられなかった。何度もその名を叫び続ける。

 脳裏をよぎったのは、暗い路地の奥へ連れ込まれ、二度と戻らぬ彼女の姿──


(あの時、アーシャ様の手を掴んでおくべきだったのに……!)


 アーシャの手が触れ、思わず避けてしまったことを思いだし、ターリクはひどく後悔した。


(アーシャ様……早く見つけなくては……!)


 名を叫びながら人混みの中を探し、必死で駆け抜けたその先。人影もまばらな路地の入口で、暗がりに若い娘を連れ込もうとしている若い男の姿が目に入った。


「放してください……誰か!」


 ──アーシャ様……!


 その声に向かって息を切らしたまま駆けると、ターリクは背後から腕を伸ばした。


* * *


「その手を放せ。……今すぐにだ」


(ターリク……!)


 聞き慣れた声に安堵したアーシャが、涙を滲ませる。

 彼女を背後から抱き締めたまま、ターリクの青い瞳が男を睨みつける。

 鋭い眼差しと気迫に若者は息を呑み、アーシャから手を放した。悔しそうな表情で舌打ちを残し、人混みの中へと逃げていく。


 ターリクは腕の中のアーシャを確かめた。小さな肩が震えている。

 静かに息を吐いて、声を整える。


「……ご無事ですか」


 アーシャは顔を上げ、必死に微笑もうとした。


「ありがとう、ターリク」


 その笑顔が、かえって彼の胸を締め付ける。


「はぐれてしまって、ごめんなさい……」

「悪いのは、私の方です。お許しください、アーシャ様……」


 ターリクは振り返ったアーシャを抱き寄せたまま、もう一度だけ路地の奥に視線を向ける。

 もし、自分がもう少し遅ければ、彼女は取り返しのつかない危険に晒されていたはずだ。


 ──あの動き、刺客ではなかった。あの男の目的は……。


 ぞっとする光景が脳裏を掠め、ターリクは首を振る。背筋に冷たいものが走り、胸の奥で怒りと恐怖が入り交じった。


(……考えるな……アーシャ様を守る、それだけだ)


 そう言い聞かせても、浮かんだ感情は消えず、胸の内の震えは止まらなかった。

 強く抱き寄せたまま、ターリクはアーシャを市場の光の中へと連れ戻す。


 ターリクの腕に強く抱き寄せられたアーシャの体は、ようやく温もりを取り戻した。だが、細い肩がまだ震えているのを感じながら、ターリクは唇を強く結ぶ。

 

 ──アーシャ様は、どれほど恐ろしい思いをなさったか……。


(もう絶対に、この手を離さない……)


 ターリクは、まだかすかに震えている肩を抱き寄せたまま、そう心に誓った。

次回、第二十話「すれ違う心」


市場の片隅で蜜菓子を分け合うアーシャとターリク。

行商人の一言に揺れる二人の心は、思わぬすれ違いを生む。


そして、アーシャを探し続けるファリードの耳に届いたのは──金の髪に小麦色の肌の娘と青い瞳の若者の噂だった。

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