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第十八話 葛藤する心

 その宿の玄関口は狭く、煤で黒ずんだ油ランプが心許なく揺れていた。床に敷かれた絨毯は色褪せ、湿った木の匂いが鼻をつく。

 酔客の笑い声や、遠くで鳴く駱駝の声がかすかに響き、街の片隅の賑わいと埃っぽさが、この小さな宿にも染み込んでいた。


「部屋が一つしかない? ……そこには、部屋はいくつある」


 わずかに眉を寄せるターリクの問いかけに、宿屋の女将が「何言ってるんだい」と笑う。


「こんな宿に、そんな上等は部屋はないよ。嫌なら他を当たるんだね」


 その言葉に、ターリクは少し考え込んだ。後ろには不安気な表情のアーシャ。夕べは冷える砂漠で身を寄せ合って眠った。今夜は、何としても彼女を温かな寝台で休ませたかった。


「わかった。その部屋に泊まらせてくれ」


 「銀貨二枚だよ」と答えた女将に代金を渡すと、ターリクは部屋の鍵を受け取る。


「夕食は別料金だよ。食べたかったら、夜九時までにそこの食堂に来るんだね……酒だけなら夜中までやってるよ」


 そう言った女将は、近くに見える開け放たれた部屋を指さした。中では、夕食を取る人の姿があった。アーシャが興味津々にその様子を窺っている。


「部屋に、湯を用意してもらいたい」


 淡々と告げられたターリクの言葉に、女将が目を丸くした。


「まさか、湯浴みをするってんじゃないだろうね」


 呆れ顔の女将の言葉に、アーシャはきょとんとした表情を浮かべた。彼女にとっては当たり前の習慣であり、不思議に思う理由すらなかったからだ。


 一方で、ターリクは小さく息を吐いた。砂漠で砂と汗にまみれた体を清めさせるのは、彼女の身分を考えれば当然のこと。だが、粗末な宿でその願いを通すのは無理があると分かっている。


 それでも──彼はアーシャのために譲ることは出来なかった。

 湯と寝台を整え、少しでも安らげる夜を与えること。それが仕える者としての務めであり、彼の譲れない想いだった。


 黙り込んだターリクに、女将が呆れたように口を開く。


「全く……どこのお姫さまだい」と呟いた女将に、ターリクが銀貨を五枚渡す。

「これで、用意してもらえるか?」

「……いつが良いんだい?」


 ターリクが、受付の台に置かれている古びた置き時計を見る。時刻は午後六時半──


「八時半に頼む」


 ターリクは周りに視線を走らせつつ、アーシャに寄り添いながら部屋へと向かった。


* * *


 部屋に入ると、古びた寝台と小さなテーブル、それに椅子がひとつ並んでいた。壁の漆喰はところどころ剥がれ、窓辺の木枠は砂でざらついている。


(これは……参ったな……)


 寝台は一つしかなく、おまけに小さい。王女であるアーシャを休ませるにはあまりにも粗末だった。


「ターリク……?」


 心細げな小さな声に、ターリクが振り返る。紫水晶の瞳が不安を映しているのを見て、彼は胸の奥を締めつけられた。


「アーシャ様、まずは夕食を取りに行きましょう」


 努めて落ち着いた声で告げる。今は余計な心配を抱かせるより、食事をさせて力を取り戻すことが先決だ。


 ターリクの言葉に、アーシャはわずかに表情を緩め、微笑んで頷いた。


* * *


 夕刻、二人は食堂へと向かった。

 石壁に囲まれた広間は油灯が照らし、ざわめきと香ばしい匂いに満ちている。

 羊肉を煮込んだシチュー、焼き立ての薄いパン、香辛料を振った豆料理。素朴ながらも街の暮らしの息遣いがそのまま食卓に並んでいた。


 ターリクは一つ一つを手に取り、わずかに口に含んで毒味をする。その動きは自然で素早く、周囲の誰も気づかないほど。だが、アーシャには分かっていた。彼が黙々と己の身を盾にしてくれていることを……。


「ターリク……もういいわ、危なくなんてないもの」

「確かめなければ、安心できません」


 短く返す声は冷静だが、どこか優しさが滲んでいる。

 アーシャは俯き、小さく笑ってスプーンを取った。


「……美味しい。こんなに温かい味、初めて……」


 目を細めて頬を染める彼女を見て、ターリクの口元がわずかに緩んだ。

 気づかぬほどの、淡い微笑みだった。


* * *

 

 夕食後、二人が部屋に戻ると、女将が大きなたらいと湯、間仕切りを持ってきてくれた。


 木で作られた間仕切りを広げたターリクは、彫られた透かし模様に険しい表情を浮かべる。

 荷をほどいて薄手の毛布を取り出すと、広げてから間仕切りを覆った。


* * *


 湯浴みをするアーシャの安全のために、ターリクは間仕切りの向こうで待機していた。


 アーシャは衣を脱いで大きいたらいに入ると、用意してもらった湯を小さな桶で掬って頭から浴び、ターリクが買ってくれた石鹸で全身に塗られた染料を丁寧に落としていく。

 着替えも湯浴みも、いつも侍女に任せていたため、離宮の湯殿でしてもらっていたことを思い返しながらの見様見真似だった。


 体を包む石鹸の泡から花の香がふわりと香り、アーシャは微笑んだ。

 再び頭から湯を浴びて泡を流すと、近くに用意していた布に手を伸ばす。


(……?)


 アーシャの瞳に、床板の隙間から這い出した黒い影が映し出される。


「──きゃあっ!」

「アーシャ様!?」


 反射的に振り返ったターリクの視界に、白い閃光のような姿が飛び込んでくる。

 次の瞬間、一糸纏わぬ姿のアーシャが、胸元に縋りつくように飛び込んできた。


「ターリク……っ! 大きな、蜘蛛が……!」


 アーシャの細い腕が彼の胸元に縋り、濡れた体が無自覚に押しつけられる。その柔らかな温もりに、ターリクの全身が凍りつき、呼吸が止まった。


 濡れた白い肌から、甘い花の香が立ち昇る──

 心臓が激しく打ち鳴らされる音が、まるで耳の奥を突き破るように響いている。


(……落ち着け……今は──アーシャ様を落ち着かせるのが先だ)


 必死に理性を呼び覚まし、ターリクはしがみつくアーシャを片腕で支えようとした。だが、触れてしまった濡れた素肌の感触に息を呑む。

 息を静かに吐きながら、水気を帯びた左手をそっと離し、もう一方の手で間仕切りに掛けていた薄手の毛布を掴むと、震える白い肩を覆うように掛けた。


 アーシャは、小刻みに震えていた。ターリクは、落ち着かせるようにそっと細い肩を両手で包む。


「もう大丈夫です。……私がいます」


 低く、静かに告げるターリクの声に、毛布に包まれたアーシャが顔を上げ、わずかに体が離れた。

 見上げてくる、紫水晶の瞳──濡れた髪や頰から落ちた雫が、露わになりかけている白い胸元に流れ落ちる。

 ターリクは顔を逸らして、強く抱き締めそうになっていた腕を慌てて離した。


「あ……わたし……」


 少し落ち着きを取り戻したアーシャが、白い肌を紅く染めてターリクから後退る。震える手で毛布を胸元に手繰り寄せてはいるが、湯が滴る白い太腿が露わになっている。

 眩しい肌に一瞬目を見開いたターリクは、再び慌てて目を逸らした。


「……何も、見てはおりません……ご安心を」


 ターリクが冷静な声色でそう告げると、アーシャが毛布に包まって後ろを向き、しゃがみ込んだ。

 ターリクは、かすかな手の震えを抑えるように拳を握りしめる。


「わたし……ごめんなさい……」

「アーシャ様……」


 か細い声も、毛布に包まれた体も震えていた。ターリクは、その姿に立ち尽くすことしか出来なかった。


「一人にして……」


 小さく呟かれた言葉に、ターリクは瞳を伏せた。


「……扉の外におります。何かあればすぐお声掛けください」


 そう言い切る声は冷静を装っていたが、握り締めた拳には力がこもり、伏せられた青い瞳には消しきれぬ動揺の色が宿っていた。


 ターリクは静かに部屋を出ると、扉をそっと締めた。鼓動を落ち着かせるように深く息を吐いて、扉にゆっくりともたれ掛かる。


 だが、胸元に残る柔らかな温もりと、細い体の震えを忘れることなど、到底できはしなかった──


* * *


「ターリク……」


 どのくらいの時間が経ったのだろうか。小さな声と共に、静かに背後の扉が開かれた。


 ターリクが振り返ると、砂色の衣を着たアーシャがおずおずと立っていた。


「アーシャ様……」

「ターリク……ごめんなさい……」

「アーシャ様がお謝りになることは、何もありません……」


 少し俯いて謝るアーシャに、ターリクの瞳がわずかに伏せられる。部屋へ入ると、ターリクは静かに扉を締め、簡素な鍵を掛ける。


(蹴ればすぐに破れそうな扉だな……)


「もう、休みましょう……私は見張っていますから、安心してお休みください」

「え……ターリクは、眠らないの?」


 アーシャの問いかけに、ターリクがわずかに目を伏せて、かすかに微笑む。


「追手が来た時のため、座って休みます。この宿は頑丈な造りではないので……」


 ターリクの言葉に、アーシャの瞳が恐怖と不安に揺れる。離宮で刺客たちに襲われた晩を思い出したのだろう。


「大丈夫です。アーシャ様のことは、私が必ずお守りしますから」


 そう言って、いくつかある部屋の燭台の灯りを消していくと、窓から差し込む柔らかな月明かりが部屋を照らす。


(街の人達は皆、こんな寝台で休んでいるのね……)


 アーシャは、見たこともない程小さく粗末な寝台を見つめ、そっと腰を下ろし足を乗せる。

 傍らの椅子で休もうとしているターリクには申し訳なかったが、アーシャはまだ追手への恐怖が強く、彼を頼る気持ちには勝てなかった。

 アーシャが薄手の毛布に包まったのを確認してから、ターリクは椅子へと腰掛けた。


 夜も更け、宿の外からは酒場の笑い声や駱駝の鳴き声が遠くに聞こえてくる。

 アーシャは寝台に横たわり、薄布を握りしめたまま何度も寝返りを打っていた。傍らの椅子には、背筋を伸ばしたまま腰掛け、目を閉じているターリクの姿がある。眠ってはいない。耳を澄ませば、かすかに聴こえる彼の呼吸は浅く規則正しく、常に周囲に気を張っているのが分かった。


「……ターリク」


 小さな声に、すぐに応じる気配がした。


「どうされましたか」


 ランプの灯りが落ちた薄暗がりで、アーシャは毛布をぎゅっと抱きしめ、勇気を出すように口を開いた。


「眠れないの……少しでいいから、手を握っていてくれる?」


 沈黙が落ちる。だがすぐに、ターリクが寝台の傍らに膝をついた。

 大きな手が差し出され、アーシャの小さな手を包み込む。


「これで、安心できますか」


 その声はいつも通り静かで、握られた手は温かかった。


「……ありがとう、ターリク」


 アーシャは頬をわずかに赤く染め、小さく微笑んだ。だが、握ってくれている手が、わずかに震えている気がする。


「ターリク、寒いの? あなたも毛布を着て……」

「……私は平気です……安心して、お休みください」


 寄り添ってくれている彼の気配と、その手の温もりに導かれるように、次第に瞼が重くなる。

 眠りに落ちる直前──アーシャは、彼の手が自分を離すまいとするように強く握られていることに気づいた。


(ターリク……)


 胸の奥が苦しいような、切ないような……それは、アーシャには初めての感情だった。


 やがてアーシャの寝息が静かに響きはじめた。

 手を離すこともできずに、ターリクはその細い指をただ包み込む。


 ──守るだけの、はずだった……。


 だが、胸の奥に芽生える熱は、眠りを拒み、彼の心を締めつけて離さなかった。

次回、第十九話「ふたりの距離」


市場の喧噪に心奪われたアーシャは、気付けばターリクとはぐれてしまう。

危機を目の前に、恐怖に震えるアーシャを救ったのは、息を切らし必死に駆けつけたターリクだった。


第四章「揺れる心」。

二人は、近付くほど想いを募らせ葛藤に揺れる──


* * *


ここまでお読みいただきありがとうございます。

第三章では、逃避行の中で互いの想いが少しずつ芽生え始める二人を描いてきました。


次の第四章からは、その想いが大きく揺れ動きます。


募る想いと葛藤ですれ違う二人の心──

それでも離れることのできない、ふたりの物語が始まります。

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