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第十七話 変装

 陽は傾きはじめ、砂の街は橙に染まりつつあった。市場のざわめきはまだ熱を帯び、香辛料の赤や布地の青が夕光を受けてきらめいている。

 黒い外套に包まれて歩くアーシャは、いくら顔を隠していても人目を引いていた。陽に透けるような白い肌と、淡い紫の薄絹が外套の隙間から覗くたび、視線がちらちらと寄せられる。


(……このままでは、すぐに見つかってしまう……)


 ターリクは視線の流れを感じ取り、足を止めて市場の一角へ向かった。店先には色褪せた布を纏った人形が立て掛けられ、中には素朴な町娘の衣がいくつも吊り下げられている。


「アーシャ様、こちらを」


 ターリクが差し出したのは、淡い砂色の衣と薄い外套。アーシャが見たこともないような質素なものだが、市井の娘なら誰もが着ているものだった。


「これを、わたしが着るの?」

「はい。安全のためです」


 戸惑うアーシャに、店主が近寄ってきて笑顔を浮かべる。


「お嬢さんの着ている衣や飾りは、とても良い品だね。よければ買い取ろう」


 視線がアーシャの外套から覗く装飾品や胸元の留め具、袖口の金糸に注がれていた。だが、ターリクはすぐに首を振る。


「必要ありません」


 即答する声に、店主は残念そうに肩をすくめて引き下がった。足が付けば、追手に道を与えることになる──それだけは避けなければならない。


 衣を替えたアーシャは、華やかさを抑えられたはずだった。だが、透き通るような白い頬や手足が目立つことに変わりはなかった。

 そこで、ターリクは隣の店で売られていた小袋を手に取った。


「これは?」

「肌を染める粉です。美しい小麦色に調えるもので……」


 店の主人が、染粉の使い方や、脂や石鹸で落とせることなどを説明する。ターリクは迷わず多めに買い、さらに女性用の石鹸や油、髪を整える櫛などの日用品を店主に揃えさせる。


「……わたしのために?」

「必要なものです」


 ターリクは淡々と答えたが、その仕草にはどこか不器用な優しさがあった。アーシャは、嬉しそうに微笑んでいる。


 アーシャの衣と染粉を手に取ったターリクは、さらに隣の店に並べられていた砂色の粗布の外套と男物の衣に目を留めた。縫い目も荒く、王都の衛兵が纏う青い隊服とは比べものにならないほど質素な作りだ。

 しかし──それこそが必要だった。


「……こちらも、いただきたい」


 店主が怪訝そうに眉を上げる。


「そんな粗末な布を? 旦那さまの服のほうがよほど上等で……」


 ターリクは短く首を振り、銀貨を一枚差し出した。

 彼は手に入れた駱駝の陰で黒い外套を脱ぎ、砂色の粗布の外套を羽織った。青い瞳が粗末な布の影に隠れると、不思議とただの旅人にしか見えなくなる。


「……ターリク」


 アーシャが小さく息を呑む。質素な装いであるはずなのに、逆に彼の体格や落ち着いた佇まいを際立たせていた。

 ターリクは砂色のフードを少し下ろし、淡々と告げる。


「これで、ようやく街の影に紛れられます」


 アーシャが小さく微笑むと、ターリクは衣類や日用品の入った袋を駱駝の鞍に括りつけ、二人は歩き出した。


* * *


 店を出たあと、夕焼け色の街路を並んで歩きながら、アーシャが小さく口を開く。


「……わたしのことなんて、誰も探していないのね……王女がいなくなったのに、噂も聞かないでしょう?」


 軽く言ったように見えた。けれど、その瞳の奥はかすかに翳り、寂しさを滲ませていた。


 ──お父様は、きっとわたしを捨てたんだわ……わたしがいなくなっても、悲しんでもいないはず……。


 ターリクは足を止め、言葉を探した。だが適切な答えは見つからない。

 結局、低く落ち着いた声で告げた。


「充分に警戒すべきです。……決して、気を抜いてはなりません」


 それだけを告げると、アーシャの背にそっと手を添えてゆっくりと歩き出した。


(……優しいのに、不器用な人……)


 彼の声は真剣で、心配してくれているのだと分かる。その仕草も……だからこそ、胸の奥に灯る想いを隠すようにアーシャは微笑んだ。


* * *


 アーシャの憂いを帯びた横顔を見つめながら、ターリクの脳裏には、ひとりの男の影が浮かんでいた。


 ──ファリード・アール・カリーム……。


 第一王女ラーニアの近衛兵を務めていた頃、目にした光景がある。夜会の露台で、密かに甘い声を交わす二人の姿を。

 彼は軽率にも、ラーニアと婚約前から通じていた。

 「アーシャ王女には、式まで指一本触れぬ」と誓ったなどと噂されていたが、ターリクには到底信じられるものではなかった。


 そしてあの宴の夜──舞台で舞うアーシャを、熱に浮かされたように見つめていた視線を、ターリクは忘れてはいない。あの男は、宴の後、第一王女との婚約を破棄してまでアーシャを求め、離宮にも日毎通っていた──

 だからこそ、ファリードが必死に彼女を探しているはずだと、警戒心は強まるばかりだった。


(……第一王女からの刺客も問題だが、あの男も必ず動いているはず……アーシャ様を絶対に護らなくては……)


 ターリクの胸の奥で、強い決意が固まっていた。


* * *


 やがて、夕暮れの影が街路を覆いはじめた。市場の喧噪はゆるやかに収まり、行き交う人々は家々の明かりを目指して帰っていく。

 アーシャとターリクは宿を探して街を歩いたが、どこからも「満室だ」と断られるばかり。


「どうしよう……」

「……まだ幾つかあるはずです。当たってみましょう」


 最後の頼みとばかりに立ち止まった古びた宿屋。その軒先の灯りを見上げ、二人は静かに息を吐いた。

 この夜が、二人にとって予想外の波乱を連れてくるとも知らずに──

次回、第十八話「葛藤する心」


やっと辿り着いた宿に用意されたのは、一つの小部屋だけ。そして、湯浴みを巡る出来事が、二人の距離を思わぬ形で縮めていく。

眠れぬ夜、差し伸べられた手に触れた温もりは、身分の差を越えた絆の始まりだった。

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