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第十六話 初めての街

 陽が傾き始めて、砂漠を渡る風の熱が少しずつ落ちはじめる頃。

 やがて、二人の視界に淡い影が見え始めた。近づくにつれ、それが街を囲う砂色の防壁であると分かる。

 陽を浴びて白く輝く石壁は、乾いた大地に突き立つように伸び、要所ごとに塔のような見張り台が連なっていた。大きな門の前には隊商や旅人の列ができ、荷馬車に積まれた布や香辛料の匂いが風に混じって漂ってくる。


「……すごい、人がたくさんいるわ……」


 アーシャは駱駝の背から目を輝かせ、門前の光景に釘付けになる。視線の先で隊商の男たちが威勢よく声を掛け合い、砂塵まみれの子どもが水を売り歩く。荷を抱えた旅人が門番に銀貨を差し出す様子も見える。

 離宮の奥で暮らしていた彼女にとって、目に映る全てが未知の世界だった。


 一方、ターリクは周囲を素早く見渡し、出入りする人々の視線や門兵の様子を冷静に見極めている。手綱を引きながらアーシャの乗る駱駝をゆっくりと進め、声を落として告げた。


「日が落ちる前に宿を決めましょう。街に入ったら人目も多くなります、油断は禁物です」

「ええ……でも、あれも見たいわ」


 アーシャは門をくぐった瞬間、目に飛び込んできた市場に釘付けになった。

 乾いた土の道の両脇には、布張りの小さな屋台がずらりと並び、色鮮やかな布や陶器、干した果実や香草が所狭しと並んでいる。香辛料の強い香りと焼きたての平たいパンの匂いが入り混じり、喧騒と共に熱気が押し寄せてきた。


「ターリク、見て! あの果物、絵でしか見たことないの」

「アーシャ様、お気を付けください」


 アーシャが目を輝かせて店先を覗き込む横で、ターリクはアーシャが駱駝から落ちないよう手を添え、人混みの中で宿の看板を探していた。護衛としての視線は常に鋭く、視野の端で彼女を守るように寄り添い続ける。


 街路は賑わいが広がっていた。隊商が連れてきた駱駝の鈴が鳴り、商人たちの掛け声が混じり合って響く。露店の香辛料の山から立ちのぼる香りは鼻をつき、焼いた肉の匂いが食欲を誘う。

 色鮮やかな果物──ざくろの赤、干し杏の橙、まだ青さの残る葡萄が山のように積まれ、目にも鮮やかだった。


「わぁ……本当に色々あるのね……」


 アーシャの視線はあちらこちらへと飛び、布を広げる店先や、陶器を並べる屋台へと吸い寄せられていく。

 光を受けて揺れる布地は、深紅や群青、金糸を織り込んだものまであり、彼女は目を奪われた。


 一方で、ターリクは街路の奥を注視していた。建物の影に潜む気配、行き交う人々の表情──彼の青い瞳は決して油断せず、衛兵としての意識がひたすらに周囲を測っていた。


「……日が暮れる前に、宿を探す必要があります」


 短く言い切る声は低く落ち着き、しかしどこか急かすようでもある。


「もう少しだけ見たいの……だめかしら……」


 アーシャはターリクを遠慮がちに見下ろした。

 砂漠に入り、ようやく辿り着いた初めての街──その胸の高鳴りを抑えきれない様子を輝く瞳が現していた。

 ターリクは一瞬だけ眉を寄せたが、結局は頷き、あたりを警戒しながら彼女に寄り添うように歩く。


 その時だった。道端に腰を下ろした老婆がふと顔を上げ、ターリクの瞳をじっと覗き込む。


「……その瞳、サフィールの……いや、まさかね……」


 掠れた声は風にさらわれ、周囲の喧騒に溶けていった。


「サファイア……?」


 アーシャは振り返り、聞き取れなかった言葉を確かめようとした。けれど老婆は耳が遠いのか、もう答えずに俯いたまま笑っているだけだった。


 ターリクは表情を変えず、淡々と彼女を促す。


「……アーシャ様、参りましょう」


 街路の喧噪に戻りながら、アーシャはちらりと彼を見つめる。


「……ターリクの瞳、やっぱり綺麗ね……海を知らない私でも、きっとこんな色なんだと思うわ」


 微笑むアーシャに、ターリクが少しだけ考える様子を見せる。


「海、ですか……」


 ターリクは短く返し、視線を遠くに流した。


「私も見たことがありません。ただ……この色が人より珍しいらしいとしか」

「珍しいだけじゃないわ。……私には、とても素敵に見えるの」


 アーシャが小さく笑みを浮かべると、ターリクは「ありがとうございます」と小さく答えて歩き出した。彼の口元はわずかに綻んでいた。

 その背を見つめながら、アーシャの胸にはまだ、先ほどの老婆の呟きが小さな棘のように残っていた。


* * *


 市場の喧噪の中、ターリクとアーシャの纏う黒い外套はむしろ異彩を放っていた。砂漠の暑さに不釣り合いなその装いは、道行く者の目を引き、ちらちらと好奇の視線が向けられている。


 特に、黒い布の隙間から覗くアーシャの白い頬や手足が際立っていた。まして、纏う淡い紫の薄絹や金の留飾りは、王侯貴族の娘しか纏えないような上質な品だ。

 ターリクは周囲からの視線に気付き、眉を顰める。隣を歩く彼女が目立てば目立つほど、追手に気づかれる危険も増す。


(……このままでは危うい。早く、目立たぬ装いを揃えねば)


 宿を探すことよりも、先にアーシャの装いを整えるべきだと判断したターリクの瞳が、露店に並ぶ町娘の衣に向けられた。


「ターリク……?」

「アーシャ様……宿を探す前に、揃えたいものがあるのです」


 ターリクの言葉に、アーシャは目を輝かせて頷いた。


* * *


 その頃、遠い海辺の白い石造りの街。

 白い石で築かれた広間の窓からは、夕映えを映した紺碧の海が果てしなく広がっている。

 海を臨む露台には中年の男女が並び、静かにその景色を眺めていた。


「……あの子は、見つかるでしょうか……」


 憂いを帯びた表情の女が、そっと口を開く。細い指先が胸の前で組まれ、淡い光を握りしめるように震えていた。

 男は黙ってその手を包み、深く頷く。


「必ず戻る。……信じて待つしかない」

「もう、二十年待ちましたわ……」


 子を想う心は決して色褪せない。だが、幼い我が子を失ってからの二十年という歳月は、女にとってあまりにも長過ぎた。


 涙を浮かべる女の細い肩を、男の腕がそっと抱き寄せる。女は、男の胸に頰を寄せると一筋の涙を零した。

 それでも二人は、ただひたすらに我が子の帰りを待つしかなかった。


 二人は再び、水平線の彼方へと視線を重ねた。海のように澄んだ、青い瞳で──

次回、第十七話「変装」


アーシャの安全のため、市井の衣と染粉を買い揃えるターリク。

「誰も私のことを探していない」と零す彼女の瞳には、かすかな淋しさが宿る。

一方、ターリクの胸にはファリードへの警戒が募っていた。

夕暮れの街で、二人は宿を探すが──

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