第十五話 守りたい想いと王宮の影
──砂漠に浮かぶ美しいオアシスで、二人は体を休めていた。
荷を整え終えたターリクは、オアシスの外縁を一巡して戻ると、椰子の幹に背を預けて空を仰ぐ。そして、朝の浅い光の中、水辺で涼む無邪気なアーシャの姿を見つめる。
どこからか舞い降りた鳥たちに、アーシャは微笑んで話し掛けていた。
──どこまでも清らかで無垢な王女……。
静かに見守る視線に気付いたアーシャが、ターリクを振り返り微笑む。
(──この微笑みを、全てを守りたいと思うようになったのは、いつからだったか……)
──『アーシャ王女殿下を、必ず守るのですよ』
不意に、脳裏に響いた言葉。
ターリクは、その懐かしい声にふと過去を思い起こした。
育ての母、ウルファ・アール・ハーディが世を去ったのは、十の冬だった。細い手で頭を撫で、「強くおなり」と笑った皺だらけの優しい顔が、今も瞼の裏に焼きついている。
ウルファは地方の貴族家に産まれるも、家は没落し、少女の頃から貴族家の侍女として生きてきたのだと語ってくれた。
あまり多くを語らない人だったが、辺境の貴族家に仕えているときに、街外れで迷子になっていた幼いターリクを偶然に保護したのだと聞かされた。
しばらく親を探したが見つからなかったそうで、ウルファは侍女として働きながら必死にターリクを育ててくれた。彼女はターリクにとっては、何であれ“母”だった。
母を失ってからの年月、ターリクは兵士長に頼み込み、兵舎の雑用を手伝いながら鍛錬を積ませてもらった。
彼は、暇さえあれば、王宮の回廊から離宮の門を見つめていた。ほとんど姿を見ることは叶わなかったが、庭を一人きりで本を抱えて歩く小さな王女を見かけた日があった。だが、距離は遠く、名前を呼ぶことさえ叶わず、ただその姿を見つめ立ち尽くした。
何も出来ない自分が悔しくて、必死に鍛錬を続け、やがて十六歳を迎えた頃に王宮の衛兵となることができた。すぐに離宮付きとして配してほしいと希望したが、離宮付きの衛兵は少なく、増員はしないと一蹴された。
度々希望を出したが、不思議がられるだけで対応はしてもらえず、悩む日々を過ごした。
王宮の衛兵になって三年が経った頃、第一王女の近衛に選ばれた。誰もが羨む栄誉。けれど彼は、背後の寝所で流れる甘い香と、ふいに落とされる誘惑に首を振り続けた。
そして二年前、彼はあの夜の拒絶の代償として、離宮の門へと降ろされた──その瞬間、心のどこかが静かに安堵したのを覚えている。守るべき人の影に、やっと寄り添えると思ったから……。
(……守る)
彼は目を閉じた。掌には、昨夜、震える小さな肩を包んだ確かな温もりが残る。
理性は、剣のように研がねばならない。だが、心は命令を聞かない──その厄介さを、初めて思い知っている。
「ターリク」
名を呼ばれて振り向くと、アーシャが濡らした布で頬を冷やしながら、微笑んでいた。
「考え事をしていたの?」
「……失礼を致しました」
「そんなことはないわ……何か、悩んでいるの?」
気遣うような眼差しに、口元がわずかに緩む。
「いえ……母や、昔のことを思い出していたのです」
「お母様の……いつか、わたしにも聞かせてくれる?」
「はい、いつか……」
ターリクは、今は語るべきときではないと思った。いつか、話すときはくるのだろうか……。
* * *
その頃、ザフラーン王宮では、朝靄を裂くように騒めきが広がっていた。
離宮の王女の寝所にて、黒衣の男たちが三人、血に濡れて冷たく横たわっているのが見つかったのである。部屋を満たす血の匂い、割れた器、破られた扉と窓。──そして、第二王女と一人の衛兵の影が忽然と消えていた。
「陛下にはお伝えした。……だが」
「“騒ぐな”と……」
「王女様に対し、あまりに酷い……」
若い侍従たちが顔を見合わせ、唇を噛む。
皆、血に濡れた離宮で姿を消し、捜索もなされない心優しい王女が不憫でならなかった。家臣たちが報告や進言をする中、王が重い玉座の上で手を一度だけ叩き、興味を失ったように視線を逸らしたことを、誰もが知っていた。
* * *
(アーシャ王女……!)
白い外套を翻して王宮の回廊を急ぐ男がいた。ファリードである。彼は屋敷で報せを聞くや否や早馬を飛ばし、息を継ぐ間もなく玉座の間へ向かった。その途中、回廊の角で紅い影が視界を掠めた。
第一王女ラーニア。薄紅の衣を揺らし、侍女たちに笑いかけながら何事か囁いている。
第二王女の安否にざわめく王宮で眉ひとつ曇らせぬどころか、上機嫌で微笑むその横顔に、ファリードの胸に走ったのは、言葉にならない違和と不審感だった。
(血の繋がりがある妹の行方が知れぬ朝に、どうして──)
だが、彼は足を止めず、玉座の間に進み出た。
「国王陛下。──アーシャ王女殿下のため、捜索隊の編成をお許しください。私も人を出し、自ら探します」
琥珀の瞳が真っ直ぐに光る。シャフリヤール王は長い沈黙ののち、退屈げに肩をすくめた。
「……好きにするがよい」
王の言葉は、それだけだった。
娘の安否より、何が重要だと言うのだろうか。いくら寵妃の産んだ娘ではないといえ、あまりに酷すぎる……。
ファリードの胸の奥で、何かが乾いた音を立ててひび割れた。
「ファリード様!」
背後から、薄香をまとった声が割り込む。振り返れば、ラーニアが頬を上気させて駆け寄ってきていた。
「ラーニア王女殿下……失礼ながら、私は今アーシャ王女殿下の捜索について国王陛下にお話を──」
「王宮を出たあの子が、生きていけるはずがありませんわ! どうせすぐに死んで──」
ラーニアが、言いかけてから慌てて口元を覆う。発された言葉に、ファリードの顔色が一変したからだ。
「──なぜ、そう言い切れるのです」
琥珀の光が鋭さを帯びた。ラーニアの顔がみるみる青ざめていく。
「アーシャ王女殿下は攫われた可能性もある。……なのに、“王宮を出た”と、どうして断言を?」
「わ、私は……っ」
紅い唇が震え、扇を持つ手がぶるぶると揺れた。玉座の上から、王の低い声が降りる。
「落ち着け、ラーニア」
王の言葉はそれだけ。咎めも、問いただしも、ない。
(やはり、ラーニアがアーシャ王女を……だが、ラーニアは王女で寵妃の娘。これ以上は追及できない……)
ファリードは険しい表情を隠すように、わずかに頭を垂れた。
「──失礼いたします」
背を向けた彼の胸中には、ひとつの確信が静かに沈殿していく。
──アーシャ王女は、どこかで生きている。必ず見つけ出す。たとえ王が、誰もが、見ぬふりをしても……。
* * *
その頃、ザフラーン王宮の正門の外では、異国の衣をまとった一団が馬を引き、通達役とやり取りをしていた。一行は皆、海辺の青を思わせる深い紺の外套を纏い、宝石が飾られた銀細工の留め具が陽射しに眩しく煌めいている。
「首筋に“星の痣を持つ若者”を探しているのです。該当する者がいれば、名を教えていただきたく……」
通達役は顔を曇らせ、肩をすくめた。
「調べてはみましたが、ここには、そのような者は……」
返ってきた言葉に使者はわずかに落胆した表情を見せると、短く礼をし踵を返す。重い門扉が軋んだそのとき、息を切らせながら、一人の衛兵が駆け出してきた。
「お待ちを!」
荒い息の間から、彼は躊躇いがちに告げる。
「……“星の痣”のある若者を、知っております。珍しい青い瞳で……離宮に立っていた男です」
使者の瞳が、砂を照り返す光よりも鋭くきらめいた。
「……名は」
「ターリク……ターリク・アール・ハーディです」
衛兵の言葉に、使者たちの瞳が一斉に滲んだ。
「……ターリク、様……! ようやく、ようやく……」
離宮から王女と共に姿を消した衛兵の名を呟き、涙を零し始めた使者たち。衛兵が困惑の表情を浮かべる。
遠い海の国の風が、その一瞬王都の門前を吹き抜けた。
* * *
オアシスの水面が、朝日を吸い込んで柔らかく輝く。アーシャは濡れた髪をほどき、手櫛で整えながらちらりと彼を見上げた。
「ターリク……わたしね、もっと外の世界を見てみたい……広い海も、いつか見てみたいの……」
明るく煌めく紫水晶の瞳に、ターリクの眼差しが少し和らぐ。
「叶えましょう、アーシャ様」
ターリクの迷いのない声。アーシャの胸の奥で、小さな灯がふっと明るくなる。
砂は遠くまで続いている。
追手の影も、まだどこかで砂を踏んでいるだろう。それでも、今朝の光だけは確かだと思えた。
彼の低い声、濡れた首筋の星、呼び名の小さな取り決め──すべてが、ふたりが生き延びるための合図のように思えた。
ふたりは駱駝に再び跨がる。椰子陰を抜けた風が、薄紅がかった金の髪と砂色の髪を同時に揺らした。
銀の星は、まだ天高く眠っている。
二人の進む道は、砂漠の果てへ──そして思いもよらぬ海の国へ。運命の歯車は、音もなく回り始めていた。
次回、第十六話「初めての街」
砂漠の街に辿り着いたアーシャとターリク。
初めて見る街の様子に胸を躍らせるアーシャの隣で、ターリクは人々の視線に気づき、懸念を強める。
そんな折、ひとりの老婆がターリクの瞳を見つめ、不思議な言葉を残した。
アーシャの胸に小さな棘を残すその呟きは、やがて二人の運命を揺らしていく。




