第十四話 オアシスでのひと時
朝焼けの中、二人を乗せて進む駱駝の足取りが、やがて緩む。
薄紅色の黎明が砂丘の縁を染め、低い椰子の梢や緑が揺れる先に、美しい水面が広がっていた。砂の海にぽっかりと生まれた青い泉──オアシスだ。
「……なんて綺麗なの!」
微笑んだアーシャは思わず澄んだ水辺に駆け寄り、しゃがみ込んで水面を覗きこんだ。淡い空を映す水に指先を浸すと、ひやりとした感触が皮膚をきゅっと引き締める。
小さな離宮で育ち、王宮を一歩も出られずに育った彼女にとって、世界は初めてに満ちている。
椰子の影、砂漠の風の匂い、遠くで鳴く鳥たちの声──どれもが目新しく、アーシャの胸の奥で様々な感情が小さく弾けるのだ。
砂漠での夜は寒く、アーシャの体調を心配していたターリクだったが、元気そうな姿に安堵の表情を浮かべている。
「ここの水で喉を潤しましょう。……この布で濾してから、お飲みください」
後ろから差し出されたのは、清潔な薄布と小ぶりの皮袋。ターリクは短く指示を添え、「まず私が確かめます」と先に浅瀬へと歩み出た。
ターリクがオアシスの水を布で掬い、濾しながら口にする。淡い褐色の喉が脈打ち、唇から零れた雫が汗ばんだ肌を伝う。その姿に見惚れてしまっていたアーシャは、頬を染めて目を逸らすと、少し離れた位置でターリクの真似をする。
ターリクは喉を潤してから、薄布で濾した水を革袋へと器用に流し込んでいる。
だが、全てが初めてのアーシャには、上手には出来ない。
(こうするのかしら……)
薄布を何度も水に浸し持ち上げ、戸惑っているアーシャの視界に影が差し込む。見上げるとターリクが立っていた。
「あ……ターリク……」
「これをどうぞ」
ターリクは傍らに膝を付くと、持っていた薄布で器用に水を掬い、アーシャの口元へと運ぶ。真剣な、切れ長の青い瞳──
少し戸惑いながらも、アーシャは唇を少し開け、滴る水を口に含む。
(恥ずかしいわ……もう、子どもじゃないのに……)
恥じらいの表情を浮かべるアーシャの唇は、ほんのわずかしか開かれていない。真珠のような頬はほんのりと色付き、薄紅の花弁のような淡い唇からは、含みきれない雫が零れて白い喉を伝う。
水を含みながら、彼女はふと、唇に触れる冷たさよりも──視界に映る彼の瞳を意識してしまった。
(……どうしよう、胸がこんなに苦しいなんて)
喉を伝う雫さえ、彼に見られていると思うと、火照った頬が更に熱を帯びていく。子ども扱いなんてされたくないのに、なぜか彼に委ねることが、アーシャは少し嬉しかった。
戸惑いの色を滲ませる青い瞳が伏せられたことに、彼女は気づかなかった。
「ありがとう、ターリク」
アーシャは口元をそっと拭いながら、少し照れたように笑う。
「……ありがとう、ターリク。オアシスのお水って、こんなに甘いものなのね」
ターリクはわずかに首を傾げ、静かに応じる。
「砂漠を越えたあとに口にする水だからこそ、甘く感じるのだと思います」
「……そうなのかしら」
アーシャは、まだ胸の奥が高鳴っているのを隠すように視線を落とす。かすかに微笑んでいるその顔は、まだほんのりと色付いていた。
──水などより、あなたの声や微笑みの方が、余程……。
アーシャの横顔を一瞥して、ターリクはほんの少しだけ目を伏せた。
「……私は、あちらの方で、少し汗を拭わせていただきます」
ターリクはアーシャに背を向けると、駱駝を繋いだ椰子の傍にしゃがみ込んだ。
(──どうしたら良い……)
ターリクは、冷たい水に手を浸して、火照った顔を覆う。先程目にした情景──淡い唇を濡らす仕草と白い肌を伝う雫に、想いを打ち消すように視線を逸らしたはずが、胸の奥に焼きついて離れない。
「守ること以外考えるな」と何度も心に命じても、頬を薄紅に染めた彼女の微笑みが、すべてを揺るがす。
自分は、ただの護衛──だが、見つめ続けてきた目の前の姫は、あまりに愛おしすぎた。
──あの日、触れるべきではなかった……。
ターリクは、アーシャを池から救い出した日、一瞬だけ抱き締めてしまったことを思い出す。
あの時、彼女は池に沈み溺れていた。少しでもターリクが来るのが遅れていたら、救えていなかったかもしれない──震えながら涙を零す彼女を前に、衝動を抑えられなかった。
だが、触れてから後悔したのだ。震える華奢な体に、甘い花の香……すぐに腕を離したが、既に遅かった。あの瞬間、自分でも気付いていなかった、胸の奥に隠された想いに気付いてしまったのだ。
あのときから、彼女をただの“守るべき王女”としては見られなくなった──
──本来であれば、気安く近付くことすら許されぬ御方。それを、この腕に抱き締めてしまうなど……。
ターリクは、心を落ち着かせるようにため息を吐き、着ていた外套を外した。青い隊服の襟元を緩めて手ぬぐいを湿らせると、火照った顔を覆って冷やし、首筋を拭う。そのとき──
光を受ける首筋に、くっきりとした輪郭が浮かんだ。右耳の下、星の形をした小さな痣。
(……星……?)
アーシャの瞳が、ターリクの首筋の痣を見つめている。
(──“ターリク”には、“星”という意味があったはず……それで、名付けられたのかしら……)
ターリクを見つめていたアーシャは瞬きを忘れ、零れそうな声を喉の奥で飲み込んだ。問いかけようとして、唇を結ぶ。彼には、尋ねても良いことと、いまはまだ触れてはいけないことがある──そんな気がしたから。
──きっと、この痣を知る人は少ないはず──それを自分が知っている……そう思うと、アーシャの胸が少し高鳴り、熱を帯びた。
オアシスに風が吹き、椰子の葉と二人の髪を揺らす。アーシャは、ほんのりと火照った頰を冷やすように風に当たると、静かに揺らぐ水面を見つめた。
ターリクは水を手のひらで掬い、再び顔にあてがってから、手ぬぐいで顔を押さえる。襟元を整えて外套を再び纏うと、静かに口を開いた。
「王女様……お願いが、ございます」
「どうしたの?」
振り返ったアーシャの頬は、まだわずかに火照っていた。青い瞳が一瞬躊躇いの色を帯び、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「今後は……“王女様”とお呼びすることができません──これからは、“アーシャ様”と、お呼びしてもよろしいでしょうか」
唐突な願い。けれど、そこに込められた意図は明確だった。彼は、“王女”を守るために、自分は在ると言ったから……。
「……ええ」
わずかにアーシャの胸の奥が沈む。身分を外して彼と並び立つことが叶うのなら、“アーシャ”と呼んでほしい──そんな願いが、ふっと顔を出したからだ。
けれど、アーシャの顔には微笑みが浮かぶ。アーシャは、“王女”様ではなく、“アーシャ”様と呼んでもらえることが、ただ嬉しかった。彼との距離が、前よりも近付いたように感じたから……。
微笑んだアーシャに、ターリクもかすかに笑みを浮かべる。「感謝いたします、アーシャ様」と、安堵したように目を細めた。
駱駝の鞍を外し、ターリクが椰子陰に仮の幕を張るあいだ、アーシャは衣の裾を少したくし上げて水際を歩いた。彼女の足跡が砂に淡く刻まれては、すぐ風に消える。
アーシャがふと振り向けば、青い瞳がいつもの距離で静かに見守っていた。
次回、第十五話「守りたい想いと王宮の影」
砂漠に浮かぶオアシスで休息する二人。
水辺で涼む無邪気なアーシャの姿に、ターリクは己の過去を思い返す。
一方、ザフラーン王宮では離宮の騒動に揺れ、ラーニアの軽率な言葉が波紋を広げていた。
やがて現れる異国からの使者。告げられる「星の痣」を持つ者の名が、運命の歯車を回し始める。




