第十三話 月夜の逃避行
【第三章のあらすじ】
追っ手を振り切り、二人は灼熱の沙漠へ。
過酷な逃避行の中で芽生えるのは、ほのかな恋心と、許されぬ想い──
星降る夜空の下、主従の壁を越える物語が始まる。
王宮を後にした二人を、銀色に輝く月が照らしていた。その道が何処へ続いているのか、まだ誰も知らなかった──
夜半の王都は、すでに眠りについていた。家々の灯りは落ち、石造りの街並みを照らすのは蒼白な月光と、風に揺れる松明の明かりだけだった。
黒い外套を目深に被ったターリクは馬屋のある家の門扉を叩くと、怪訝そうな顔で顔を出した家主の手に革袋から出した金貨を握らせる。
目を見開いた家主の男はすぐに使用人を呼びつけ、一緒に馬屋へ向かったターリクは、鞍の付けられた茶色の馬を一頭連れてきた。
初めて間近で見る馬に、アーシャは怯えた瞳を向けるが、彼の大きな手が腰を支え、鞍の上へと抱き上げる。
「しっかりお掴まりください」
ターリクの低い声に、アーシャはただ頷くことしかできなかった。馬の背は思いのほか高く、初めての感覚に足が竦む。
けれど、すぐに背後からターリクが馬に跨がり、彼女を抱き込むように手綱を取ると、恐怖よりも不思議な安堵がアーシャの胸に広がった。
城下の細い路地を抜けると、蹄の音が夜に響く。ターリクは馬の腹を蹴り、闇を裂くように駆け抜けた。
アーシャは必死にターリクの腕を掴む。背から伝わる厚い胸板の感触と、響く心臓の鼓動。胸の奥で強く高鳴る音が、自分のものか、彼のものかも分からなかった。
(……早く、朝が来れば良いのに……)
アーシャは、揺れる視界に広がる夜空を見つめた。
王都の外壁を越え、砂漠の入口に辿り着くころには、彼女の瞳には涙が浮かんでいた。恐怖と、安堵と、言葉にならない想いが入り混じる。
──だが背後では、まだ刺客の気配が遠くに残っているように感じられた。王宮の影から追手が放たれていないはずがない。
月明かりに照らされた砂の道に、見えぬ刃の影が忍び寄っている気がして、紫水晶の瞳は不安と恐怖に濡れていた。
* * *
王都の外れ、砂漠への入り口にある小さな隊商宿に灯がまだ残っていた。夜更けにもかかわらず、往来する旅人たちのために、駱駝を貸す商人の姿がある。
「一頭、借りたい。二人で乗る……そこにあるものも一式欲しい」
ターリクが低い声で告げると、髭を蓄えた男が怪訝そうに目を細めた。
「こんな夜更けに、随分と綺麗なお嬢さんを連れて……よほど急ぎのご事情があるようで……」
男の目がちらりとアーシャの首元をかすめた。目深に被られた外套の隙間から覗く薄紫のヴェールと揺れる金の飾りに、男の視線が注がれている。アーシャは身を竦め、慌てて外套を引き寄せた。
その瞬間、ターリクが彼女の前に立ちはだかり、鋭い眼差しで金貨を突き出す。
「余計な詮索は要らん。これで足りるはずだ」
「馬も引き取ってくれ」と付け加えたターリクと、握らされた金の輝きと重みに男は目を丸くし、すぐに頷いて手を振った。
「……あぁ、いいだろう……気をつけな、夜の砂漠は冷えるぞ」
男は、荷をぶら下げた駱駝を連れてきた。ターリクは、渡された粗末な綱を握り、駱駝を引き出す。長い睫毛を揺らし、低く唸るその姿に、アーシャは小さく身を竦ませた。
「……わたし、乗れるかしら……」
不安に揺れる声。ターリクは彼女の手を取ると、腰を支え、軽々と鞍の上へと抱き上げた。
「私が支えます。落ちることはありません」
その確信に満ちた声に、アーシャは小さく息を呑み、ぎゅっと鞍の前を掴んだ。続いてターリクが後ろに跨がり、逞しい腕で彼女の体を守るように囲む。ターリクが手綱を取ると、駱駝はゆっくりと歩き始めた。
背中越しに伝わる鼓動と温もりが、アーシャの恐怖に凍えた心をわずかに溶かした。
* * *
夜の砂漠に、一頭の駱駝が歩み出す。
月明かりに照らされた砂の海は、昼の灼熱を失い冷え切っていた。風が吹くたびに砂がさざ波のように揺れ、星々の光を反射して銀色に煌めく。遠くには隊商の灯が瞬き、天を仰げば満天の星が降り注ぐ。
アーシャは思わず息を呑んだ。
「……なんて……美しいの……」
囁きに似た声が、夜気に溶ける。
その横顔を見下ろしたターリクは、ただ黙って前を見据えていた。だが、澄んだ瞳に映る星の光と震える肩が、彼の胸に言い知れぬ衝動を呼び起こす。
(この方を、何としても守らねば……)
月のように静かな決意が、その胸に燃えていた。
* * *
夜も更に深くなり、駱駝はぶるりと震えると、砂丘の陰に腰を下ろした。
ターリクは隊商で揃えた荷を降ろし、風を避けるように少し傷んだ幕を広げて小さな焚き火を起こす。
炎がぱちりと弾け、冷たい空気をわずかに和らげた。
アーシャは休む駱駝の傍らに座り、外套に包まって震える体を抱き締める。だが吐く息は白く、体の芯まで冷え込んでいた。
そんな彼女の隣に膝をついたターリクが、薄手の毛布を重ねてアーシャの体を包んだ。アーシャが見上げると、青い瞳が静かに彼女を見つめていた。
「夜明けまでは、とても冷えます。……こちらへ」
風除けに張った幕の傍に腰を下ろしたターリク。彼に促されるままに、少し躊躇った表情のアーシャが膝をつき、その体に身を寄せる。
「お許しください」とターリクは低く呟くと、逞しい腕と彼の外套がそっとアーシャを包んだ。ほんのりと頰を染めたアーシャは、彼の胸の鼓動を感じながら、体を包む優しい温もりにその身を預けた。
「……ありがとう、ターリク……守ってくれて……」
アーシャのか細い声が夜風に溶ける。ターリクはわずかに俯き、震える彼女の肩を毛布で包み直す。
「……私は、王女様を守るために在るのです……」
小さく囁かれたその声音は硬い誓いのようでありながら、どこか切なさを秘めていた。
わずかに伏せられた紫水晶の瞳が、憂いを帯びて揺れる。
──わたしが、“王女”だから……?
ターリクの腕の中で、浮かんだ疑問を打ち消すようにアーシャは瞼を閉じた。
その胸に預けられた少女の重みと、鼻先に触れる淡い花のような香に、ターリクは静かに息を吐き、胸の奥で自らを戒める。
──これは、護衛としての行為──決して、それ以上の意味を抱いてはならない。
だが、腕の中でまだかすかに震えている華奢な体に、理性の奥深くで別の衝動がわずかに蠢いている。
(私は、王女様を守るためだけに在る……この方を、守ることだけを考えるんだ……)
ターリクが瞼を静かに閉じると、アーシャはその胸に頬を寄せ、眠りについた。
* * *
砂漠に寄り添うふたつの影。
互いの鼓動と温もりを感じながら、二人はひとときの安息に瞼を閉じていた。
星々はなおも瞬き、逃げゆく二人を見守るように銀の光を降らせていた。
その先に待つのが希望か、さらなる闇か──誰にもわからなかった。
無数の星は祈るように瞬き、冷たい砂に寄り添うふたつの影を照らしていた。その光は、たとえ刹那であっても、彼らを包む唯一の安息の証だった。
次回、第十四話「オアシスでのひと時」
砂漠で朝を迎え、二人はオアシスに辿り着く。
アーシャにとって初めての外の世界は、鮮やかで、心を揺さぶるものであった。
水辺で交わす言葉、ふと垣間見える瞳と表情──
ふたりの距離は、静かに近づいていく。




