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第十話 燃え上がる憎悪

 数日後の王宮の回廊。

 侍女たちが通り過ぎた後、若い士官と廷臣がひそひそと囁き合っていた。


「聞いたか? あの“女泣かせ”で有名なカリーム家のファリード様が……」

「ザフラーンの白い花には、式を挙げるまでは指一本触れぬ、と断言されたそうだ」

「余程大切と見えるな……殿下を見舞うために、離宮にも日参しているとか」

「まぁ……アーシャ王女殿下は清らかな花だからな。どんな男でも、守りたくなるお方だよ」


 笑み交じりの賛嘆の声に、廊下の柱の影で立ち止まっていたラーニアの頬がひくりと引き攣った。噛み締めた紅い唇には、血が滲んでいる。

 扇を握る手に、ぎり、と音が走る。


(……何ですって……?)


「式まで指一本触れない」──?


 耳を疑うような噂が、ラーニアの瞳を吊り上がらせる。


(この私には、出会って間もなく……! あの夜、私が誘えば、迷いもせずに抱いたくせに……!!)


 婚約する前──まだラーニアが夜会に出始めたばかりの頃だった。初めて会った会場の露台バルコニーで、ファリードと密かに興じた記憶が鮮烈に蘇る。


 ──『ラーニア王女様が、この国……いやこの世界で一番お美しい……』

 ──『あなたに夢中にならない男は、この世に存在しないでしょう』


 熱い眼差しで見つめ、耳元で甘く囁いたファリード。あの熱に浮かされた琥珀色の瞳も、肌を重ねて余裕のなくなった美しい顔も、この体を夢中で抱いた腕も、彼にとっては全てが遊びだったというの……!?


 紅い唇が怒りで震え、鳶色の瞳が燃え立つ。


「……アーシャ……」


 低く呟かれた名には、嫉妬と憎悪が混ざり合っていた。

 かつて自分の美貌で容易く落とした男が、私に夢中で愛を囁いた男が、今や“アーシャ”にだけ愛を誓う──。


(許さない……アーシャも、ファリードも……必ず後悔させてやる……!)


 柱の影に残された紅い爪痕が、彼女の激情を物語っていた。


* * *


 第二王女アーシャ毒殺未遂事件から一週間が経った。

 夕刻を迎えようとしている離宮には、黄金色の光が庭を覆い、空気は熱を含みながらも次第に静けさを纏い始めていた。


 その一角に、豪奢な白い衣をまとった青年の姿があった。

 カリーム家の嫡男、ファリード。彼はアーシャが伏せってから「見舞い」と称して日参しており、この日も離宮を訪れていた。


 侍女の案内で入った応接間には、まだ誰の姿もなかった。だが、応接間の窓から、静かに佇む儚げな後ろ姿が見えた。


 ──アーシャ王女殿下……?


 庭へ出ると、静かに池を見つめる王女アーシャの姿があった。薄青の衣を纏い、掛け布を細い肩に掛けている。

 ファリードの足音でアーシャが振り返り、澄んだ紫水晶の瞳が彼を映した。真珠のような肌はまだ少し青ざめている。


「……カリーム様? どうして……」


 アーシャの声は弱々しかった。

 姉姫ラーニアの婚約者である彼が、何故自分の離宮に毎日のように通うのか──その疑念が、力なく揺れる瞳に宿っている。


「アーシャ王女……」


 彼は膝をつき、アーシャを見上げて切実な眼差しで言葉を紡いだ。


「どうか、“ファリード”とお呼びください……」


 困惑の表情を浮かべるアーシャを、ファリードが切ない瞳で見上げる。


「アーシャ王女……私は、あなたを愛してしまったのです」


 ファリードの告白に、紫水晶の瞳が見開かれる。


「……先日、国王陛下からアーシャ王女殿下との婚姻の御縁を賜り、あなたを正妻としてカリーム家に迎えることとなりました……どうか、私の想いを受け入れてください」

「そんな……お父様からは、何も……聞いておりません」


 生まれて初めて受けた愛の告白と、婚姻の申し出を耳にしたアーシャの声音には、驚きと戸惑いが入り混じっていた。


「それに、お姉様の婚約者だった方が、どうして……」

「姉君の……ラーニア王女殿下との婚約は、白紙となりました」


 アーシャの疑いに満ちた視線にも、ファリードは熱を込めた眼差しで頭を垂れた。


「あなたを愛してしまったからです、アーシャ王女……私は、あなたを──あなただけを一生愛し、大切にすると誓います……清らかで可憐なあなたを、この手で守り抜きたいのです」


 その声音も眼差しも、もはや遊び慣れた男のものではなかった。

 女たちを泣かせてきた遊蕩の面影など一切なく、ただ必死に、心から懇願する青年の姿。


「このような淋しい離宮でお過ごしになるのは、心細いはず……アーシャ王女のために、この離宮よりも大きい屋敷を準備致しましょう。もっと美しい庭も……あなたの望むものは全て、御用意致します」


 「あなたが望むなら、どんなことも叶えて差し上げたいのです」とファリードは切実な眼差しでアーシャを見つめる。

 言葉を詰まらせ立ち尽くすアーシャに、ファリードは言葉を続ける。


「お話を、私もお聞きしています……ここは離宮で逃げ場はなく、衛兵も多くはない。兵も大勢いる我が屋敷に来ていただければ、私が離れずにお守りしますから……」

「カリーム様……」


 戸惑いに揺れる紫水晶の瞳を、ファリードが苦しそうな表情で見上げる。


「名前では、呼んでいただけないのですか……」


 切なげな声に、アーシャは言葉を失った。でも、戸惑いに揺れるアーシャには、目の前で跪く青年にどう応えれば良いのか分からなかった。


 ──その様子を、茂みの影から覗き見る姿があった。

 離宮の衛兵として新たに潜り込ませた者の手引きで、ここまで忍び込んだラーニア。邪魔な衛兵ターリクは、王命と称して離宮を離れさせた。


 ラーニアの鳶色の瞳には憎悪の炎が燃えている。その瞳が、必死に妹へ愛を訴える元婚約者の姿を捉えていた。


(……ファリード様……何て顔をしてるの……跪き、必死に愛を乞うなんて……)


 あの夜、誘えば容易く腰に手を回し、熱に浮かされたように耳元で囁いた男が──今は手すら握らず、必死に愛と忠誠を誓っている。

 ラーニアは、ファリードの視線の先で戸惑いの表情を浮かべているアーシャを睨みつける。


(目障りなアーシャ……今日こそ、この手で消してやる……)


「私の想いは変わりません……また明日参ります。あなたが、頷いてくださるまで……」


 ファリードは切ない眼差しでアーシャを見つめると、丁寧に一礼をした。


(──ファリード、せいぜい後悔すると良いわ。明日には、もうアーシャはいないんだから……)


 ファリードが退出すると、離宮の庭に静寂が戻った。


* * *


 夕暮れの庭。

 ファリードが帰ってからも、アーシャはひとりで池の畔に佇んでいた。

 数日前、ターリクの手によって銀杯が弾き飛ばされ、毒が溶け出したあの池だ。ここは、アーシャのお気に入りの場所だった。かつては小魚が群れて泳ぎ、蓮の花が揺れていたが──今は、ただ沈黙が広がっている。

 死んだ魚の影はもう消えて、水も新たに張り替えられたというのに、透き通る水面の底に何か不気味な気配が残っているように思えた。


「……小鳥も……魚たちも……本当にごめんなさい……」


 涙を零したアーシャの呟きは細く、風に溶けて消える。

 瞼を閉じれば、あの日の光景が甦る。毒で息絶えた可哀想な白い小鳥。白い腹を上に浮かんでいた魚たち。

 その姿に涙を零した自分──。


「どうして……」


 震える声が唇から漏れる。


(どうして……お姉様は……)


 かすかな疑念が胸に広がる。

 ラーニアの名を口にしないまま、それでも心は怯えていた。


(カリーム様が、離宮ここに通うようになったから……? でも、わたしにはどうすることも……)


 そのときだった。


 ふわりと、甘く刺激的な香りが風に乗った。花の香りではない、鼻腔を覆うような濃厚で甘美な匂い。

 アーシャの胸がざわめく。──毒殺未遂の日にも感じた、あの香りだ。


 ぞくり、と背に悪寒が走る。


「──あっ!」


 振り返るよりも先に、背中に衝撃が走った。

 思考が追いつく前に、視界が傾く。

 背を強く押された衝撃で足が浮き、薄青の衣の裾が宙に舞う。そして、水面に映る夕空が迫る──


 振り返ろうとしていたアーシャの視界の端に映ったのは──見覚えのある紅い髪。それは、夕陽と重なって燃えるように見えた。


(お姉…さま……)


 その言葉を声にすることも出来ず、アーシャの身体は池の水面へと叩きつけられた。


* * *


 冷たい水が纏う衣に絡み、体を重く沈めていく。

 泳ぎを習ったことのないアーシャは、必死に手足をばたつかせるが、身体はどんどん深みへと沈んでいく。その池は、彼女が考えていたよりもずっと深かった。


 喉に水が入り、息ができない。

 助けを呼ぼうとしても、声が出ない。

 視界の中で、夕空が水に溶け、光と闇が混ざり合う。


(いや……誰か、助けて……!)


 必死に伸ばした指先は、空気に届くことなく水中を掻く。

 意識が遠のく中、アーシャの脳裏に浮かんだのは真っ直ぐな青い瞳だった。


──ターリク……。


 アーシャの意識が闇に沈みかけたそのとき──。


「王女様!!」


 鋭い声と共に、激しい水飛沫が上がった。

 冷たい水の中で、力なく漂っていたアーシャの細い手首を誰かが掴んだ。

 次の瞬間、沈もうとしていた体を力強い腕に包まれる。


 視界が水面を破り、夕暮れの光が紫水晶の瞳に差し込む。

 必死に咳き込みながら、アーシャはその体にしがみついた。


「……タ……リク……」

「王女様……!」


 ターリクは息を弾ませ、濡れた砂色の髪の間からは青い瞳が心配そうに見つめている。アーシャが震える体でその胸に縋り付くと、ターリクは彼女を抱き締めたまま岸へと上がった。


「ター、リク……お姉、さまが……」


 アーシャは、体を震わせて涙を零した。その姿を見つめる青い瞳は、激しく揺らいでいる。


「王女様……お許しください」


 ターリクは泣きじゃくるアーシャを落ち着かせるように、その震える体を抱き締めた。だが、苦しげに瞳を伏せると、すぐに体を離す。


「すぐに、湯を準備させます」


 池の水で冷え切ったアーシャの体を力強い腕で抱き上げると、ターリクは離宮へと向かう。

 彼の腕も、わずかに震えていた。

 その揺れる胸の内には、王女アーシャを守れなかった後悔と怒りが宿っていた。


* * *


 寝所に戻ったアーシャは、侍女たちの手によってすぐに湯で温められ着替えをさせられた。

 だが、再び倒れ、床に伏せることとなった。


 毒を盛られたことに続き、腹違いの姉の手によって溺死しかけた衝撃。

 幼い頃からひとり離宮に追いやられ、健気に耐えてきた孤独な心も体も、限界まで追い詰められてしまった。

 アーシャは、夢の中で何度も水に沈む悪夢を彷徨った。


 アーシャの熱を帯びた額に冷やした布を当てるターリクは、彼女の震える手を静かに包む。その瞳には、深い怒りと、彼女を守り抜く決意が宿っていた。


 だが、王宮でその話を耳にしたラーニアは、扇を扇ぎながら冷ややかに呟いた。


「早く、逝けば良いのに……」


 その唇には歪んだ微笑が浮かんでいた。鳶色の瞳の奥は、炎のように燃えていた。

次回、第十一話 「闇夜に光る刃」


王の無関心と冷酷な打算、そしてラーニアの狂気に揺さぶられる王宮。

嫉妬と恐怖に駆られたラーニアは、ついに刺客を放ち──狙われるのは離宮で眠る“白き花”。

闇に潜む刃と、守ろうと抗う青き瞳が交錯する夜、アーシャの運命は大きく動き出す──。

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