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第九話 執着心と無関心

 翌朝、王宮はまるで嵐に襲われたかのように騒然としていた。

 昨日離宮の庭で起きた第二王女アーシャの毒殺未遂の噂は瞬く間に広がり、誰もが口を覆いながら耳打ちを交わす。


「ザフラーンの白い花を……毒で枯らそうとしただなんて」

「けれど、陛下は……」


 そう、王女アーシャが口にするはずだった菓子と果実酒に毒が盛られていた。だが、シャフリヤール王は報告を受けても、玉座で眉をひそめただけだった。


「軽々しく騒ぐな。大事にするほどのことではない」


 それ以上の言葉はなかった。

 沈黙の背後に、王はすでに真実の影を感じていた。アーシャに嫉妬心を燃やす第一王女ラーニア──。

 だが王妃カミーラの娘を咎めることは、自らの寵愛を裏切り、愛する王妃の価値を下げることにも繋がる。

 結局、彼は見て見ぬふりを選んだ。


(……日陰の娘ならば、多少の災いも致し方あるまい……王族に陰謀は付き物だ……)


 それは父としての心ではなく、王の──そして、一人の男としての冷徹な打算だった。政略結婚で娶った望まぬ王妃から生まれた娘であるアーシャには、何の愛情もなかったのだ。

 彼の眼差しは、ひとえに愛する王妃カミーラと、その娘ラーニアにのみ注がれていた。


* * *


 離宮の寝所。

 アーシャは熱を出し、伏せっていた。青ざめた頬に布を当てる侍女の手は震えていた。


「王女様、お可哀想に……」


 それ以上の慰めを口にできる者はいなかった。


 扉の外にはターリクが立ち、静かに警戒を続けている。

 その廊下を、白い外套を翻して急ぎ足で進んでくる影があった。ファリードだ。

 美しい顔を不安気に歪ませ、いつもの優雅な佇まいは微塵も感じられない。


「アーシャ王女殿下に、お目通りを願います!」


 その声には焦りが滲み、侍女たちは顔を見合わせる。


「王女殿下は、ご静養中でございます……」

「お加減は大丈夫なのですか!? せめて、アーシャ王女殿下のお顔を見せていただきたいのです……!」


 ファリードが押し切ろうとしたその前に、青い瞳の衛兵が立ちはだかった。


「お引き取りを。王女様の御身が第一です」


 冷たく響いた、ターリクの低い声。

 琥珀色の瞳と青の瞳が火花を散らすようにぶつかる。


(この男は、よくアーシャ王女の傍にいる衛兵……何て目障りなんだ……)


「私は、アーシャ王女殿下の婚約者のファリード・アール・カリーム。どうか、せめてひと時だけで良い。殿下のお傍にいさせてください」


 ファリードの言葉に、ターリクは言葉を飲み込むように息を詰まらせた。だが、すぐに鋭さを帯びた眼差しで見つめ返す。


「……王女様は、眠っておいでです。日をお改めください」


 ターリクの冷ややかな青い瞳に、ファリードが睨み返す。


「少しだけで良いのです。ひと目、お顔を見るだけでも──」

「お引き取りを」


 言葉を淡々と返し、一切譲らない姿勢のターリクに、ファリードは瞳を伏せて歯噛みした。

 だが結局、ファリードは外套を翻し、背を向けるしかなかった。


(何故だ……何故、婚約者である私が、彼女に会うことができない……!)


 ファリードは怒りに震えた拳を握り締め、廊下の壁に映る自らの影を睨みつけた。

 薄闇の中でも、紫水晶の瞳と薄紅を帯びる淡い金色の髪が脳裏に焼き付いて離れない。


「アーシャ王女……」


 未遂に終わったとは聞くが、毒を盛られるなど、さぞや恐ろしい思いをしているはず……婚約者である私が、傍で支えるべきなのに──


 あの真珠のような額に口付け、柔らかな髪に触れることが許されるのは、婚約者である自分だけ──今すぐに華奢な肩を抱いて、慰めて差し上げたいのに……。


 ファリードの脳裏に、華奢な体を預けもたれ掛かるアーシャの姿が浮かぶ。


 ──あの可憐な王女に、甘えた声で名を呼ばれ、この胸を頼られたらどんな心地だろうか……。


 王女を案じる想いと同時に、渇きにも似た執着が、ファリードの胸の奥で燃え続けていた。


* * *


 その帰路。

 回廊の影から現れたのは、燃える緋色の髪を持つ第一王女ラーニアだった。


「ファリード様……」


 艶やかな笑みを浮かべ、豊満な身体に紅色の薄絹を纏い、しなやかな肢体を見せつけるように彼女はファリードへと歩み寄る。


「お父様から……婚約を解消なさると聞きました。本当に、それで良いのですか……?」


 ラーニアは潤んだ鳶色の瞳でファリードを見上げると、誘うような甘い声で擦り寄る。その魅惑的な体からは、甘美な香が漂っている。

 けれど、ファリードはわずかに微笑むだけだった。


「ラーニア王女殿下……あなたは“ザフラーンの紅い宝石”と謳われる美貌の姫君……あなたには、貴族風情の私よりも広い未来がおありでしょう」


 柔らかい言葉。だがその琥珀色の瞳も穏やかな声も冷めきっていた。


(昨日妹が毒殺されかけたというのに、この様子は何だ……)


 ──私との関係も、所詮は政略的なものだった。美しい男と見れば、兵であろうとすぐに擦り寄る女が、何故このように執着する……。

 

 ファリードには、ラーニアが一層不快に感じられた。


「そんな冷たいことをおっしゃるなんて、ファリード様……」


 ラーニアの瞳が滲み、その紅い唇は甘い声を紡ぐ。


「あの夜のように、また抱き締めてくださいませ……」


 瞳を潤ませたラーニアが、柔らかな体をファリードへと押し付ける。


「ラーニア王女殿下……」


(……いくら美しくとも、誰とでも簡単に肌を重ねるような女を妻に迎えるなど、虫唾が走る……王女を名乗ってはいても、所詮は妾の娘……心根まで清らかで美しいアーシャ王女とは、比べるまでもない)


 ラーニアの指が袖に触れようとした瞬間、彼は半歩退き、「それでは、失礼します」と微笑んで背を向ける。


「ファリード様……!」


(私には、アーシャ王女こそがふさわしい……)


 ファリードは、涙を滲ませて妖艶に迫ってきたラーニアには目もくれず、豪奢な刺繍が施された白い外套を翻した。


 優雅な足取りで去っていくその背を見送りながら、ラーニアの胸に焦げつくような怒りが広がる。


(……私を避けた? 拒んだの? この私を……!)


「許さない……この私を怒らせたこと、後悔させてあげるんだから……!」


 ラーニアは去るファリードの背中を睨みながら、憎いアーシャの姿を思い浮かべていた。


* * *


 その日の夜。

 カリーム家の屋敷の一角、煌びやかな広間には葡萄酒と香の匂いが漂っていた。集まった若き貴族の子弟たちは連日祝杯を掲げ、話題はもはや一つに尽きていた。


「あの宴以来、“ザフラーンの白い花”は清らかで美しいと評判だな」

「真珠のような肌に、朝焼けのような淡い金の髪……」

「まるで、砂漠に咲いた奇跡の花のようだ」


 婚約者へ向けられる賛美の声に、ファリードの胸は誇りで満たされる。


 ──自分こそが、その花を得た男なのだ。


 だが次の瞬間、別の笑いが混じった。


「だが、ファリード。お前は昔から“女泣かせ”だったろう」


 一人の発言に、友人たちの視線がファリードへと集まる。


「甘い顔で口説いては、どんな美姫相手でもすぐに飽きる……まさに罪な男だ」

「ザフラーンの白い花も、すぐにお前の手で手折られるんだろうな」

「殿下はあの華奢なお体だ……その顔で百戦錬磨のお前に抱かれれば、すぐに音を上げるだろう」


 下卑た冗談に、場がどっと笑いに包まれる。

 だがファリードの顔から笑みは消え、杯が卓に叩きつけられた。葡萄酒が飛び散り、赤黒い染みが白布を汚す。


「汚らわしい想像はやめろ!」


 琥珀の瞳が鋭く光り、若者たちは酔いを醒まして息を呑む。


「アーシャ王女殿下は……特別なお方だ」


 ファリードの声は低く震え、しかし一点の揺らぎもなかった。


「式を挙げるまでは、指一本触れるつもりはない……あの方は穢れなき花──私の手で護るべき“ザフラーンの白き花”だ」


 ファリードの放った言葉に、沈黙が部屋を包んだ。ざわめきも、笑いも消えていた。

 女泣かせと浮名を流したファリードの口から、そんな言葉が出るなど誰が想像しただろう。ファリードに遊ばれるためだけに擦り寄る女も多くいたが、本気になって縋り付く哀れな女に涙を零されても、微笑んで背を向けてきた男が──


「お前が……純潔を誓うだと……?」

「……信じられん……」


 友人たちの絶句を、ファリードは無言で受け止めた。


(そうだ……アーシャ王女は、他の女たちとは違う。触れることすら、躊躇われる清らかな花……)


 脳裏に、アーシャが真珠の頬を濡らして自分に縋りつく姿を思い浮かべる。そして、澄んだ紫水晶の瞳で見上げ、甘い声で「ファリード様……」と名を呼ぶ──


(あの方が私を求めるその日まで、いくらでも待とう……だが、いずれ必ず……この胸に永遠に閉じ込める……)


 燃える執着を隠そうともせず、ファリードは静かに杯を満たし直した。

 その横顔には、もはや浮名を流した影はなく、ただ一輪の花に狂おしいまでの想いを注ぐ男の姿だけがあった。


* * *


 そのころ。

 ラーニアはひとり、寝室の露台バルコニーに佇んでいた。

 砂漠から吹く冷たい夜風が、緋色の長い髪を揺らす。わずかに伏せられたその瞳は、暗く翳っていた。


(どうして……まだ生きているのよ……)


 毒は確かに盛らせた。なのに、まだアーシャは生きているという。倒れて寝所で寝ているらしいが、命に別状はないという話を聞いた……。


(ファリード様も、ターリクも……どうして、あの子ばかりを……)


 自分の誘いを冷たくあしらった二人の男の姿と、その男たちの関心と愛情を一身に受けるアーシャの姿が脳裏に浮かぶ。


 その瞬間、ラーニアの中でかろうじて保たれていた何かが音を立てて崩れた。

 もはや、“王女”の誇りなど、どうでも良い。ラーニアの心を支配するのは──何をしてでもアーシャの命を奪う……それが全てだった。


(最初は……自分の手を汚すつもりはなかった。でも……もう、どうでもいいわ……)


 扇を握るラーニアの手に、ぎり、と音が走る。

 鳶色の瞳には、嫉妬と憎悪の炎が燃え盛っていた。


「……アーシャさえ、いなければ……」


 その低い囁きは、夜風に溶けて消えた。

 夜の回廊は冷たく、乾いた風に散る砂の音だけが響いていた。

次回、第十話「燃え上がる憎悪」


ラーニアの胸に残るのは、裏切られた誇りと燃え上がる嫉妬。

アーシャへ愛を誓うファリードの姿は、彼女の心を深い憎悪で染め上げていく。

忍び寄る紅い影──そして、再び迫る命の危機。それは「白い花」の運命を大きく揺るがす一手となる。

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