第八話 失われた命
晴れた日の昼下がり、少しずつ落ちてきた陽が白壁をやわらかく照らし、離宮の庭に涼しい影を落としていた。
噴水の水音は涼やかに響き、庭を渡る風が甘い花の香りを運んでくる。池の畔の椅子で休んでいたアーシャの翡翠色のヴェールが、風に揺れてふわりと靡いた。
今日は珍しく、侍女が甘い蜜菓子と果実水を運んできた。薄い銀盆に小さな銀杯、ざくろの種を飾った蜜菓子が二つ乗せられている。
侍女は、アーシャの傍のテーブルに盆を置くと、深く頭を下げて足早に下がっていった。
「……ありがとう」
(新しく入った侍女かしら……)
アーシャは椅子に腰をおろし、ひと息つく。
指先に触れた銀杯は、ひやりと冷たい。丁度喉が乾いていたアーシャが銀杯に口を近づけると、立ち上る甘い香りがふわりと鼻先を掠めた。
──甘くて、良い香り……何の果実かしら……。
そのときだった。庭の木から舞い降りた白い小鳥が、盆の脇にとまり、つい、と蜜菓子の欠片を啄んだ。
庭先でよく見かける、愛らしい小鳥だった。
「美味しい?」
微笑んだアーシャが問いかけるのと同時に、小さな白い喉が波打ち、小鳥の身体がぐらりと揺れた。苦しげに一声鳴くと、薄い翼が一度、あがくように宙を掻く。
「……え?」
アーシャが声を漏らした瞬間、羽音もさせず、その小さな体は石畳にぽとりと落ちた。
乾いた小さな音が、響いた。アーシャは瞬きを忘れ、身を乗り出す。
石畳の上で小鳥は痙攣し、やがて、動かなくなった。小さな黒い瞳の光が、音もなく消えていく。
「あ……」
あまりの光景に、アーシャの視界が滲んだ。手にしていた銀杯が、震える。
「王女様──!」
焦りを帯びた低い声が、鋭く割り込む。青い影がアーシャの視界の端から飛び込んできた。
次の瞬間、アーシャの指先から銀杯が弾かれ、弧を描いて宙を飛ぶ。銀の縁が光り、ぽちゃん、と軽い水音を立てて池へと沈んだ。
波紋がいくつも重なり、広がる。
群れて泳いでいた小さな魚たちが、ばらばらに散った。何匹かが水面近くへ浮きあがり、ひと息に白い腹を返す。続いて、他の魚たちも全て池に浮かんだ。水面に、白い光がいくつも反射して揺れている。
「……な、にが……」
喉から絞り出した声は震えていた。アーシャは石畳に縫いとめられたように動けない。掌の中には、さっきまでの銀杯の冷たさが残っている。
ターリクは池の縁へ踏み出し、屈み込む。水を掬って匂いを嗅ぎ、指先で軽く払い、近くにある噴水の水を掬って丹念に洗い落とす。
魚たちが浮かぶ池の水は無色、ほとんど無臭だった。銀杯と銀盆の色も変わっていない。それでも、彼の瞳の奥で何かが鋭く結ばれた。
「誰か! 離宮の出入り口を閉めろ! 早く侍女を呼べ! 医官もだ!」
ターリクの大声に、門の方で控えていた衛兵が駆け出す。ターリクは盆の上に布をかぶせ、触れたものすべてに近づく手を制した。
「王女様、下がってください。風下は避けて」
彼の声はいつも通り落ち着いているのに、確かな焦りが感じられた。アーシャは言われるまま、数歩下がる。
視線の先では、白い小鳥が倒れている。光を失った黒い瞳は、開かれたまま……。
指先が、冷える。アーシャの胸の奥で、何かがひび割れる音がした。
「小鳥が、死んでしまったわ……魚たちも……」
「……王女様を、守ったのです」
ターリクは短く言い、倒れた小鳥にそっと布をかけた。視線は一度も揺れず、池の水面、杯が沈んだあたりと、盆に残る菓子とを順に追う。
すぐに蒼ざめた顔の侍女が駆けつけ、アーシャの足元に跪くと、震える手と頭を地につけた。
「王女様、ご無事で──」
「この盆を運んだのは誰だ」
威圧的なターリクの声に、侍女の肩が跳ねる。
「……わ、私ではございません。いつもの者が……今日は人手が足りず、厨房から“王妃様付き”の侍女が差配したと聞きました……」
そのとき、どこからか、ほんのかすかな香の匂いが、アーシャの鼻をすっとかすめた。甘いのに刺激的な、慣れない香り。
──この香りは……。
炎のように燃える瞳を思い出し、アーシャは翡翠色の袖で顔を覆うと、静かに首を振る。涙が頬を伝って落ちた。
(そんなはずはない……きっと、気のせいに決まってる……)
「王女様、こちらへ」
ターリクは池から離れた日陰へと彼女を導いた。アーシャは、震える足取りでゆっくりと歩を進める。
背に添えられた手は決して強くないのに、確かな力強さがあった。その掌の下で、アーシャの華奢な体が小刻みに震えている。
「小鳥が……魚たちも……私のせいで……」
「王女様のせいではありません」
ターリクははっきりと、アーシャの震えを断ち切るように言った。
涙を零すアーシャを見つめるその青い瞳の奥では、別の炎が静かに燃え上がる。何かを見ている目だ。昨日でも明日でもない、もっと長い時間のどこかで見た“色”。
──嫉妬の色。燃える炎の色。
脳裏に、甘い香を纏う扇のきらめきが一瞬、閃いた。言葉にならない影が、彼の脳裏で形を取っては消える。
その名を口にしない代わりに、拳が音もなく固く握られた。
* * *
王宮から医官が駆けつけ、増員された衛兵が二重三重に庭の周囲を固める。
噴水の水は急いで汲み出され、杯は網で引き上げられた。銀杯は指が触れたところだけがかすかに曇っている。菓子も布も、全て布袋に封じられた。
「王女様のお体に変わりは……今のところはございませんな。ご安心を……ただ、何者かが毒を──」
医官の言葉は途中で途切れた。ターリクの視線が、静かに彼を制したからだ。
「王女様は部屋でお休みになられる。出入りは私が許した者のみ。厨房は封鎖、さきほどの“王妃様付き”の侍女とやらはすぐに探せ」
ターリクが冷たい声で短く指示を飛ばすたび、離宮の空気が冷えていく。誰かが唾をのみ込む音が、やけに大きく聞こえた。
アーシャは立ち上がり、布をかけられた小鳥のそばに膝をつく。指先でそっと、その上を撫でた。布の向こう側にある、軽すぎる小さな重み。
「……ごめんね……」
零れた涙が石畳を濡らし、小さな声は風にほどけて消えた。それでも、彼女は静かに頭を垂れた。魚の泳いでいた美しい水面はなくなり、池の底にはわずかな水だけが残されている。
ターリクが、アーシャのそばにそっと跪いた。ふたつの影が重なる。
青い瞳は、彼女の頬を伝う涙を見つめる。指先は伸びない。代わりに、言葉が落ちる。
「……私が必ず、王女様をお守りします」
決意が込められた彼の声は低く、砂の下の冷たい水のように確かだった。
* * *
その日の夕刻。騒ぎは一見収まった。けれど、沈黙は騒音より重い。誰もが目配せし、誰も何も言わなかった。
「王女様は、今夜はお食事を召し上がらず、白湯だけに。私が確かめます」
ターリクは侍女たちにそう告げ、扉の前に自ら立った。足音ひとつひとつに耳を澄ます。
後方の王女の部屋の窓の外の気配、かすかな衣擦れの音、廊下の灯火が揺れる気配。わずかな香の変化。
──王女を狙う影は、近い。わざわざ探しに行くまでもない。
ターリクの脳裏に浮かぶのは、炎のように燃える瞳。笑みの奥で研がれる紅い爪先。扇を強く握る軋み。そんな断片だけが、彼の記憶の周囲を巡る。
──名は呼ばない……口にすれば、刃に変わるだろう。そうなれば、王女様を守る者が、いなくなる……。
離宮の門が小さく軋み、増員された衛兵が交代していく。
夜が深くなり、砂漠の空は、星をひとつずつ灯していく。
アーシャは薄暗い部屋の中で、絹の布団の上に座していた。掌を重ね、瞼を閉じる。胸に宿るのは、昼間に失われた小さな命への悼みと、説明のつかない寂しさだ。
(私が……ここにいるから……)
私の存在が、邪魔になるのなら。誰かの怒りを招くのなら……。そう思いかけて、アーシャは小さく首を振った。そうではない、と内側の声が告げる。あの青い瞳が、はっきりと否定してくれた。
(私のせいじゃ、ない……)
けれど、涙はまだ乾かない。両の手の間に、ひんやりとした空白が残っていた。
* * *
震えていた華奢な肩と涙を零す紫水晶の瞳を思い出して、ターリクはゆっくりと回廊から天を見上げた。青い瞳の底で、冷たい星がひとつ、瞬いた。
庭の池の水は、明日には綺麗に満たされるだろう。王女を守り命を落とした哀れな小鳥は土に還る。そのすべてを、何事もなかったかのような顔で覆い隠すのが、この王宮だ。
だが、彼には分かっていた。いちど落とされた毒は、水の中だけに留まらない。目に見えぬ流れになって、静かに、確かに、宮殿中に広がっていくのだ。
「王女様……」
青い瞳は、ただひとりを案じていた。
掠れたように呟かれたその声は、冷たい夜風に溶けていった。
* * *
「……交代は不要だ。私がいる」
王女の寝所を守る見張りの交代に来た衛兵に小さく告げると、ターリクは視線を落とす。
背後の扉の中からは、眠れぬ気配がかすかに感じられた。
彼は再び視線を床へ落とし、拳をほどく。掌の中にはまだ、昼間に弾いた杯の冷たさと、震えるか細い背中の感触が残っている。
砂漠の夜が深まり、星の光がさらに強くなる。遠く、狼のような鳴き声が一度だけ響いた。
そして、離宮に向けて、目に見えない刃が一枚、新たにそっと置かれた。その刃は、王宮の影の中で蠢いていた。
次回、第九話「執着心と無関心」
第二王女毒殺未遂の騒ぎに沸く王宮。
寝所に伏すアーシャの傍を固く守る青い瞳と、扉の外で焦燥を募らせる琥珀の瞳──。
愛と執着が交錯する中、“ザフラーンの白い花”を巡る渦は、王宮を飲み込もうとしていた──。




