9.取るに足らない存在意義
「モモノギ?…なんだそれは」
翌日、やはり福はお婆の言いつけなど守るつもりもなく、目を盗んでは狛に跨り山に入っていた。
大豆を配り終えたらしい伊呂波が下の小川で空の樽を洗って持ち帰ってくるところに遭遇して、こういうところは細かいのだなぁとしみじみ考える。
「不浄を祓う儀式なんだって。去年まではお婆がやってたんだけど、今年からは私がやれって言ってた」
ただ座っているだけでいい節分の日は社に据え置かれ続けていたけれど、神聖な儀式となればまだ経験はしたことがなかった。それは経験不足ももちろんだが、その資格は大人になってから与えられるとささやかれ続けていたのだ。
──初潮が来たならお前も立派な女子よ。独り立ちの時期じゃ
お婆の言葉が脳裏を掠めるが、それだけはいくら相手が伊呂波だろうと言葉にするのは憚られた。
思わず下腹に手を当てる。大人になど、なりたくはない。儀式云々よりも、体の成長がひたすらに恐怖だった。
「だから…急に数日来られない日とか、あるかもしれない」
感情を隠すように口を尖らせて言った言葉は、自分が思うよりずっと低く子供っぽいものだった。
儀式の前にはその準備に走り回る村人の姿を見てきているので、おそらくは今まで以上に抜け出しにくくなるだろう。ましてや中央に据えられる姫巫女ともなれば、覚えることも多岐にわたるだろうし、衣装も新調するなどと言っていたように思う。そうなればあの面倒な採寸や仮縫いなど、自分抜きでは成せないものも無視はできまい。
「ふん、しばらく静かになるな」
そんな福の気持ちなど梅雨知らずか、伊呂波は嬉しそうに笑いながら軽口を叩く。彼の言葉にムッと眉根を寄せて、福がそっぽを向いた。
「そうでしょうねー…いつもお騒がせして申し訳ございませんー」
悪態をつきながら投げた視線の先では、狛がふんふんと土を嗅ぎながら岩の傍を歩いている。
ふと、見慣れたはずの岩のある景色に、何か違和感のようなものを感じて首を傾げた。
時々酒をかけるからか少し苔の生えた岩の周りは草が生えていて、もう少し暖かくなれば小さな花を無数に咲かせるはずだ。傍には紅葉の樹が見下ろすように生えていて、木々の開けた向こう側は山の景色が眼下に広がる崖になっている。どの季節に見ても見事な、絶景だと思う。
何も、変わっているようには見えないのに。
「今年はまだ夜明けの寒さも長引いてる…儀式が終わるころにはもう少し暖かくもなっているだろうし、丁度いいだろ」
ハッと我に返れば、樽を洞窟の中に仕舞い込んだ伊呂波が両手を叩きながら出てきているところだった。
洞窟の奥には同じような樽がさらに三つ並んでいて、その中には秋のうちに収穫して乾燥させた木の実や肉、小川から汲んできた水がそれぞれ収納されている。それが誰のためなのか、福はあえて聞いたことはない。
『奥の物は狛と好きに食え』などとぶっきらぼうに言われて覗き込んだ時に、とっくに理解しているのだ。押しつけがましくもない、さりげないその行いが、福は何にも代えがたい温もりに思えた。
村からこっそり持ち出した食器や器具も勝手に置いて帰っていたりするので、正直村にいる時よりも過ごしやすい空間なのも事実だ。
私が来る前の大豆の空いた樽はどうしていたんだろうか、聞きたいような、けれど聞けば今はわざわざ自分たちの為に取り置いていると認めるようで嫌がるだろうか。
彼の面倒見の良さは、今まで通り向けられていたいと思っているから、やめておこう。
「たまには婆とやらの言いつけも聞いてやれ」
「寂しくない?」
「阿呆か」
「…ちぇー」
不満気に瞼を半分閉じて、ため息をつく。
山に入るようになって数年、確かに自由にしすぎていたかもしれない。昨夜のお婆の後姿を思い出して、あんなに小さい背中だっただろうかと少し寂しい気持ちにさえなるので、村の儀式だけはしっかりやってみるかと反省をするのだった。
ふと、狛の姿を探す。先ほどの場所からそう遠くない日当たりのいい場所に体を倒して、ぬくぬくと目を閉じていた。
先ほどの違和感は何だったのだろうか。今はもう感じ取れないそれに、福は首を傾げた。
「しかしまぁ、不浄を祓う、ね…」
人間とは大層なことを考えるものだ。
伊呂波がやや馬鹿にするように笑うが、福はそれを否定する気にはなれない。
彼がやってくる冬と春の節目のあの日を除けば、村では一年に五回の浄化の儀式が行われる。そのどれもが体を清め、祈りの言葉と村の実りをお供えするのが基本である。見たこともない、神という存在に。
「お前の血族は何か格別の力でもあるのか?」
「そんなものないよ」
儀式もお婆の一声で仕来りを簡単に変えてしまうような、福から言わせれば結構いい加減なものだ。
儀式の前後に何か変化が訪れるかと言われれば、当たり前だが何もない。ただそのうちに吉兆があれば「儀式のおかげ」、凶兆があれば「信心が足りない」と感情のやり処にされるだけの自己満足に過ぎない。
結局巫女の一族とは、小さな数十人規模の村の、ただの象徴だというだけだ。
「…まぁ、不思議なのは、この眼かなぁ」
福が右手の指を、瞳に触れるか触れないかの位置まで持ち上げる。柘榴石のそれは、人間にしては珍しいほどに赤く輝いていた。
「お婆も、お母さまも、赤い目だったんだって」
そう言われて、伊呂波はふと初めて麓の村に訪れた日の事を思い出す。
あの日、老婆の方はもう碌に見えないのか瞼を閉じたまま立っていたが、それを支えるようにしていた妙齢の女は、確かに福によく似た赤い瞳だった。
そうか、あれが福の母親か。
「お婆からお母さまに受け継がれて、今は私だけが赤い瞳なの。赤目の子を産むと、瞳の色は他の人たちと同じような濃い茶色になるんだって」
だから特別で、だから力があり、だから敬われるべきである、というのがお婆の口癖だった。おかげで幼いころから村で一等暖かい家屋を与えられ、誰よりも厳しく育てられてきた。
「この瞳以外に何かを変えたり聞こえたりする力なんてないのにね」
神の依り代となり、神の声を聞き、村人に告げる。姫巫女とはそんな神の代理人なのだから、誰よりも気高くあり、穢れなどあってはならない。故に山に入るな、鬼に関わるな。
繰り返される言葉で耳にたこができるなら、きっと福の耳はすっかり膨れ上がって塞がれて聞こえなくなっている。
「どうせなら、透明になる能力とかあればよかったのになぁ」
ぽつりと巫山戯たつもりの言葉を想像してみれば、誰にも気づかれずに村を抜け出し、誰にも気づかれずに部屋に戻ってしたり顔をしている自分を思い描けて、口角が上がった。
お婆がこっそり隠しているかりんとうを盗んだり、大人たちが美味い美味いと繰り返す酒も舐めてみることもできるではないか。
「大したことに使わねぇだろ、お前は」
「…そ!!」
楽しくなった想像を盗み見られたのかと反射的に振り返るが、伊呂波は至極呆れたように笑いながら狗の腹を撫でていた。気持ちよさそうに仰向けになって息を吐く狛は、ぱたぱたと尻尾を忙しなく振っている。
「…んなこと、…ないよ」
尻すぼみになる言葉が、あっという間に風に揺れる葉擦れの音で搔き消されていく。
あまりに穏やかなこの日々が心地よくて、飛び出してきた毎日だ。村に閉じ込められてしまう自分を想像できない。
──体から餅が出る力でもいいかなぁ
そうすれば伊呂波は私に逆らえまい。
明日からの自分の生活に気分が萎えて、現実逃避するしかできない福だった。
そうして本当にその翌日から、彼女は伊呂波の前に姿を現さなくなった。