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8.凍える部屋

「──福」


 窓の外は降り始めたばかりの雪をはらはらと泳がせて、すっかり暮れた夜の空を星の代わりに色づけている。

 (こま)に引っ付いて暖を取りながら、福はそのしわがれた声に振り向くこともなくジッと覆う雲を見上げていた。


「お前はいつになったら山に入るのをやめるのだ」


 福の寝床である布団の中に、運んで来たばかりの湯の入った金属の容器を差し入れながら、お(ばば)が眉根を寄せてため息をついた。

 もう目もほとんど見えず色の判別がやっとだという割に、こういう世話焼きを欠かさないのは、耳障りな小言をわざわざ言うための口実のように思えて仕方ない。


「鬼に関わってはならん。穢れてしまう…お前はこの村の姫巫女ぞ」

「…うん」


 そうだね。そう続けても、お婆が満足することはない。この数年、同じ返事をしてその次には山へ駆けていくのだから、信用はあるはずもないのだが。


「本当にわかっているのか…お前のその血を絶やすわけにはいかんのだ。母のようにはなりたくなかろう」

「お婆」


 そこで初めて振り返って、福はその柘榴石(ざくろいし)をまっすぐにお婆に向けた。

 それ以上言うことを許さないように見つめ続けるが、すでに視力の衰えたお婆には何の意味もないようだった。


「あの子の言うことなど鵜吞みにしてくれるな。…気の触れた者の戯言だ」


 ──お前の目で見たことを信じなさい


 時々見せる母の笑顔は、春よりもあたたかな陽射しだった。小さな、何も知らない少女は、少ない母との触れ合いの中で得た言葉を、それはそれは宝物のように大切にしてきたというのに。

 無情にも戯言と吐き捨てるお婆に、返す言葉など出てくるはずもない。再び視線を窓の外に戻した福の気配を感じて、お婆は諦めたように話題を変えた。


「来月は桃の儀もある。お前は初めてだろう…しっかりしておくれ」


 長いため息をついてから、お婆は近くのろうそくを吹き消した。部屋が窓の外と同じ色に染まって、寒さがツンと足先を覆った気がした。


「おやすみ」


 杖で体を支えながら立ち上がり、廊下の灯りを頼りによたよたと進んでいくお婆。振り返ることなく就寝前のお決まりの声をかければ、お婆は小さく同じ言葉を返してから音もなく襖を閉めた。

 あっと言う間に包まれる静けさは耳が痛いほどで、福は狛の首元に抱き着いてその長い毛並みに顔を埋めた。どうしたと言わんばかりにキュウと鳴く狛に応えるように、福が少しだけ顔をずらして柘榴石を見せるが、その赤は悲しく伏せられて、何かを思い出すように再び閉じられた。


「お婆も皆も、知らないくせに」


 ──また今年も鬼が来る、なんと煩わしいことだ

 ──あの気味の悪い角を見たか、体のあちこちに生えておる

 ──せっかく育てた大豆を…欲の肥えた事よ


「何も知らないくせに」


 誰が彼の怒りに触れたのか、もう何も知らない幼い少女ではない。

 何本角が生えていても、彼がこちらに危害を加えたことは一度もなかった。

 大豆は大切なあの岩の主の好物だったのだろう、供えた後はほとんど口にせずに残さず山の動物たちに分けている。


 いったい彼のどこが伝え聞いた「鬼」なのだ。

 この村の誰よりも、山の植物や生き物に詳しく、それらを愛している。

 桃色の花を見上げて「見事だ」と笑い、蝉の鳴き声に眉根を寄せ、木々に成る実りを私や狛に分け与え、白い息を吹いて身震いする。


 いったい彼の何が我々と違うのだ。

 どうして隣にいるだけで穢れてしまうというのだ。




『…喉に詰めるなよ』


 初めて餅を一緒に食べた日、彼が何の気なしに放った言葉。

 昨日まで拒絶されていたと思ったのに、その日は打って変わって柔和な様子で、不思議だなどと幼心に感じていた矢先の、まるで親のような言葉に耳を疑った。この村の誰が、自分にそんな言葉をかけてくれたことがあっただろうか。かつての母以外、血のつながったお婆でさえ聞いたことがない。

 物心つかない頃から立派な姫巫女としてあらねばならなかった、甘えなど許されなかった。泣けば叱られ、食事で粗相すれば手を叩かれた。

 そんな自分に、初めて気を遣うような言葉をかけてくれたのは、他でもない「鬼」と呼ばれる彼だった。山の中の動物にでも言ったかのような、ぽろりとついて出たのであろう言葉に、どれだけ救われたか誰も知らない。泣きそうになって、その言葉を噛み締めて、ぐっと堪えたことをお婆は知らない。


「あなた以外、誰も知らないんだよ、…狛」


 私が山に通うのは、ただ彼の言葉が聞きたいから。この村では得られない安息が、確かにそこにあるから。

 肯定するように尻尾をぱたりと福に寄せて、抱きしめるように頭を擦り付ける狛だけが、まだ幼い福の理解者だった。


 夜の寒さが隙間から入り込んでくる。

 ようやく狛から体を離した福は、専用の大きな布団を狛にかけてから自分の布団に足を入れた。


「暖かい…」


 先ほど入れてくれていた湯たんぽがまだ熱を帯びている。小言ついでとはいえわざわざ布団に暖を入れに来てくれたというのに、ずいぶん酷い態度をとってしまった。

 幼いころの素直さはどこへ行ったのだろう。今はまるですべての物に反発したい気分になるのだから、嫌になる。今すぐ部屋を出て「ありがとう」と言えればいいのに。じんと冷え切った足先に走る湯たんぽの熱は、きっといつもは厳しいお婆の優しさなのだ。


 だけど、それでも。

 山の中のあの洞窟の、焚火を恋しく思ってしまう。

 自分たちで集めた以上の枯れ木がいつの間にか増えていること、知らぬ間になかったはずの藁が敷かれていたこと、少し見ぬ間に供えた最後の餅が消えていたこと。

 思い出せばそれだけで、胸に灯りが灯ったような気持ちになって、ゆるい眠気に微睡んでいく。


 そっけない顔をしているつもりだろうに、頬張るその餅が美味いと言っているように見える。

 あの日当たりのいい場所にある岩が、伊呂波の執着する唯一の物だと思っていたけれど、もしかしたら。自分が持っていく餅もその一つとなれただろうか。それならば次は何を持って行こう?

 彼の気に入るものが一つでも増えるだろうか。


「狛、…明日…も」


 続く寝息に閉じた瞼を開けることもなく、狛は一度だけ尻尾をぱたりとさせて答えたのだった。


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