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6.異形の異端者

 それから果たして幾年だったか。6年は経っただろうか。毎年同じ日に村を訪れ、決まり事のように豆の入った樽を担いで戻る。

 気づけば体の成長は止まり、彼らを見下ろすほどの体躯に人の畏怖の念は膨れるばかりだった。

 あの一度だけだ、人を害したと言えるとすれば、あの日彼らの武器と一人の頭を砕こうとした。

 あの日だけ。消えた命は、青いあの者の灯だけ。釣り合いなど取れないではないか。

 一人ぐらいならと頭を掴んだあの瞬間、青いのの最後の顔が浮かんでしまった。


──笑っていた。


 肌がざわつく感覚に、赤い鬼は肩を丸めた。

「なんだというんだ」

 忘れたいものなのだと、何に対してか切実に訴えても、記憶は容赦なく噴き出す泉のように膨れていく。縋るように岩に背を預け、荒くなる息に掴んでいた胸の皺をさらに深くする。

「何故笑うのだ…あの童も…お前も」


 今になっても何故彼があの時笑えたのか、赤い鬼はわからない。

 考えたくもなかった、考えないようにしていた。知らぬからと言われたが、知りたくはなかった。


『無知は罪ではない』


 それでもまるで警鐘のように、鮮明にあの声が脳内に響く。


『知ろうとしないことが罪だと俺は思う』


「…知りたくないのだ」

 あの日、お前を失った衝撃を、忘れられずにいる。それまで当たり前に隣にあったものが、まるで最初から存在しなかったように匂いすら残さずに消え去ってしまう。


『無知を恥じろ』


 そう言い放ったのは、青い鬼の何一つも知ることなく奪った、あの人間たちが憎かったからだけではない。

 弱い素振りで暴力を振りかざすだけのお前たちよりも、幾分もましであると思いたかった。

 そんな人間のことを知るなど、とてもじゃないが受け入れたくはなかった。

 そうしてただ毎年供養の様に豆を奪うだけで、満たされたつもりになっていた。


 人間を知れと言う、青い鬼の最後の言葉から逃げたのだ。



 ジワリと目頭が熱くなり、喉の奥が焼けるように痛んだ。まるであの日に戻ってしまったようで嫌になる。

 幼いあの日、力なく死にゆく友の声を聞くしかできなかった、弱さで満たされた両手。掴まれていた左手首を反対の手で掴めば、小さく震えるそれが、あの日から何の進歩もしていないのだと思い知らせた。


「あの日お前は笑ったろう」

 背中越しに見慣れた岩にかけた、弱弱しく震える己の声に驚く暇もない。

 まるで満たされたと言わんばかりに、死すら迎え入れて逝ってしまった。その理由を、笑顔の意味を、知ってしまったら、もしかして。


「人を…許さねばならない気がするんだ…っ」


 人は好かない。大嫌いだ。山を削り、花を手折り、大切な物を奪っていく。あまりに大事だったと思い知らせて、簡単に奪っていく。


 なのにお前は、面白いと言う。

 知ってみろと言う。


 予感をさせるんだ。



『わたちのめで、みうの』



 真っ直ぐに射抜く柘榴石(ざくろいし)の瞳。

 アレが、己の内側をくすぐる者だ。小さな、本当に小さな子供なのに、他の人間とは何かが違うと、暴力的に理解させる者だ。青い鬼が追いかけた、興味と笑顔の理由だ。そう直感してしまう。


『受け継ぐのだ』


 ぼろぼろと零れる涙を、止めることができない。

 何度も、何度も考えることをやめた。

 何度も、知る必要はないと己を説得した。


 ただ逃げているだけだと、本当は知っていたのに。


「お前は異端者だ…」


 そもそも相容れない存在同士、故に人は鬼を嫌い、鬼は人に近づかなかった。それが当たり前になる長い年月、きっと変わらぬ関係だったろうに。人に興味を持った鬼は、もしかしたら青いあの鬼が初めてなのではないのか。

 いつからとも知らないこの山の鬼の 脈々と繋いだ信念を、もしかしたら断ち切ってしまうかもしれない。信念などと立派なものがあったとも思わないが、今でもどこか、このまま人に関わらず獣や自然に明け暮れる日々で良いようにも思う。


 それでも、何でもない岩があの日特別なものになったのは、生れ落ちた小さな赤い鬼を拾い上げた、空色の髪があったから。


『なんだ、お前は花生まれか。洒落おって!』


 あの笑顔に始まり、あの笑顔で終えたお前を。

 やはり大切に思うから。


「だから…俺も異端になろう」


 今は、人間をより憎む結果になることだけを祈りながらでも。

 胸に痛みを抱え続けるのが生きるということなら、もう逃げ出すようなことはしないから。


 赤い鬼は鋭い牙をむき出しにして咆哮を上げた。

 あの日の怒り任せのそれとは違う決意を示す声に、森が応えるように木霊した。







「おなまえは?」


 差し出された餅は昨日の物とはずいぶん様子が違うようだ。でろんとやる気ない形状で、いくつかに切られて懐紙の上に横たわっている。


「名などない。…鬼は鬼だ」


 怪訝な顔のままそれを摘まみ上げれば、懐紙に未練がありそうにべたりとくっつきながらも、まぶされたきな粉を纏ったまま持ち上がる。少女はそれを見守りながら、ふうんと小さく頷いた。


「わたちは、(ふく)。このこは、(こま)

白い狗を撫でれば、狛は嬉しそうに鳴いた。


 名を知りたかったわけでもない赤い鬼は、摘まみ上げた餅をひとしきり睨んでから、意を決したように口に放り込んだ。

 外側の皮のような部分がぱりぱりと弾けて、中身のまだ少し温かく柔らかい部分が口内でもちもちと伸びては縮む。先日食べた豆と似た香りに、きびの粉が混ざり合って丁度いい甘さになっていた。


「…おいち?」


 興味深そうに、光る瞳をこちらに向ける福。

 一通り嚙む動作を繰り返した後に飲み込んで、ふむと口元についたきな粉を指で拭った。


「なかなかだな」


 甘すぎず淡白過ぎない。食物など嗜好品程度の存在ではあるが、これならまた食べてみるのも悪くない。正直にそう答えれば、福は小さな両手を空に向けてうれしそうに笑った。


「でしょ!でしょ!おいちの!」


 彼女が嬉しそうにすれば、狛も尻尾をパタパタと振る。

 人間と言葉を交わしているという事実にいまだに不思議な感覚が抜けないが、嫌な感覚でないことは、認めたくない感情の向こう側で理解していた。


「もう一つ寄こせ」

「いっしょ!いっしょに たべうの!」


 懐紙に手を伸ばせば、福はまるで餅を思わせるような形に頬を膨らませて、懐紙を遠ざけた。


「いっしょが、もっとおいちの」


 笑う彼女の細めた目が、青い髪を思い出させる。そう言えば、誰かの笑顔を見るのはもしかして、青い鬼以来この子供が初めてではないだろうか。

 だから思い出すのだろうか。

 失ったはずのあの日々を。


「ならさっさとお前も食え。…喉に詰めるなよ」


 もう一つの餅を摘まみ上げながら、先日大豆を喉に詰めた欲張りな猿を助けたなと思い出したついでのほんの忠告のつもりだった言葉に、ぴくりと福が反応した。目を丸く開いてこちらを見上げてくるので、何か不味いことでも言っただろうかと狼狽える。


「…親切じゃ無いぞ。此処で死なれても困るだけだ」


 誰に対してなのかわからない言い訳を並べて、餅を口に放り込む。もちもちと口の中で咀嚼しながらちらりと静かになった福を盗み見れば、小さくうなずきながら「うん…うん」と噛みしめる様に笑っていた。片眉を上げて首を傾げるが、それに応えることもなく餅を食べ始めた福の頬がぷっくりと膨れてうごめくので、赤い鬼は思わず吹き出してしまった。


「どちらが餅かわからんな」


 一度溢れた笑いがなかなか止まらずに、クツクツと笑う鬼を不思議そうに見上げる福の頬は相変わらず膨れていて、そのまま狛と見つめあっては同じ方向に首を傾げることになるのだった。

 狛には山で収穫した木の実や鹿肉を与えつつ、餅をのんびりと食べ進めながら、不意に福が赤い鬼を見上げた。


「あなたのことは、なんてよぶの?」

「…あ?好きに呼べばいい」


「でもおにさんは、やだなぁ」


 小さく唸りながら、右へ左へと頭を揺らす。一体何に不満があるのかわからない鬼は、手元の最後の餅を断りもなく口に放り込んだ。


「…いろはって、よんでもいい?」

「いろは?」


「うん、まっかになったイロハモミジみたいできれいだから!」


 赤い髪が小さく風に揺れる。

 この色を綺麗だなどと言った者が、果たしていただろうか。…いるわけがない、人間がこの姿を見て逃げ出すまで、髪の色を評している時間があるわけがないのだから。


「いい?」


 つくづく、この少女も異端だと思う。


「好きに呼べと言ったろ」


 喜んだのも束の間、手元の餅が全て無くなっていることに気づいて憤慨し始める少女は知らないだろう。

 一等大切に思うこの岩の隣に、見事な伊呂波紅葉が何本も覆う様に生えていることを。毎年見事に色づいて、秋の訪れを静かに眠る友人に告げては降り注いで、彩を添えていることを。


 その名を、少しだけ嬉しく思ったことを。


「ほら、さっさと帰れ。婆とやらに怒られるぞ」

「だいじょぶ、まいにちおこられてる」


 どこかぎこちなく、それでもゆっくり分かち合う二人の声が、風に乗って山を泳ぐ。

 明日もまた、どちらともなくこの場所に顔を出すのだろう。


 春はまだ、訪れたばかりだ。


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