5.一樽の約束
たとえ誰かの命が潰えても、日々は変わらず巡るように、夜はゆっくり深い青へと塗り替わり、星を隠し始める。
空が白んだ頃。顔を出し始めた朝陽が、ゆっくり開いた赤い鬼の黄玉の瞳を鋭く照らした。それに弾かれる様に、彼は振り返り走り出した。
人の目には止まらない速さで、整えられていない山道を弾むように降りていく。山の入り口を囲んでいた松明は綺麗に無くなっていて、麓の村は朝陽を静かに迎えていた。
その村の囲いの一部を、加速度そのままに殴りつければ、木で作られたそれらが派手な音を立てて弾け、壊れ、砂煙を上げた。何事だ!と飛び出した村人が、大きな穴の開いた囲いに身じろいでいる。弱い風が砂煙を奪い去ったころ、そこにたたずむ赤い少年鬼が睨み上げていることに気づいた。
『鬼だぁ!!』
悲鳴と怒号とを織り交ぜて、寝床であろう小屋からわらわらと湧き出してくる人間たちの手には、長物が握られている。それらの武器を己に向けた片端から蹴り上げ、殴り、奪って地面に叩きつけた。熱風がすり抜けるような錯覚が人間達の脳裏を埋めるころ、瞬きもできないまま丸腰になっていることに気づいて、怒りに瞳孔を開いた赤い鬼を膝をついて見上げていた。彼の服や手にはべったりと赤い血が張り付き乾いていて、嗚呼…昨日の青鬼の復讐だ、と人間たちは震え上がった。大勢で異形の鬼を追い詰めたあの高揚感が、同じだけ絶望になって背中を這う。
『何事じゃ!』
手の込んだ白い装束を着た老婆と、それを支える妙齢の女が駆け付けた頃には、村のほとんどの武器が歪な木片と化していて、あまつさえ男衆は目に見えて戦意を喪失していた。
『鬼の童か…昨夜の青い鬼の子か?』
『何故殺した』
見辛そうに目を細める老婆が、片目の下瞼をぴくつかせながら問うが、赤い鬼は答える気などなかった。射抜くような大きな黄玉が、今にも命を奪わんばかりにギラギラと燃えている。
『…ほほ、…死んだか』
『お母様!』
歪な顔だった。老婆が憎々しげに、けれどどこか安堵を混ぜて笑う。それを後ろの妙齢の女が咎めるように遮るが、赤い鬼の鼓膜は確かに老婆の声で揺れていた。
静かだ。
あんなにも滾っていた怒りが、自分でも怖くなるほど凪いでいる。
『嬉しいか?』
『あれは我が村の姫巫女に手を出したのだ。許されぬことをした』
『それは命を奪うほどだったか?』
『この村ではそれより重い掟は無い』
青いのは何をした?
あっけらかんと笑いながら、日々に身を任せるように生きていたあの者が、この村や人間を害そうとしたとはどうしても思えない。
遠すぎず、けれど近づきすぎず。そうして楽しそうに人間の暮らしを観察していただけだったように思う。
これも知らぬからというのか。
この小さな村の掟とやらが、どうして自分たちに及ぶかはどうでも良かった。
青い鬼は死んだ。
現実は残酷で、酷く単純だった。
『あの人は…死んでしまったの?』
妙齢の女は確かめるようにこちらを伺った。安堵に滲む村人たちとは違い、絶望の色が浮かんでいる。
『お前達が殺したのだ』
そう告げれば、柘榴石の瞳からほろりと大きな涙をこぼして、女は崩れ落ちた。どうして、何故、と呟きながら、震える両の手で顔を覆った。
青いのが今際の際に言っていた『あの人』とはこの女のことだろうか。人間に興味を示していたのは、この女が原因だろうか。
子を成す必要のない鬼に、人間や動物のような求愛衝動があるとは思えなかったが、不思議とこの女が青い鬼の興味対象であろうと確信できた。
事実、この場で彼を偲ぶ人間は、彼女だけだ。
『今ここにある豆をすべて出せ』
ねめつける視線を老婆に射止めたまま手近にいた男の頭を右手で掴むと、赤い鬼は爪の先が皮膚にめり込む程度に力を込めた。男は短く悲鳴を上げて彼の腕を掴み返すが、鬼の力に叶うわけもなく振りほどく事ができないでいる。
『こいつらの頭をつぶされたくなければ、早くしろ』
老婆は苦々しく傍に控えていた別の男に目配せをすれば、彼は狼狽えるように肩を竦ませてから頭を下げ、食糧庫に走り去る。足音が遠のいてから、老婆は体重を支える杖をぎゅうと握りしめた。
『食うに困っているわけではなかろう』
『豆など食わん』
『なればどうする。豆を奪われようが、我らに痛手はないぞ』
この辺りは日当たりも土も良い。山から流れる小川も澄んでいて、作物には困らないだろう。
それもそうだ。土も風も川も、ここら一帯を汚すことを許さないのが鬼なのだから。日々山の隅々を巡り、死んだ獣の体を処し、川の道を滞らせないように倒木を起こすのは彼らだったのだから。
『これから毎年、今日と同じ冬と春の節目の日に豆を貰いに来る。樽一杯の豆を用意しておけ』
遠くから麻袋一杯の豆を抱えて戻ってきた男が、少し距離を置いて恐る恐る赤い鬼の前に下す。それを担いでから、握りつぶしていた男の頭を乱暴に離した。
『豆を出さぬ年にこの村の者達を一人残らず殺す。
忘れるな、自分たちが犯した過ちを何世代と語り継げ。知らぬものは殺す。無知を恥じろ』
この日、何の罪もない鬼が死んだことを思い出せ。
この日、肥しにもならぬ掟が赤い鬼の怒りに触れた事を忘れるな。
それだけを言って、赤い鬼は風の中に姿を消した。
彼の黄玉の瞳は、一度も瞬きをすることなく老婆の余命を縮めるように最後まで睨み上げていたのだった。