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4.奪われた青

 背丈は6尺を優に超え、人間離れした筋肉からは誰も想像もつかないだろうが、古月山(こげつやま)の鬼はまだこの世に生を受けて10年程度しか経っていない。花の根元に生まれて急速に成長し、それはおよそ10年をもって今の姿で止まった。

 同じ山に住んでいた青い鬼は、鬼とはきっとそういう生き物なのだと言った。

 彼が生まれた時も一人の先住の鬼がいて、ある程度成長したころに寿命を迎えてしまったから、きっと寿命が近くなれば後継の鬼が生まれて受け継がれていくというのだ。


『何を受け継ぐんだ?』


 幼い自分のその問いに、青いのは困ったように笑ったと思う。

 山なのか、動物たちなのか、木々や花々か、はたまたそれらの知識か。この日常かもしれないと不思議そうに空を見上げて、答えにもならない答えを呟いていた。


 産まれて、青い鬼がいて、木々が揺れて花が咲く、動物が命を巡らせて、川が流れるそんな日常を、忘れもしない、あの日奪ったのは人間だった。


 夜の帳を引き裂くように怒声とも奇声ともつかない大声を張り上げながら、人間達は無数の松明を揺らして青い髪の鬼を山の入り口まで追い込んだ。寿命間もない力衰えた彼はもはや抵抗する術など無く、数えきれない矢を浴びせられながら、まだ少しばかり人より早い脚で駆け抜けて山の奥深くに逃げ帰ってきた。

 山あいを一望できる岩の上が好きだった青い鬼を、いつもそこで待っていた赤い鬼は、彼の変わり果てた姿に血の気を引いた後、反射的に怒りの咆哮を上げた。赤い髪が燃えるように逆立って、目の下の模様がより赤みを増すのは、彼の怒りの感情の印だった。

 よろよろと岩場までたどり着く血みどろの鬼とすれ違う様に、山を走り下りそうになる赤い鬼の腕を掴んで、青い鬼は岩の隣に倒れこんだ。見届けろと言わんばかりに、離されることのないその腕を何度か振りほどこうと試みるが、今の彼のどこにそんな力があったのか、絶対に解かれることはなかった。


『離せ!離せ青いの!!』

『離して、…どうする』


 息も絶え絶えに紡がれる言葉が痛々しいのに、彼の唇には薄い笑みが浮かんでいる。口元に浮かぶ白い色だけが、短く表れては消えた。


『殺すのだ…お前があいつらに何をした!』

『…殺す理由は、なかろう』


『お前を殺したろう!』

『まだ生きてる…勝手に殺すな』


 お前は本当に面白いなぁ──

 日々の中で稀にかけられる揶揄いの言葉が聞こえるような、いつもの笑み。その体中にべったりと張り付く血がなければ、本当に繰り返される毎日の一節なのだと思うほどに。


『…死ぬだろう…お前は』


 勝気な性格であった赤い鬼の目に、今にも零れそうな涙が浮かぶ。覚悟はしていたのだ、寿命はもう目前だったのだから。

 青いのが先代の鬼を見送ったときは、月光の中に溶けるように淡い光となって消えたと聞いた。まるで蛍のようで見物であったと、懐かしそうに目を細めていたから、どこか寂しさを感じる別れの予感を誤魔化すように、月を見上げて思い描いたこともあった。

 力も、速さも、身軽さも、存在感も、日々薄れ弱っていくそれはまるで覚悟を促す警告のようで、どうか最後は長い命の日々の中の一等穏やかな日であれと願っていたのに。


『何故こんなにも…唐突に奪うのだ』


 勝手に恐怖を振りかざして、自分たちが恐れる暴力で命を奪う者を鬼と呼ぶなら、その名前は果たして彼に向けられるものであろうか。


『…知らんのだ、人は。…知らぬから怖いのだ』

『知らぬが何だ!罪がないなど戯言だ!』


 一つの害も与えない、異形の者に浴びせる暴力が、罪でないなら何なのだ。赤い鬼は零れる涙を拭うことなく叫んだが、どこから湧くのかもわからない青い鬼の手の力はそれでも振りほどくことを許さなかった。


『お前も知らぬのだ…人がいかに弱く、脆く、赤子のようであるか』

『知りたくはない!知るべきはもう思い知った…、今日がそうだろう!』


『赤いの…知らぬのだ、お前はまだ幼い。この先何十年、何百年と生きる内にわかるさ。

俺はわかったぞ、何百年生きたのか…死ぬ間際の今にして…やっとわかった』


 視線は赤い鬼を見るようでいて、その向こう側を眺めている。腕の力が少しずつ弱くなっていく事に、言い知れない焦燥感がせり上がってきた。

 今すぐにでも人間たちの元に走り下りて、そのすべての命を握りつぶしてやりたいのに。その抜けていく力を追う様に、青い鬼の腕に縋りついてしまう。


『俺はあの人を知った…寿命を前にしてやっと、わかった』


 誰かを想う様に目を細め、血だらけの口元を小さく震わせながら弧を描く。何故そんな幸せそうにできるのか、彼が面白そうに見つめていた人間という存在に害されたというのに。


『受け継ぐためにいる…俺たち鬼もまた、その輪廻の中にいる。…赤いの、繰り返される日常ではない、俺たち鬼の存在そのものだ』


 手首をつかむ腕とは反対の腕で、青い鬼は赤い鬼の頬を掴むように撫でた。


『知るのだ。人はそれを知っている…知っている者もいる』


 その言葉を放つのを最後に、頬を包んだ腕はぶるぶると震えてから土に落ちた。今なら振り払えるはずの手首をつかむ腕も、弱弱しくすり落ちる。


『…魚を釣り上げ…きびの汁を煮詰めて、米を、つく…』


 もうこちらを捉えない瞳が、少しずつ濁っていく。面白いものを思い出すような口元の笑みは変わらずに。


『ああ…豆が…食い、たい、…なぁ』


 掠れて小さくなっていく言葉をこぼして、青い鬼は息を引き取った。

 月が見守るように輝く、明るい夜だった。


 赤い鬼はわからなかった。

 何故彼は豆を好いていたのか、嗜好品でしかなかった食料を最後に求めたのか、これ以上何を知れというのか、こうまでされて人を想える理由は何だ。

 どうして死に追いやられて笑えるのだ。

 何故、いま己は泣いているのだ。

 悲しいのか、悔しいのか、両方だろうか。

 わからないまま止まらない涙が、冷たくなっていく青い鬼の腕に零れていく。


 花の根元に生まれ、人間のような親という存在などは無い。それでも初めて目を開いて見えた青い髪が、日々に欠かすことのない色だった。

 追いかけて、水の採り方、木の実の味を知った。倒れた樹の処し方、人間の罠にかかった動物の助け方、雨で増水した日の過ごし方、笑い方、怒り方。様々な生き方を教えてくれた彼のような存在を、人は親と呼ぶのだろうか。

 ならばこの張り裂ける胸の痛みは、なんと呼べばいいのだ。



 どれくらいそうしていただろうか。

 ふいに、青い鬼の体がぼんやりと光を帯び始めた。寿命こそ迎えられなかったけれど、やはり蛍の様に消えて行くのかと 思わず触れていた腕を離す。

 ところがその光は蛍の様に飛び立つどころか、包み込んだ体の輪郭を少しずつ時間をかけてぼやかして小さく小さくして行き、心臓の場所で纏まったころ、水滴の音を一度だけ響き渡らせて岩の根元に落ちて消えた。


 まるで雪解けのようだった。


『そうか、…お前は滝の裏で生まれたと言っていたな』


 水に生まれて水に死ぬ。

 輪廻とはこのことなのだろうか。


『おやすみ、青いの』


 いつも寝床でかけられる言葉に返事をしたことはない。照れくさいようなこそばゆい感情が口をへの字に結んで、そのまま眠りにつく日々だった。

 光が消えた場所を見つめながら、当然返ってこない返事を待った。

 一度くらい、同じ言葉を返すべきだったのか。今更遅いのに、どこか満足そうに眠った青い鬼の顔を思い出すしかできない。

 姿勢を正してもう一度だけ、おやすみ、とつぶやいて、ゆっくりと瞼を閉じた。

 吹き抜ける風が血の匂いを奪い去っていく。

 まるで山全体が彼の死を悼む様な、優しく静かな最後の夜を、赤い鬼は身じろぎすることもなく、涙が止まるまでそうしていた。

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