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番外編2.雨上がりを待つ

 赤い鬼は、慣れ親しんだ鬼より幾分も小さく、少年のようだった。


「何故殺した」


 ぎらぎらと光る黄玉(おうぎょく)が、痛いほどに見開かれている。怒りに彩られているはずなのに、(ましろ)には泣いているようにしか見えなかった。きっと天流(あまる)を慕っていたのだろう、なにせあんなにも優しい鬼だった。暇を持て余すように山を下りてきては、短い時間を共にして帰って行く人。


「あの人は…死んでしまったの?」


 夕刻の襖を開けば当たり前にそこに座って、見下ろしながら笑う人。


「お前達が殺したのだ」


「私、たちが」


──ちがう、私が…殺した。


 もっと上手く母を説得すればよかった。反抗心など抱かずに、彼が優しい人だと教えればよかった。男衆を追いかけて間に入れば、矢の一本でも防げただろうか。


 優しい人だった。小さな幼子を喜ばせるために、どんぐりを拾い集めるような人だった。病に伏せ、楽しめなかった桜の景色を、降らせてくれる人だった。


『最後にお前と話せて楽しかった』


 だからこそ、暖かで優しい最後を迎えてほしかった。赤い少年の鬼が染まるほどの血を流すような、惨い終わり方をしてほしくなかった。


 考えれば考えるほどに思考の沼に嵌って抜け出せなくなり、白は床に臥せった。


 消化に良いから少しでもと無理やり口に捻じ込まれた粥を都度吐いた。止まらぬ涙を拭うこともできず、ただ布団の中で横たわる日々。気絶するように眠って、血に染まる鬼を夢に見て飛び起きた。起き上がるたびに全身に激痛が走って、揺れた頭の衝撃でまた吐いた。


(地獄はいくつもあると聞いたけど、私は今どれに落ちているのだろう)


 春も、夏も、秋も冬も、いったい何がどれだけ過ぎたのか、わからないまま部屋は明暗を繰り返した。



『人の子は本当に弱い生き物だ』


 ある日、耳に慣れた声が聞こえた気がして、ゆっくりと体を起こした。いつもの夕刻、襖の向こうのいつもの庭。そこに根付いた松の木の上に隠れるように座って、青い鬼が笑っている。


『ほら、集めてきてやったぞ』


 うっすらと透き通る天流が両手を広げると、無数の桃色の花弁が雨のように降り注いだ。


「わたし、また春を見逃していたの?…ありがとう」


 呟いて、その桜吹雪を一身に受ける。冷たくて、体中を液体のように這うけれど、白の目には春の雲一つない晴天だった。しばらくそうしていると、母が慌てたように駈け寄ってきて部屋の中に引き込んで、体中を一心不乱に手拭いで拭き始める。気づけば体はずぶぬれで、庭は雨の音でひしめいていた。


「…ああ、もう帰っちゃったのね」


 天流は夕刻しか来ないから。そう言って、また明日を楽しみにした。



 何度か天流を見送るたびに、母は涙を流した。しっかりしろと頬を打たれたこともあった。


「彼は悪い人ではないのよ、お母さま」


 あの日できなかった説得を試みたけれど、やっぱり母は聞いてはくれなかった。何度も関わるなと言われていたものを私も無視していたのだから、お互い様なのかもしれないと思ったら少し心が軽くなったけれど。


 しびれを切らしたのか母は私を座敷牢に閉じ込めてしまった。狭く、堅い牢の中はとても暗くてこわかったけれど、天流が雨の日以外はほとんど毎日会いに来てくれたので寂しくはなかった。


「おかあしゃま」


 幼い、舌足らずな声がして振り返ると、大きな赤い瞳の童が母に抱かれていた。自分を母と呼ぶということは、我が子なのだろうか。そういえばこの座敷牢で少し前に産んだような、そうでないようなぼんやりとした感覚が浮かんでは消える。ああでもこの赤い目は確かに自分と同じ色だ。下腹部に触れると出産した痛みを思い出して、糸を手繰り寄せるように記憶がさかのぼって行く。そうだ、私と青い髪の人との子だ。


 どうして忘れていたのだろう。


「髪の色は私に似たのね」


 できれば同じ青であって欲しかったなど、言葉にすればきっと天流に怒られる。生まれた命そのものを、敬い守る人だから。

 福と名乗った童は母の目と鍵を盗んでよく会いに来た。父親に似たのか、よく手土産を小さな手のひらに握りしめて持ってくる。それは綺麗な色の石であったり、見事に咲いた花であったり、幼子の手を覆うほどの虫であったりした。餡子の菓子を持ってきたときは驚いた。ほとんど胃が受け付けなかったからか、食事も最小限しか運ばれてこないので、甘いものを口にするのは何年ぶりだっただろうか。


「美味しい…誰かと食べるのはこんなにも美味しいのね」


 そう言うと、福は少しだけきょとんとこちらを見上げたあと、頬を紅潮させて笑った。


 愛らしい子。天流と私の最愛の子。どこを探しても、彼女の中には天流に似た個所を見つけられないけれど、愛しい子。本当は青い髪であって欲しかったけれど、大好きな子。角の一本でも生えていればよかったね。目の下の赤い模様があるともっと素敵。きっと走ると驚くほどに速くて、力持ちで、笑うと竹を打ったような声が響くの。そうね、角は1本、きっとどこかに生えてるわ。そして翡翠(ひすい)の瞳をこちらに向けて、青い髪をさらさらと髪になびかせる。そんな子。私の子。愛しい子。


 突然訪ねて来た見知らぬ幼子に、会いたくて思わず尋ねたの。


「私の子供を知らない?青い髪で、あなたと同じくらいの年頃なのよ」


 私によく似た赤い瞳が零れそうなほどに見開かれて、下瞼が小さくぶるぶると震えていた。


 可哀そうに、何か怖い目にあったのかしら。可哀そうに。可哀そうに。



「あおいおには、しんじゃったんだよ!」



 ああ、可哀そうな子。どうしてそんなことを言うの。どうしてそんな悲しいことを言うの。どうしてそんな事実を言うの。どうしてそれが事実なの。


 だって天流は今日もそこにいる。腕を組んで立ったまま、暖かくこちらを見つめてくれているじゃない。



 見上げれば、天流は姿を消していた。そこには横長の窓が古月山と空を見せるだけ。



 叫ぶ己の声も聞こえないまま、私はまた、地獄に舞い戻った。



 母が叫びながら口に粥を押し込んでくる。それを吐いて、のどに詰まって、苦しくて、苦しくて、殺してくれと哀願する。それを聞くたびに母が泣き叫んでいた。

 牢の外に青い最愛の人を見て、幸せだと笑っていたら、雨雲が押し寄せて彼を攫って行く。横長の窓が憎いのに、次の日にはまたそこに彼が立っている。そうしてまた母が喉に粥を流し込む。

 死にたいのに、死なせてはくれない。彼の元に走り寄りたいのに、足に力は入らない。彼を抱きしめたいのに、腕は決して持ち上がらない。


「お母さま…」


 その日、膳を運んできた母は、粥を口に押し込むこともしないまま私を抱きしめた。


「…彼は悪い人ではないのよ」


 どうしてもわかって欲しい。青い鬼は一度たりとて、私に傷一つ負わせなかった。触れたのはあの日だけ。最後の縁側の、一度だけ。


「…そうか」


 母はくぐもった声でそう言って、一層抱きしめる腕に力を込めた。嬉しくて、全身を包む温もりを抱きしめ返した。ゆっくりと、ため息をつくように息を吐く。眠りにつくようで、妙に心地よかった。



 土を泳ぎ、空を舞った。暖かで冷たくて、泣きたくなるほどの喜びの中だった。

 古月山の絶景の手前、岩の上に腰を据える青い鬼は手を伸ばし、白い女を抱きしめた。


『お前に一度、この山をみせてやりたかったのだ』


 木造りの耳飾りがからりと鳴る夕刻に、眠る水面は噴き出した。



【完】

 これにて終幕です。

 本当にありがとうございました。

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