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番外編1.蒼天に泳ぐ雲

 かつて母から聞いていた『鬼』は、それは残虐で非道な生き物だった。人と見れば襲い掛かり、まるで稲刈りのように首を刎ねる。死んだ人間の体を踏みつけその上で笑いながら踊り、夜明けとともに帰って行くというのだ。

 子供心にその話に怯え、夜は布団の中で体を丸くして眠った日もあった。聞くたびに非道さを増していく話が御伽話だったと理解したのは、髪の青い鬼にあった日だった。


「おお、見られてしまった」


 青い鬼は陽もまだ高い夕刻に村に現れて、人目を盗む様に庭の松の木の上で座っていた。妙な葉の散り方があるものだと見上げた先で翡翠(ひすい)の瞳と視線が合ってしまったときは息が止まったが、その異形のいでたちとは真反対の間の抜けた表情に思わず笑みがこぼれてしまったものだ。


「あなたは…鬼、ですか?」

「そうだが…なんだ、お前は怯えぬのか」


 それは結構なことだ!と膝をうって笑う青い鬼。自分でも不思議なほどに恐怖心は和らいで、己の中の好奇心がむくむくと膨れ上がるのを感じた。当たり前だった日常に常に虹がかかるような、彩が差し込んだ気分だった。



 青い鬼は、ほとんど毎日松の木の上に現れた。


(ましろ)、お前にこれをやろう」


 頭上からぽとりと落とされたのは、子供の手を覆うほどに大きな鍬形虫(くわがたむし)。黒くつやつやとした背中がブブッと音を立てて羽を振る。

 声にならぬ声を上げて静止してしまった白を眺めながら、喜んで愛でていると思った青い鬼は、彼女が立ったまま失神していることに気づかなかった。


「いやはや、まさかお前が虫を嫌っているとは思わなかった、今度はこれをやろう」


 秋になり、今度は何だと構える真白に振ってきたのはどんぐりの雨。村にはクヌギが生えていないので、子供心に嬉しくなって拾い集めた。


 冬。風邪をひいて寝込んでいた白が、寝ころぶのに飽きて庭への襖を開けた夜。一面を雪が染め直していて、まぶしさに目を細めた彼女の足に何かがこつんと当たった。視線を落とすと、雪で作られた白兎が縁側に佇んでいて、南天の実がまるで自分の瞳ようで愛おしかった。見上げれば松の木の上にももう1匹の白兎がこちらを見下ろしていて、その目は染まる前の緑色の南天の実が埋められているように見えた。


「人の子は病に弱いのだから、気をつけねばな」


 そう言って散った桜の花弁をかき集めた手拭いを広げる鬼の青い髪は、桜吹雪の中でひと際目立っていた。


「お前が寝込む間にもう一人鬼が生まれたのだ、赤い毛色のそりゃあ生意気な奴よ」


 青い鬼が嬉しそうに笑うのを見つめながら、言葉にはできない感情が胸の中をぐるりと一周した。それはなんだかむずがゆくて、息を止めるほどに苦しいと感じた時には小さくなって弾けて消えた。


「空って、呼んでもいい?」

「…そら?」


 青い鬼が眉根を寄せる。その髪色が天空を染める色に似ているからと答えたら、口をへの字に曲げた。


「…じゃあ、…ちょっと考えてみる」

「どうせなら洒落たものにせい」


 うんうんと考えて、“天流(あまる)”という名前を提案したら、なんだかむずがゆそうに肩をもぞもぞした後で、それでいいとにっこり笑った。


 白は、天流が優しいことを確信した。人と話せてうれしいと態度で示すこの鬼が、村の人間よりずっと心地よいと感じた。母にはきっと反対されるけれど、それならば気づかれないように会えばいいと思った。まるで秘密事を抱えるようで、なんだか楽しくもあった。



「鬼に関わるな」


 ある日、当然のように母に忠告された。きっともうずいぶんと前から見抜かれていたのだろうに、言わずに見守ったのは決して優しさでないことを白は知っている。そのうち自分から距離を置き、離れてくれることを勝手に期待していたのだ。言わずともわかるだろう、当然のことだ、何故言わせるのだ、と、幼いころから言われ続けていた。


「彼はそんなに悪い方じゃないわ」


 いつの頃からか、母に対して反発めいた言葉が多くなったことを自覚していた。この村の権力者であった母は他と比べても気位が高く、いつも何かに怯えるように隙を見せない人だった。そんな人に頭ごなしに命令されることが嫌で嫌で仕方なくて、口論も増えていたと思う。


「カッカッ、人の子は心も複雑よのぉ」


 青い鬼に相談してみれば、軽やかに笑い飛ばされた。ムッとして睨み上げると、すべてを見透かしたような翡翠を細くして笑う。


「お前の母も苦労人よ…すべてが見栄でもあるまいに。…さりとてお前ももう大人になろうとしておるんだ、摩擦も起きる。まぁ、いつかよき思い出になるわ」

「おじいさんみたいな口ぶりね」


 生きた年数など数えていないと笑う天流は、ほとんど人間とは交流してこなかったと聞いた。それは鬼として生まれた己の運命だと理解していたはずなのに。


「100年、200年と生きる内に…それではもったいないと思ったのだ」


 山の動物も植物も虫も魚もある程度理解したのに、どうして麓の人間とは決して分かり合えないのだろう。


「分かり合えぬならそれなりの理由を知りたかった」


 そうして人を観察し始める内に、人の機微にも敏くなったという。そんな鬼と人間とを見つめ続けた天流の話はあまりに興味深かった。

 彼には命の境目がなかった。鬼(ゆえ)なのか、木々も虫も動物も人間も、皆同じ命の一括りだった。それは不思議な感覚でもあり、悲しくもあった。彼の中に“特別”がないという証拠だったから。



 妙齢と言われる年齢になり、母に子を産まなければならないと告げられた。初潮を迎え巫女となり、数年もしたころだった。


「鬼と遊ぶのはもういい加減おやめなさい」


 母に対する反抗心は年を追うごとに減っていて、その頃にはもう彼女の言いたいことも割と冷静に理解できていたと思う。それでも首を縦に振れなかったのは、天流という鬼に害はないという事実と、この胸に宿ったものがそれを拒んだからだ。


 恋や愛などわからない。この胸に咲いたものをそう呼ぶのだと教えてくれる者がいるのなら、きっと納得もできただろう。

 庭への襖を開ければ、それは器のふちを大きく超えて外側まで満たしてしまう。嬉しいとか、悲しいとか、そんな感情を嵐のようにかき混ぜて、暖かな陽の光のように包み込んで考えられなくなってしまう。この時間が永遠に続けばいいと願ってしまうのだ。



 だけれど、神様は残酷だった。



「…もうここには来れぬと思う」


 初めて、天流が松の木から降りて縁側に座っている。どうしたの、と聞く間もなく彼ははそう言って、白と目を合わせないまま陽の沈む様子を眺めている。


「鬼は命の摩耗こそ遅いけれど、死ぬときはあっという間のようだ」


 おそらく今夜が最後だと思う、と青い鬼が己の心臓が脈打つ場所に手を添えて呟いた。その場所が痛むのだろうか、苦しいのだろうか、鼓動が遅くなっているのか、想像が渦を巻いて混濁していく。

 同じ場所が苦しい。白はそう思った。きっと彼とは全く違う原因なのだけれど、それでも事実、痛いほどに苦しかった。


「いや…」

「もう十分すぎるほどに生きたのだ」


「いやよ…」

「最後にお前と話せて楽しかった」


 ぼろぼろと零れる涙が畳に吸われていく。いつの頃からか青い鬼とともにいることが当たり前になっていた。話す言葉に救われていた。胸の内にある感情は、まさしく幸せに直結していたのに。


「天流…」


 思わず走り出して、手を伸ばした。初めて触れる彼の体は、人のそれとほとんど変わらなかった。勢いそのままに飛びついてしまって雪崩のように倒れ込んだ縁側で、声を上げるでも身をよじるでもない天流は、ぽんぽんと白の頭を撫でた。


「お前がくれたその名前、赤い鬼にも教えていないのだ」


 俺の特別だから。その言葉に、喜びと悲しみが混ざって言葉にならないでいる間に、部屋の入り口で膳が落とされた派手な音が響いた。


「鬼じゃああ!者どもおおぉ!」


 母の、悲鳴に近い怒号が響いた。条件的に跳ね起きてしまった白の手をするりと抜けて、天流は風のような素早さで山の方へと駆けていく。家々から飛び出した男たちが、追いかけながら空に矢を構えて放ち始めた。


「やめて…」


 風を裂き、無数の矢の雨が空を走った。


「お母さま、違うの!男衆を止めて!」


 何度乞うても、見たこともない形相で山を睨み続ける母には届かなかった。

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