32.福はそと、鬼のうち(終)
「お前も花から生まれたのか」
風に揺られて解けていく花弁の塊を眺めながら、伊呂波の声が木蓮の鼓膜を揺らした。
「お前から感じる気配は、天流のそれとよく似てる」
慣れ親しんだ気配。他の鬼に出会ったこともなかったから知り様もなかったけれど、この短時間でもわかるほどに熟していく命の気配。
「もう、寿命が近いんだ」
拳を交える度に衰えていく速度。体から生命力が抜けていくように、落ちていく思考力。伊呂波にははっきりとわかる。彼はもう、戦えない。
それを肯定するように、左足の膝から先が剥がれ落ちて白い花弁を散らしていく。立っていられなくなった木蓮が、がくりと膝をついた。
「…終わり、なの?」
自分の周りに散る大きな花弁に、信じられないと視線を送る。狼狽え、息を乱し、浮かんだ涙を遠慮なく流した。
「嫌だ…怖い…だって何も、…成せてない」
人を憎み、同胞を求め、帰る場所すら失った。自業自得なんて聞きたくない。足掻いても足掻いても欲しかった答えは、見たかった景色はどこにもなかった。
同じ色の血を流し、同じ色の涙を流す癖に。瞳の色だけで蔑む理由は何だ、ぞんざいに扱える理由は何だ。わからなくて、ただただ混沌に落ちるだけで、憎くて仕方がないだけで。きっとこの感情をなだめすかせるのは、何事もなかったように目の前に現れて名前を呼んでくれる衛士だけなのに。
「どこにもいない…っ」
何里、何千里歩いただろう。背の低い、短い黒髪の、赤い瞳を持つ人間。同じ要素を持つ者ならたくさんいたのに、同じ笑みで同じ声で、「木蓮」と呼んでくれる男はどこにもいなかった。
はらはらと泣く木蓮の涙が土に吸われていく。もう片方の手も花弁になって落ちるさまは、まるで白い椿の花に似ている。1枚の花弁が風に攫われて飛び立とうとするが、歩み寄ってきた一人の人間の足に引っかかって止まった。
「…近づくな、福」
それは赤い目を持つ妙齢の女で、憐れむような柘榴石からは一筋の涙がこぼれている。近づくな、と言われて素直に歩みを止めて、足元の大きな白い花弁を拾い上げ、分厚く瑞々しいそれをそっと撫でた。
「…木蓮の花みたい」
山に咲く同じ名の花はもっと小さいけれど、とても良く似ていた。
「綺麗な白木蓮」
彼女は、知らないはずだ。目の前で今まさに朽ちようとしている鬼が、かつて呼ばれていた名前。彼女が現れてから一度も口にしていない、聞き慣れた名前。
「もう一度…」
木蓮が、掠れた声を絞り出す。右肩からすこしずつ、白い花弁になって風に攫われていく。
「もう一度、…笑っておくれ」
彼が、木蓮が欲しかったのはきっと、最愛だった衛士の笑みだろうに。同じ柘榴石をじっと見つめて、木蓮は願う様に目を細めた。
福は、ゆっくりとほほ笑んだ。もうほとんど吹雪のような白い花弁に遮られて、木蓮の目元すら見えなかったけれど。美しくも儚い、とても悲しい瞳をした鬼に届けばいいと願いながら。
笑った。
風は踊るように花弁を巻き上げて、青い空を白く彩った。先ほどまであった気配は綺麗に消えて、大量の花弁が降ってくる。
「ちゃんと届いたかな」
「…さぁな」
興味はないと言いたげに、伊呂波は長いため息をついた。
「まぁ、ここには草ばかりで目立った花はなかったからな…何を咲かすやら」
鬼が終の場には、命を凝縮したような奇跡が残る。光から生まれた鬼は光を成し、水から生まれた鬼は水を成す。ならば花から生まれた鬼が成すものは決まっているだろう。
「伊呂波も、…花から生まれたんでしょ?」
「ああ…」
「何の花から生まれたの?」
ふんと短く笑うだけで、伊呂波は答えなかった。戯れるように飛び回る花弁を眺めながら、いつか自分も同じような最後を遂げるのかと、何百年もあとの未来を想う。
「…あ」
福の声に視線を投げると、彼女は木蓮が果てた場所のずっと向こう側を見つめていた。つられる様に見てみれば、そこには黒い大きな狼が白い花弁を1枚咥えて立ち去る姿があった。
「来てよかった…」
福が納得したように零すので、何のことだと聞いてみたけれど、「伊呂波もさっき答えてくれなかったでしょ」と悪戯に笑って見せる。
「そうかよ…ほら、帰るぞ」
気づけば痣も綺麗に完治していた左腕で、肩に座るように福を担ぎ上げた。
背後では、ゆっくりと止んだ風が白い花弁を草原に落としている。数年後、そこに無数に咲き乱れる小ぶりの白い花は、それこそまるで降り積もった雪のようで、人はそれを「雪花草」と呼んだ。雪花草はひと際白く咲き誇った。…何年も。
何十年後も。
ひらり、と白く細い小さな花弁が空を舞うのを見て、あれが本当は花弁ではなく、苞と呼ばれる小さな葉なのだと教えられたときは驚いたものだ。花はその中央の小さなつぼみのようなものの方だというのだから、鬼も花も見た目だけではよくわからないのだなぁと思った。
「…ねぇ、伊呂波」
しわがれた声に、短く低い声で答える赤い鬼。
「いい加減、あなたの生まれた花を教えてくれてもいいんじゃない?」
長い白髪を後ろでまとめて、鬼の腕に頭を預ける女は、夢見心地とでもいう様に瞼を閉じてそう聞いた。伊呂波と呼ばれた赤い鬼は、ふ、と笑ってから、加えていた煙管を離して細く息を吐く。白い、雲に似た煙がくるくると舞って、薄く染まって消えて行く。
「そのうち分かる」
「…そればっかり」
お約束事のように繰り返されたやり取りだけれど、女にとっては心地のいい時間だった。当たり前が変わりなく繰り返されることは、幸いなことだと知っている。
「ありがとう、伊呂波」
なにがだ、と聞き返したい。けれどその先が手に取るようにわかってしまうから、思わず言葉を飲み込んだ。右手の上に重なる皺の刻まれた手が、きゅ、と力を籠める。
「なんて幸せな、人生だったんだろう」
人に羨まれる家に産まれ、退屈を知らない日々だった。雨風をしのげるだけで御の字な世の中で、立派な屋敷の中で狛と毎夜暖かく眠れていたことは、今になれば奇跡だったとよくわかる。あの日々が、なんて懐かしく感じるのだろうか。
結局子は持てなかったけど、それでもこの年になればお婆の痛みも少しは理解できて、愛してくれていたのにと何度も申し訳ない気持ちになったりもしたものだ。
それでも、後悔なんてしていない。この山で生きた数十年は、終わりのない冒険のように光り輝いていた。慣れない料理も、都合よくはいかない天候も、どこにでも入り込んでくる虫も、暑さも、寒さも、すべてが。今になってこの両手に、まるで宝物のように納まっている。
住み慣れた塒には年が過ぎるにつれて物が増え、手狭になるたびに伊呂波が掘り進めたり、どこからかいくつもの大きな岩を持ってきて増築したりして、すっかり住みやすい一帯にしてしまった。わがままを言って作ってもらった花瓶には、季節ごとの花を飾った。何度も洗って、何度も修理した木の実を入れる樽。人間の見よう見まねで作った棚は、少しでも重いものを置けば、外れて乗せていたもので雪崩を起こしたりして…悔しそうに作り直す伊呂波の顔は拗ねた子供のようで面白かった。
小川遊びに行っても、山の反対のはずれに遠出しても、この場所に帰って来た時には心底ほっとするほどに、ここは紛う事なき帰る場所なのだ。
「大好きよ…伊呂波」
今なら母の気持ちがよくわかる。まるで父のようで、母のよう、友情のようで恋慕のよう。無条件に惹かれてしまうのはきっと、人が大気を必要とする理由と同じなのだ。
この鬼がいなければきっと、この人生は咲かなかった。
「きな粉餅…食べたいねぇ」
うっすらと開いた瞼から柘榴石が見た景色。大木が風に揺れ、滝が輝き、花弁が躍る古月山。
まるで愛しい赤鬼のような、広く深い大地の起伏。
眠るように瞼を閉じて、福は笑った。最初に共に食べたあの餅を、明日また一緒に食べようと心を躍らせて。重ねた手の温もりを感じながら、眠った。
「…おやすみ、福」
もう一度口をつけた煙管をゆっくり吸い込んで、口に広がる苦みを嚙み潰す。込み上げるものの名前など知らぬふりをして、吐いた煙は何度も千切れて歪に舞った。背後の湖が小さな音を奏でながら湧き出ているのを感じながら、伊呂波は陽が沈むまで身じろぎせずに座っていた。
人の作った樽が劣化して、木の破片に戻るころ。鬼が作った棚が落ちて蔦が這い、掘り進めた洞窟は大きな熊の親子の住処になる。大きな滝の元となる湖は獣たちの水飲み場となり、中心の岩はほとんどそのままに、供えていた鈴は水の底に転がり沈む。
秋には紅葉が舞い、冬には雪が降り積もる。春に桜の花弁を受け止めて。
夏には真っ赤な彼岸花に囲まれた。
「ねぇ、母さま。どうして節分には豆を撒くの?」
麓の村の少年が、母と呼ぶ女を見上げて首を傾げる。
「家に福を招いて、災いを家から追い出すためだよ」
母親は笑いながら、夕餉に出す汁をかき混ぜた。
「どうして豆なの?」
「さてねぇ」
何故だ何故だと繰り返す少年に眉根を寄せて、母親が手を止める。家屋の奥で赤子の鳴き声が響いた。
「ほらほら妹の世話はどうした!さぼってると山から鬼が来て、あんたなんて食われちまうよ!」
そう凄まれて、少年は目に涙を浮かべて走って行く。…けれどふと山を振り返り、見たこともない鬼を想像しては、再び首を傾げた。
「…豆が、好きなのかなぁ?」
そうして今度こそ、泣きわめく妹を抱き上げるために走り去るのだった。
──鬼はそと、福はうち
──鬼はそと、福はうち
それは鬼を遠ざけるための呪いなのか
それとも福を寄せたいための祝詞なのか
あなたにとって鬼とは何か
あなたにとっての福とは何だ
外も内も、呪いも祝詞も
誰しもに通ずる答えなど生まれはしない
それはきっと、幾年経とうとも──
【完】
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。
節分に唐突に生まれたキャラクターが、ずっと私の中で生きて動いて出来上がった物語だったので、どうにか形にしたいと思い小説として生みだすことにしたのが始まりでした。面白いもので、直前まで生き生きとしているキャラたちが縦横無尽に動くもので、予定とはだいぶ遠回りしてのとりあえずの終焉です。私の小説という形としては処女作でありますもので、至らぬところも多々あったことと思いますが、温かく見守っていただいて本当にありがとうございました。
この後2話ほど番外編が続きます。そちらもぬるりと見守っていただければ幸いです。




