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31.腐す君に花束を

 伊呂波がいたような気がした。いつもふとした時に彼を振り返れば、温かいまなざしで見守ってくれている、あの視線を感じたから、振り返った。…だけどそこには、ただ春に暖まった風が吹き抜けただけで、誰もいなくて。


「遅いな…」


 いつもなら、獣の声に見回りに出た後は、心配させまいとそう間も置かずに帰ってくるのに、なかなか帰ってこないどころか、つい先刻まで山頂の方で嫌な音が響いてきた気がした。

 何かあったのだろうか。帰って来られない理由があるのだろうか。思ったより大変な事態だったのか。


「大丈夫」


 伊呂波は鬼だ。強く速い鬼だから、いつだって心配は無駄に終わるじゃないか。


「大丈夫、大丈夫」


 言い聞かせて立ち上がるけれど、ガクガクと震える膝が思いとは裏腹に地面に落ちる。どうして今、狛の顔を思い出すのだろう。最後に振り返った時の雄々しい声が、脳裏に響く。あの時も、きっと大丈夫だと言ってくれていた、先に伊呂波と(ねぐら)に行っていてほしいと請われた気がした。結局、帰ってきてなど、くれなかった…。


「嫌だ…」


 伊呂波を失うのは、嫌だ。これ以上愛する者を奪われたくはない。行かなければならない気がするのに、彼がどこにいるかもわからない。行ったところで何ができるわけでもないくせに。


 ──ジャリッ


 不意に、背後で砂利を踏む音がする。伊呂波が帰って来たのかと反射的に振り返ると、そこには大きな黒い狼が1頭、まっすぐにこちらを見つめていた。

 敵意はない。牙を剥き出しにするでもなく、獲物を狙う態勢でもない。ただこちらに語り掛けるように、まっすぐ見つめてくる。


「連れて行って…くれるの?」


 かつての狛ほどではないけれど、人ひとりを乗せられるほどに大きな狼。獣よりも人間のそれに近い意思が、選べと催促している気がした。


「連れてって…」


 藁にもすがる思いで手を伸ばせば、狼は大きく尾を振って応えた。






「福!!」


 狼の背に抱き着くようにして辿り着いたその先で見たものは、赤と白の鬼の対峙だった。見たところ怪我もしていなさそうでほっとしながら名を呼んだ瞬間、見知らぬ白い鬼はぎょろりとこちらを大きく開いた目でとらえ、伊呂波が焦ったように声を上げた。

 本当なら目にも止まらぬ速さだったと思うのに、それはあまりにゆっくりに見えた。崩れ落ちたような態勢だった白い鬼がまっすぐこちらに走ってくる。それからかばう様に立ちはだかる伊呂波の背中が目の前を覆った瞬間、低く悍ましい音と大きな風が吹き抜けた。


 白い鬼がこちらに伸ばしていた片腕が、伊呂波の左手によって本来曲がってはならない方向に曲がっている。大きな背の向こうでは伊呂波の右ひじが白い鬼の頬にめり込んでいて、だというのに前に進むことをあきらめていないのか、大きな体をじりじりと押していた。


「そこから動くなよ、福」


 言われずとも、動きを遅れて把握するだけで精いっぱいの福は動けない。視界の一つ一つを理解するたびに、心拍数が上昇して息ができない。

 ぐん、と右ひじを押し込んで、白い鬼が左へと吹き飛ばされたが、ぐるりと空中で器用に態勢を変えて、衝突するはずだった木に両足をつけて跳ね返ってくる。その瑠璃色の目は未だ迷うことなく福を捉えていた。


「人間なんていなければ…」


 呟いて、折れていない方の腕を伸ばすが、それを避けた勢いのまま伊呂波の左拳が白い鬼のみぞおちに入る。人間であれば内臓を口から撒いていてもおかしくない威力なのだけれど、鬼相手には口を食いしばる程度だったらしい。それでも十分に彼の体を吹き飛ばして、長い白糸の髪がもてあそばれる様に乱れていた。


「なんで…さっきは私の方が、早かったのに」


 腹を抑えながら体を起こして視線を上げる。赤目の少女の前に立ちはだかる鬼は、深く、深く眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいた。同胞だったはずの鬼が殴りかかってくるなんて幾度も経験したけれど、やはり慣れないものだなぁと思いながら、口の中で溢れた血を吐き出した。

 鬼に対して、仲間意識など感じたこともなかった。会ったこともない、いるかもわからない、あの一人ぼっちの山の中で大切だったのは。


衛士(えじ)だけだったもの…」


 伊呂波の向こうの女は、彼と全く同じ赤い瞳なのに、衛士ではない。どこの山の赤目も同じ眼差しなのに、彼はいない。


「ぼこぼこ生まれて増えるくせにさ…」


 どの山にもまるで当たり前の付属品のような、噛みついて血を吸う蛭のような人間のくせに。


「衛士をもう一度生めないんなら、死ねよ!!」


 ゴキっと折れた左腕を元の向きに無理やり曲げると同時に、体をぐらりと前に倒した。白糸の髪が彼の頭を追う様にふわりと流れて消える。人間では到底考えられない歩幅で距離を詰めて、衝突音が響いた頃には、伊呂波の左腕が白い鬼の右足を受け止めていた。


「その腕はしびれて使いもんになんねぇんだろうがぁ!」

「おかげさまでな!」


 白い鬼の反対の足が伊呂波の左腕に絡むように巻き付いて、メキメキと音を立てて食い込んだかと思えば、両腕で掴んだ頭上の木の枝を支えに伊呂波を後方へ激しく投げ飛ばした。もう左腕が癒えたのか、鬼の治癒力の恐ろしいことである。


「伊呂波!」


 追いかける間もなく、白い鬼の右の手のひらがこちらに向かって開かれる。掴まる、と認識する直前に白い鬼の頭がぐんと後ろに引かれて、白い右手が鼻先で止まった。あとから捉えた視線は、伊呂波が白糸を掴んで吹き飛ばされる体を止めていて、咆哮を上げながら引き落とした。

 ブチブチと髪がちぎれる音と、大地に頭蓋が埋まる音がほとんど同時に響く。硬い大地に一度だけ体が弾んだ隙を見て、伊呂波が毬にするように白い頭を蹴り飛ばした。激しい勢いで吹き飛び、その後さらにゴロゴロと転がっていく。

 すべてが一瞬の間の出来事で、人間など身動き一つとれるわけがない。


「伊呂波…」


 こんなに息の上がる鬼を、福は初めて目にした。体中に汗を滲ませて、怪我こそはないけれど所々に痣ができている。

 どうして争っているのだろうか。あの見知らぬ白い鬼は、伊呂波の敵なのだろうか。いや、まっすぐに自分を狙ってくるということは、己の敵なのか。…来るべきではなかったのかもしれない、そう思うのに。どうして白い彼を、憐れむ気持ちが溢れてくるのだろう。泣きたくなってしまうのだろう。


「ああ…どうして…」


 しつこく立ち上がる白い鬼の体が、ゆらゆらと揺れている。


「さっきは私の方が速かったのになぁ…」

「もうやめておけ」


 赤い鬼が白い鬼を眺めている。先ほどまでの怒気は見る間に萎んで、もう戦う理由などないと言いたげに首の後ろに右手を添えながら息を吐いている。

 何も終わっていないのに。そこの赤目も死んではいないし、人間は滅んでもない。鬼は誰一人目を覚まさないし、衛士は生き返っていないじゃないか。


「衛士が死んだ意味も、私がはぐれた意味も、なにもないなんて嫌だ」


 ぎゅ、と眉根を寄せて身勝手な持論を掲げてみるが、呟いた言葉がそれまでの己の行動に沿っているのか否かなどわからなかった。どうでもよかった。今はもう、目の前の人間を殺せればそれでよかった。


 木蓮は前へ飛び出した。赤い鬼の顔面に数発拳を入れてしまおう。よろめいたところに両足の膝を砕いて、先ほどされたと同じようにみぞおちに入れれば、いくら鬼の回復力と言えど人一人を握り潰す隙くらいなら作れるだろう。人間を真っ先に狙うからダメなのだ、まずは赤鬼からだ。


「…気づいていないのか」


(おや、どうしてまだ赤鬼に拳が届かないのだろう)


 そんなことを考えている間に、右腕を振れば簡単に届く位置まで距離が縮まっていた。何だ、気のせいだと力いっぱい拳を握る。振りかぶって、赤鬼のすかした顔面目掛けて振り抜いた。


 短く逆立った赤髪が揺れる。そこに己の拳は一つも届いていなかった。


「…え?」


 どうして、と他人事のように感じながら、白い鬼は振り抜いたはずの腕を見る。そこにあるはずの上腕も前腕も忽然と姿を消していて、背後でぼとりと何かが落ちる音がした。


 振り返ればそこに、白い大きな花弁の束が折り重なったように落ちている。

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