30.ただの胎動、ただのへその緒
「…希望?」
木蓮の目がぎょろりと開かれた。瞳孔の開いた瑠璃色に不思議ともう怖気は走らない。
「人間に…希望?まさか、まさか。…まさか、ないよ、そんなの」
一見すれば困ったような眉を寄せた笑みは、心底馬鹿にするような表情だ。まるでごみの山を指して宝だと説明を受けたかのように、口角がぶるぶると震えながら上がっている。
「ああ、だめだね…上手くいかない。青鬼くんがやっと話を聞いてくれたから、ここから伝染するみたいに広がってくと思ってた…だめだね、だめだ」
片手で口を覆って、顔の形が変わるほどにぐにぐにと握っては緩めを繰り返す。苛立ちを隠しもせず、体を細かく揺らしていた。
「君だってそうじゃないか、私に対する攻撃を止めた…まだ残ってる、今のうちにもっと…」
「…何の話だ」
息を整える間だけのつもりだった長話を最後まで聞いてしまって、随分自分の気も長くなったものだと思う。それでも、それだけ聞いたはずの話の内容は所々飛び飛びで、完全に要領を得ることは難しかった。
そうだ、そういえば、さっきは何故殴り掛かったのだったか。疑問に思っても搔き消えて、考えないようにしてしまう。
「鬼はみんなそうだよ…私の存在が許せなくなるんだって。最初は嫉妬かななんて思ったけれど違うんだ…。山を離れて放浪している鬼なんて、いるはずがないって思ってるだろ?私も思ってた。…というより、考えたこともなかった」
こちらの考えを見透かすように、木蓮が目を見開いてこちらを捉える。
「みんなそうだ。山と村の為に存在するだけの、ただの“鬼”という名の駒なんだよ。そこから外れてしまった者は“余分”だから、間引いてしまいたくなるんだ」
まるで、繁殖しすぎた藤の花のように。そう言われて初めて、木蓮へ攻撃していたその時の感情をはっきりと思い出した。
山からはぐれた鬼の存在があり得てしまう現実を、飲み込んではいけないと脳みそが警鐘を鳴らしていた。見てはいけない、ここにいてはいけない、摘み取らなくてはいけないと、囁くのだ。誰かが。囁いては、消えて、霧の中に消えて行くように忘れてしまう。
「誰も考えないんだ…そうさせるのが誰なのか。考えてくれる鬼はいないかと渡り歩いたけれど結局いなかったなぁ…殴りかかってこない青い鬼はいたけれど」
ねえ、考えてよ…赤鬼くん。
木蓮の言葉が遠くに木霊する。確かに誰かが囁くように、操られる様に木蓮を殴ろうとしていた。鬼として生まれ鬼として生きることを、当然だと思い込んでいた。山を下りることは考えないようにしていた…いや、させられていた?濃い霧のずっと向こうに確かにいるのに、手繰り寄せようとすればするりと消えてしまう、何か。
ぐらぐらと揺れ始めた視界の中で、それでもしつこくその何かの気配を追い続けてすぐに、当たりの葉音が一斉に響くほど、強い風が吹いた。
がくん、と大きく視界が揺れる。
突然、意識が自分の体のずっと上に引っ張られた感覚がしてあたりを見渡せば、空の遥か上から山を一望しているような景色が眼前に広がる。麓には小さな村がある。豆粒のような人の影がゆらゆらと揺れていて、なんて小さく脆そうな生物だろうと思った。
山の気配が隅々まで感じられる。強い群れの頭を持つ猿の集団、産んだばかりの子と戯れる親鹿、タケノコを掘り返す猪…咲き乱れた藤の花、花粉を集める蜂までも。そして住み慣れた塒に小さな人間が一人、傍にある岩に花を添えながら歌を歌っている。彼女もまた一部なのだと感じた矢先、不意に振り返った柘榴石と目が合った。
「…伊呂波?」
己の名前を認識した途端、ぐんと引っ張られるような吸い込まれるような感覚のあと、意識は赤い鬼の体に戻っていて、目の前には今にも崩れ落ちてしまいそうな木蓮がぶつぶつと独り言をつぶやきながら笑っている。
(今のは何だ…)
遥か上空にあるような、地底深くに繋がっているような妙な感覚だった。空を飛んでいたと言われればそうであるし、土を泳いでいたと言われればそうである。山の隅々まで見渡せるのに、細部まで感じ取れて、それもまた手を伸ばせば大きな何かに辿り着けてしまう、言葉にするには何と拙く、難しい物だろう。
あれが、そうさせる者なのか。
「木蓮…お前はこれを、見たのか」
小さく揺れ続けていた体を、木蓮がぴたりと止めた。
「何かを…見たの?」
「わからない、見たというより…」
瑠璃色の瞳孔がこちらをジッと見つめている。まるで何かを見定めるようなその視線が、体中にまとわりついて気持ちが悪かった。
「何を見たの」
知りたいような、けれど知りたくなさそうな瞳が左右に小刻みに揺れる。嬉しいなら笑えばいいのに、上げた口角の反対側は恐怖にひきつっている。
「…山だ」
あれはそう、山そのものだ。大地に寝そべり、木を伸ばして遠くを見渡し、鳥になって飛び交って、動物として大地を駆ける。頭の先から指先まで過敏になったような感覚が、今もまだ残っている。
「古月山だったと…思う」
「…やま」
小刻みだった瞳が激しく揺れる。何かを思案して、しばらくそうしていたと思ったら、はっと視点を一つに止めた。
「山…」
「お前も、…見たんじゃないのか」
がくり、と膝から崩れ落ちた木蓮。期待していた答えと違ったのか、先ほどまでの挑発は掻き消えて肩を落としている。
「私はただそこと途切れた感覚があっただけ…何かとてつもない大きなものと繋がっていたと自覚しただけだよ。…そこから切れた途端に、解き放たれたような、見放されたような感覚になったんだ」
籠から逃げ出した鳥のように、群れに戻れなくなった猿のように。相反する感覚に襲われたけれど、ただ目の前の受け止めきれない喪失感から逃げ出したかった。走り出して、二度と手に入らないものを、かき集めたかった。
「そうか…私はただ、条件がそろっただけなのかもしれないね」
衛士を失ったと自覚した時、そこは山ではなく滅多に訪れることのない村だった。とてもつながりの薄くなった場所で均衡は激しく崩れ、混沌とする中でまるでどさくさに紛れるように、逃げ出せたのは。
「私はただの偶然の産物なんだね」
もしもそれが、人間の仰ぐ万能の神と言う存在だったなら、もしも私を生かした意味があるのなら、どうかどうかと願いたかった。どうか衛士を返してください。どうか衛士を生き返らせてください。どうか衛士をもう一度。それが叶わないならどうか、人間をこの瞳に映さないで。
だけどそれは叶わなかった。あの日感じた果てしなく大きな存在は、神や仏ではなかったのだ。己を生み出した山そのもの。確かに偉大なる存在だけれど、死した者を作り直すことなどできはしない。
人間が憎かった。できることなら一人残さず根絶させたかった。
弱くて、脆くて、醜い生き物。群れてないと何もできないのに、群れの中に序列を作る。決して弱いものにはなりたがらないくせに、弱いものを虐げていないと満たされない。多勢の中にいれば、弱いものの命を削るなんて平気な顔でできてしまう、愚かな生き物。
生まれながらに、そんな人間を疎ましく思う同胞なら、きっと理解してくれる者もいると信じてしまっていた。
「だって、私はそうだったから」
私だけ、なんてことはないと思ってた。此処にその思考が存在するのなら、この広い大地に同じような同胞がいたとしても不思議ではないと、求めてしまった。
「みんな、赤い瞳を愛さずにいられないなんて…」
ならば私は…?衛士を失い、山にはもう戻れない。私は、いったい。
「伊呂波…?」
伊呂波の後方で響いた女の声音。振り返るまでもなく、あまりに聞き慣れている福の声。振り返れなかったのは、目の前の木蓮が間違いなく彼女をその視界に収めていたからだ。
「もう、どうでもいい」
ただ、人間が。憎い。




