3.搔き乱す者の信念
そんな気はしていた。確信めいたものに首を傾げはしたが、今はもうどうでもいい。
少女は次の日も同じ場所に同じ狗に跨っていて、なくなっている樽を確認するようにジッと彼女の背丈ほどの岩を見つめている。
一度だけ空を仰いで、鬼は聞こえない程度の小さなため息をついた。人は好かないと、この数日で何度痛感するのだ。
首の後ろを乱暴に掻いて、その手をそのまま懐に差し込む。ゆっくりと少女に近づけば、足音に気づいた彼女はこちらへと顔を向けた。
「おはよぉ」
燃えるような赤い髪を見つけて、少女が笑う。人というより小鹿に近いと気づけたのだから、昨日よりは嫌悪感も減っているように思った。
徐に取り出した懐紙と袋を見つけて、彼女の瞳が不思議そうに揺れるのを鬼は見逃さなかった。
「たべなかたの?」
「食えない」
「どちて?」
「火を使えない。動物たちは火が嫌いだし、使ったとしてこれをどうするかも知らん」
ぽかんと見上げてくる少女の短い両眉が、切り揃えられた前髪の生え際にくっつきそうなほどに上がっている。驚くほどゆっくりと口が開いて、両手がぎゅっと握られた。
「そ、っかぁ!」
少女が嬉しそうに目をキラキラと輝かせて、笑顔で頷いている。何をそんなに前向きに受け取ったのかがわからない鬼は、眉間に皺を寄せて一歩退いてしまいそうになって、慌てて脚先に力を籠めた。
一頻り頷いて満足したのか、少女は鬼が差し出していた懐紙と袋を受け取ると、そのまま自分の袖に差し込んだ。
「あちたは、やいたの もってくうね」
にっこりと笑ってから、跨っている狗を優しく撫でる。へ、へ、と息をしていた白い狗が、了解したとばかりに踵を返した。
「もう来るな」
背中に降る鬼の言葉で、少女と狗が足を止める。振り返った彼女の顔が、まさしく「どうして?」と語っていた。
「山に入るなと言わないのか、お前の周りの者たちは」
「いわれた…でも、むずかしくてわかんない」
「…俺は鬼だろう」
「うん」
「鬼がどういうものか、教えられていないのか」
少女が口をきゅ、と噤んで瞳を揺らすのを鬼は見逃さなかった。聞いていないはずがないのだ、あの人間たちの鬼嫌いは尋常ではないのだから。
鬼は人を食う、鬼は人を裂く、鬼は人を踏み潰す。
こちら側に何の特もない想像上の行為を、さも現実に体験したように語り継ぐ。事実、人前に姿を現しただけで、あの畏怖の籠った視線を投げて寄こすのだから。
「…でも、おかあさまが」
言い淀むように泳いでいた少女の視線が、まっすぐと鬼を射抜く。
「おとなたちがいうことよりも、わたちのめでみたことを しんじなさいって」
…言ってた。
そう結んで少女が薄く笑う。
たかだか数年生きただけだろう子供が、信念というものを掲げているように見えた。そんな大層なもののはずがないのに。
「だからわたち、あなたをみうの。わたちのめで、みうの」
昇り続ける太陽の輝きを力強く跳ね返す柘榴石を、鬼は直視して息を呑んだ。途端に喉が締め付けられたように苦しくなって、チカチカし始めた視界に過去の幻を魅せた。
『どうだ、人間とは面白かろう?』
岩の下に眠る、かつての友人はそう言って笑った。
あの日自分はなんと答えただろうか?おそらくは頭ごなしに否定する言葉と、それを裏付けるしかない事実を並べ立てた気がする。しかし彼はそれを面白そうに笑い飛ばして、『知らぬだけだ』と赤い髪を撫でてきた。
『無知は罪ではない。知ろうとしないことが罪だと俺は思う』
まっすぐな青い髪がさらさらと風に揺れて、わからない言葉に盾突いても笑い飛ばされて。風にさらわれる様に消えて行く幻を目で追いながら、あの日から目を逸らし続けた事実が目の前に突き付けられた気がした。
煩わしい。
煩わしいじゃないか。
どうして此の人の子はこうも、俺の中を搔き乱す。
ざわざわと肌が逆立つ感覚が、足元から這い上がってくる。
「もう来るな」
胸の内のざわめきをぶつけるつもりで遠慮なく少女を睨むが、彼女は恐怖の感情など持ち合わせていないように暖かに笑ってから小さな手をこちらに向けた。
「またあちた!」
今度こそ振り返ることなく、少女が木々の隙間に消えていく。
相変わらず会話が成り立たないことも、思い通りにいかないことも、得体の知れない焦燥感にも、腹が立って仕方ない。
どうせ彼女は明日も現れるのだろう。
今まで迷い込むことでしか人が踏み入れることのなかったこの土地に、遠慮もなく。
──ガンッ!
手近な樹に拳を埋める。大きく太い幹が存分に揺れて、まだ残っていた朝露と細い葉が赤い髪に落ちた。
ザワザワと尽きることのない感情が、あふれ出して止まらない。
これは何だ、怒りなのか、悲しみなのか。
まるで絶望に似ている。
あの日の、絶望に似ている。
「まだ思い知れというのか」
相容れぬ存在なのだと、散々に。
思い知ってやったじゃないか。
裂けそうな痛みを覚えて、鬼は胸元を強く鷲掴んだ。