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29.残酷の中で奪われる

 ある時、衛士(えじ)が山に遊びに来ない日が続いた。山に長居した後は珍しいことでもなかったので、明日は来るか、明後日はどうだと待っては見たが、衛士は顔を出さなかった。


「こんなに来ないのは初めてだ」


 そう思うに至ってやっと、村の近くまで足を運んでみた。どうせ病の一つでも拾ったのだろう、人間は脆い生き物だからと、道中に実っていた果物や木の実を摘み取りながら歩いた。これを食わせてやろう、栄養をしっかり取れば病などすぐに治る。そうしてまたくだらない話をして、笑いあおうと思った。

 どうやって衛士の家に放り込んでやろうかと考えながら、村が見えるところまでたどり着いた木蓮は、両手に溢れ返るそれらをぼとぼとと足元に落としてしまう。


 見慣れた衛士の姿は、村の柵の切れ目にある大きな柱に括りつけられていた。


 日に焼けた肌は真っ白に染まっていて、おしゃべりでよく動いていた口はぽかんと開いている。瞳孔の開いた赤い目が遠い空の向こう側を見つめているようで、二度とこちらを捉えないのだと、途端に目の前が暗くなった。

 体中に刻まれた皺と、真っ白に染まった髪。その姿を見て改めて、彼が人間としては老いた年頃だと気が付いた。優しい彼と過ごした年月がもう40年以上過ぎていたことをぼんやりと思い出す。その日々があんまりにも暖かく、ゆるりとした優しい時間だったので、木蓮は忘れていた。人間は短命であり、その構造は脆く、鬼の自分とは違うということを。


「ああ、作物が上手く育たないなぁ」

「衛士のやつ、碌に教えもしねぇでよぉ」


 そんな状態の衛士を気にも留めず、村人達は田畑を耕している。


「まさかあの程度殴っただけでぽっくり逝っちまうとは…」

「あいつが山に行って帰ってこねぇ間に、うちの娘が猿に襲われかけたんだぞ、許せるかよ」


「しかし臭くてたまらんなぁ」

「仕方あるまい、獣が来たらどうする…まぁ、()()で帰ってくれりゃあいいが」

「死体に怯えてくれりゃぁ御の字だ」


 けらけらと笑い声をあげて、(くわ)を振り下ろす。彼らの背後には人の遺体が柱に括りつけられているというのに、なんと穏やかに日常を過ごしているのか。


(そうか、奴らにとって衛士は…)


 人ですら、なかったということか。赤い目に守られていたくせに、まるで獣除けの焚火くらいにしか考えてはいなかったのだ。よく働いて、作物を器用に育てる、都合の良い気味の悪い目を持つ…人に似たモノ。



 次に気づいた時には、木蓮は衛士の体を抱きしめていた。静かな村の入り口で、腐敗し始めて蛆の這う体を撫でながら、涙を流していた。


「衛士、…どうしてだ」


 優しい時間をくれる人。山の動物も植物も、決して与えてはくれない安息をくれる人。お前がいれば他に、何もいらないとさえ思えたのに。


「お前ほどに優しい人間の最後がこれなどと…私は受け止められないではないか」


 美しい嫁を取り、たくさん子をこさえるべきだった。優しい父の性格や器用さを継いだなら、村はきっともっと暖かな実りを広げていただろうに。

 周りの視線を見ぬように瞼を閉じる笑みではなく、柘榴石(ざくろいし)の光がこぼれる笑顔を見たかった。そんな情景なら、見つめているだけでも満足だっただろう。そんな血を繋ぐなら、何代先までも見守って行けたのに。


「衛士…もう一度」


 笑っておくれ。何度請い願っても、衛士は瞬き一つしなかった。固まった眼球はまるで埋め込まれた宝石のようで、美しさの向こう側で冷たい寂しさを揺らがせていた。


──お前は最初から最後まで、孤独だったというのか


 ゆらりと立ち上がり、徘徊するように村の中を進む。家の壁に寄せて積まれていた薪の上に衛士を横たわらせて、転がっていた石を赤く染まった両手で打ち付けて火をつけた。小さかった火が次第に広がって、衛士の体を包み込み始める。

 人間の弔い方など知らないけれど、かつて村人の誰かが死んだ時、こうしていたような気がした。

 木蓮はこのまま野ざらしにだけはしたくなかった。柱に括りつける村人と同じにだけはなりたくなくて、せめてちゃんとした人として、弔ってやりたかった。

 炎は家の壁や屋根に燃え移り、驚く速さで村を飲み込む。家屋の中には動かない人間たちが横たわっていたけれど、どうして逃げ出さないのだろうと思考の外側で考えていた。


(どこか遠くに行きたい)


 生まれてこの方、一度も抱いたことのない感情がむくむくと膨らみ始めるのを感じた。


(もうここにはいたくない)


 その感情は、決して許されるものではないと理解しているのに、今なら捕らわれることなく逃げ出せるような直感が、山とは反対方向に足を進めさせた。

 涙が止まらない。心臓が半分に千切り取られたように痛む。今すぐ山に戻らなければと思う反面、絶対に帰りたくない歯を食いしばり続けた。


「衛士…衛士…」


 進む方向に彼はいないのに。いるはずないのに。会いたくて仕方なかった。


 木蓮はただ、闇雲に走り続けた。








「そうやって、私は山を捨てたんだよ」



 にっこりとほほ笑む木蓮に、伊呂波は眉を寄せた。長い話の中に聞いた衛士という男を真似ているのか、無理に瞼を閉じるような笑い方をする。


「いろんな山を渡り歩いたんだ。すべての山に鬼がいて、麓に必ず赤目がいた…。それらに会うたび愛おしいのに、私の衛士ではないと気づいて憎くなる」


 もういない衛士を求めるはぐれ鬼は、いくつめかの山で気づく。山を捨てることが出来た理由、衛士を追い求め続ける感情の出どころ。

 木蓮が両手の人差し指をそれぞれ立てて、とん、と平行に触れ合わせた。


「きっと鬼と赤目は対なんだ。繁殖こそ必要ないけれど、互いが存在して初めて憂いが取れる。鬼は赤目を拒絶できないし、赤目は鬼を拒絶しない。片方を失えば均衡が揺らぐんだと思う」


 福と初めて会った日。あの柘榴石に射止められたあの瞬間、伊呂波は思わず息を呑んだことを今でもはっきり覚えている。普段なら脅しのひとつでもけしかけてさっさと追い返してしまうのに、山を無遠慮に登ってきた童に不愉快な気持ちをぶつけるだけで、危害を加えようなど考えもしなかった。相手が数年生きただけの小さな命だからだと、疑いもしなかった。


「知っているかい、赤鬼くん。君の赤目の子の村は特殊なんだよ。随分悪あがきしたのかな、他の村ではみんな、赤目は蔑まれて貧相に暮らしてる」


 しゃがんでいた脚を伸ばして立ち上がる。寝起きの様に体を伸ばして、木蓮は首をゴキゴキと鳴らした。


「他は衛士と同じだった。人間扱いもしてもらえずに、その日食う物にも困ってる。それらを見るうちに、私は気づいたんだよ」


 ああ、人間だ。

 衛士が死んだのは、赤目を蔑む人間のせいだ。

 衛士のような赤目の者が人間ではないというのなら、()()という生き物はこの大地に産まれた邪な存在に違いはないのだ。


「気づいてからはもう、憎くてね。憎くて、憎くて、憎くて憎くて憎くて」


 優しかった衛士。気が弱いと己を評したけれど、あまりにも優しすぎた衛士。そんな汚らわしい生き物に、ごみの様に捨てられた人。


「そんな人間はいらないなって。山の実りを吸い尽くす寄生虫は駆除しなくっちゃ」


 木蓮の瞳が再びにんまりと細くなる。

 伊呂波は木蓮から目を逸らした。彼は、かつての自分だ。天流を奪われ人を呪う、あの幼い鬼そのままだ。福と狛に出会わずに生きていたならきっと、目の前の鬼を赤く染めたそのままの姿だっただろう。


「でもそうすれば赤目も生まれなくなってしまうね。…いいよね、別に」


 もう私の衛士はいないのに、他の鬼の赤目が生まれ続けるのは不公平だ。もう私の衛士は笑えないのに、他の赤目が笑っているなんて許せない。

 遠くを見つめて震えていた木蓮が突然、こてんと首を傾げる。


「青い鬼を知ってる君なら、きっとわかってくれると期待してたのに」


 はぐれた鬼の言葉を、最後まで聞いてくれた青い鬼。その言葉はまるで菌のように彼を蝕んで、己や赤目の存在意義を考えてこじらせて、腐っていくと思っていた。そうしてしばらく放置していたら、あの村はそのうちに彼自身の矜持が潰してくれているんじゃないかと期待していたのに。


「彼は死んでいるし、…村は当たり前にそのままだった」


 ではその跡を継いだ赤い鬼こそは腐っていないだろうか。はぐれ鬼が与えた、ほんのひと匙の()()は、当たり前という名の輪廻に張り付いて脆くしてはいないだろうか。

 …期待とは裏腹に、行商人に扮した木蓮が見た赤鬼は、他の鬼とほとんど似た境遇で山を生かし続けていた。赤目はまるでかつての衛士のように山に通いながら、衛士には考えられなかったほど穏やかに村で暮らしている。

 蓋をして寝かせていた期間分、なんともがっかりしたものだ。西の一番近い村の赤目を摘み取って、さっさと消してしまおうとけしかけたけれど、困ったことにそれも赤鬼が阻止してしまったと言うではないか。


「結局、異端は私だけだ…」

「…異端だったさ」


 つまらなそうにガクガクと首を揺らす木蓮に、伊呂波はうつむいたまま答えた。


「お前ほどではなかったが、人間に何かを見出して…鬼の矜持とやらは捨てていた」


 長く生きた命の中で、最後の数十年をどう感じて生きていたのだろう。はぐれた白い鬼のあまりに突飛な言葉の数々を、伊呂波でさえ何故か納得できる気持ちで聞いていたのだから。青い、飄々としたあの鬼は、どう受け止めたのだろう。


『受け継ぐためにいる…俺たち鬼もまた、その輪廻の中にいる』


 鬼は、孤独だ。山で生き、動物の世話を焼いてもその群れには入れない。植物を手入れしても己に花を咲かせることもできない。不思議にも、疑問にも思ったことはない。そう生まれ、そう生きろと、魂に刻み込まれている。

 だけど、残酷だと思うことに、少々の虚しさもまた同時に持ち合わせているのだ。たった一人、山のために生きて、力尽きる間際に次を用意されて。他より強く、他より速くても、それが己を満たすこともないのに。


 花の根元に“次”を見つけた天流は、何を思ったのだ。己はもう用済みなのだと力を抜いてしまっただろうか。

 それとも──


「天流は、お前の言葉に希望を見出したのかもしれないな…」


 そうだ彼なら。きっと自分の為にあったはずの対の存在を知りたいと思うのだ。


 どこか嬉しそうに山を下りる、あの背中は。喜びそのものだったのだから。


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