26.溶けるほどに薄い
背中を向けて大きな岩に座ったまま、その人間は顔だけでこちらを振り返りほとんど閉じている細い目を向けてくる。長い白糸のような髪が、穏やかに笑う青白い顔をさらに血色悪く見せていた。
伊呂波は、ぞくぞくと音もなく背中を走る怖気に顔をしかめた。見知らぬ顔から流れてくる、よく見知った気配に違和感が拭えない。
「…何者だ」
「何者とは寂しいな」
不気味なほどに弧を描く口が、裂けるように開いては閉じた。低いようで、何とも艶のある声。目を細めて笑うから、瞳の色もわからない。
その男とも女ともつかない色白の者は、足元に積み上げていた荷物の向こうから藁で編まれた平たい笠を取り上げて、徐に美しい白糸の髪の上に乗せる。
「こうすればわかるかな」
目を隠すように頭にのせて、後ろ髪を一本にくくるように片手でまとめた。それは、数年前まで商いの為に山を往復していた行商人そのものだった。
「お前…」
「わたしを探していたんじゃない?」
少しだけ傘を持ち上げて細い眼をのぞかせる。深い瑠璃色の瞳が、面白そうに歪む瞼の隙間からこちらを見ていた。
伊呂波はこの数年、行商人が姿を現すのを待っていた。数年前に福の村を襲った野盗は遠い西の飢えた村人だったのだが、それをそそのかしたのがこの行商人であると確信していたからだ。
『この村には立ち入らないと聞いたのに…!』
『行商人が…あ、あんたのことや山の抜け方を教えてくれたんだ!』
飢えた人間というのは獣と同じく、視野が狭く躊躇がない。村と村を渡る行商人が脅迫されてあの村の現状を教えたのであれば責められたものではないとさえ考えていたが。
『行商人から貰った毒薬だ…鬼にも効くって話だぜ』
あの台詞を聞いた時点で、その甘い考えを捨てるに至る。ただ脅迫されたのであれば、うまくこの山に誘えばいいだけだ。そうすれば人間の信じる“鬼”は、無礼な侵入者を食いちぎると信じるだろう。けれど野盗は丁寧に鬼を攪乱し、まっすぐに東の村に攻め入った。万が一鬼と対峙した時の毒薬すらも万全にして、まさに命がけだったと思われる。それだけ飢えた人間が緻密な計画を立てられたとは考え難い。彼らをそそのかした、冷静な知能を持つ者がいる。それはもう、何度も出てくる名前が答えだと考えるのが定石だろう。問題は、鬼にも効くという毒薬と、その確信だ。
「お前は…何者だ」
最初から、伊呂波は同じことを聞いている。彼が見知らぬ顔をしていようと、決して無視のできない気配を垂れ流していようと、その正体がずっと探していた行商人であろうと、聞きたいことは一つだけだ。
「何故…あの村を襲わせた」
村の存在など、正直どうでもいいものだ。そこに福がいて、そこに狛が住んでいなければ、あの日燃え上がる屋根の数々を遠巻きに見つめていただろう。けれどもう、彼らと日々を共にし、己の煮えたぎる怒りを鎮めたのが幼い彼らであったことを認めてしまっては、見ないふりは出来なかった。無意識に冷や汗をかき、走る脚がかつてない程力強く土を蹴った…あの日、なぜ狛は死なねばならなかったのだ。その答えをもっともらしく吐いたなら、許せはしなくても区切りにはなるかもしれないと思った。
「人間が、嫌いだからだよ」
途端に、つまらなそうな顔をした行商人は、こびりつくような笑顔を消して被っていた笠を荷物の向こうに投げ落とした。笑顔でなくとも細い眼はまるで閉じているようだ。見下すようにくいと顎を上げて、割れた瞼の向こうからこちらを値踏みしてくる。
「君も…そうじゃないの?」
「好きではないが、わざわざ巣を潰すほどでもない」
ふぅん、と小さく呟いて、行商人が考えるように顎に手を置いた。長い白糸がさらりと揺れて、塒近くにできたばかりの細い滝を思い出した。…ああ、早く帰りたい、と素直に思う。
「そんな風に言われるとは思わなかったな…興覚めだ」
「お前の興に付き合うつもりはない」
つまり、暇つぶしのような感覚だというのだろうか。人を嫌い、排除したいから他人を差し向けた。双方潰しあえば上々、そうでなくてもどちらかが潰れてくれるなら良しとしようと、人間嫌いのままの自分だったなら、そう考えるのも容易かったかもしれない。
事実、あの日何人の人間が死んだだろう。野盗をすべて掃討してしまった伊呂波が言っていいことではないかもしれないが少なくとも、あの日潰えた命は遊び半分で奪っていいものではなかったと認識している。
それは獣も、草花も、水も、虫も、すべてにある命にだって言えるのだ。命は折り重なる奇跡から生まれ、大いなる犠牲で生かされる。そうして育まれ、また命を産み、最後にはどこかの命の糧となる。
元々伊呂波は、軽々しく仇討ちなどで奪っていい命があっていいとは思わなかった。何も生まない刈り取りは、それこそ己がずっと嫌っていた人間の『花瓶に生ける花』と同じだと思うから。天流を奪った人間たちのどの命も刈り取らなかったのは、己の中の花瓶に人間の首など活けたくはなかったからだ。
仇討ちなど決して好まなかったけれど。あの日、伊呂波はほとんど衝動的に野盗を殲滅してしまった。言い訳は嫌いだが、天流の時でさえ堪えた衝動を、狛の赤く染まった体を見て弾けさせてしまったのはひとえに、福の悲しむ顔をその日散々見てしまったからだ。これ以上あの小さな人間を泣かせるのかと、耐えられない気持ちが限界まで膨れてしまった。後悔こそしなかったが、己の信念を曲げてしまったことに、わずかばかりの呆れに似た気持ちを抱え続けていた。だからこそ、目の前の行商人を殺すことは、心底気が進まなかった。欲しかった答えは、もらえなかったけれど。
「二度とあの村に関わるな、この山からもさっさと出ていけ」
福は、どう思うだろうか。狛の仇ともいえるこの者を、みすみす見逃したと知れば悲しむだろうか…怒るだろうか。兄弟と言ってもいいほどに共に育った狛を奪った元凶ともいる者を、大した痛みも背負わせずにいることを納得しないだろうか。…けれど少なくとも今、行商人の首を千切り取ったとしても、笑わないことは確かだと思えた。
「優しいね、君は」
けれど行商人は、再びにこりと笑うだけで立ち上がる気配もない。白糸に指をくるくると絡めながら遊び始める始末だ。
「優しすぎるね。…鬼としては不十分だ」
行商人は着物の襟にひょろりとした長い指を差し込んで、緑色の弦を引っ張り出した。数枚花弁の散った濃い藤色の花がずるりと垂れて、持ち上げられる。
「この子のせいかな。…赤い目の、可愛らしいお嬢さん」
その花は、ここに来る直前まで確かに福の髪に刺さっていた。花瓶に挿したものより幾分小ぶりの、濃い紫。ざわりとした感覚が、足元から這い上がってくる。妙な気配に感じた怖気とは違う、肌をひっくり返してしまいそうなほどの痛みを伴う怒りだった。
「それを、どこで手に入れた」
怒気を含む伊呂波の声が、足元から風を起こして白糸を揺らす。細い眼がそれは愉快そうに歪に弧を描いて、彼の大きく開いた口が藤の花を嚙みちぎると同時に、伊呂波はほとんど無自覚に右手を行商人に伸ばしていた。遅れて音が追いつくほどに、人の目には止まらない速さで首を掴む。…はずだった。
右手は空を掴み、伸びた爪が手のひらに食い込む。岩の上で座っていたはずの行商人の姿は忽然と消えて、足元の荷物だけが取り残されていた。
「若いね、赤鬼くん」
背後から声がして振り返る。
そこにいたのは、鬼である伊呂波と同じほどの背丈の行商人。先ほどまで座っていたので気づかなかったが、こんなにも長身だっただろうか?この山を往復していたころはもっと体の幅ももっと小さかったように思う。いやそれよりも。
「なんだ、お前は…」
彼の額には不揃いの短い角が3本、肩やひじから似たような角が伸び、目の下には裂けたような赤い模様が走っている。
それはまさに鬼。人ならざる異形の者だった。




