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25.咲いた藤色

 立派に茂った藤の花を見上げながら、伊呂波は長いため息をついた。いつの間にか咲き始めたその花は、ここ数年で徐々にその勢力を広げてもはや一面を紫色の花で埋め尽くしている。長年この場所で根を下ろしていた木々には藤の蔦がきつく巻き付き食い込んでいて、このままではそう長くない間に枯れてしまうだろう。


 弱肉強食に対してもそうであるように、植物に対しても積極的に介入を好まない伊呂波は、どうしたものかと悩んでいた。風に乗ったか鳥の糞か、どこからか舞い降りた種が繁殖することは止められない運命であるし、今までになかったのだからとすぐさま根絶するのは自然の摂理に反すると考えている。これもこの山の移り変わりの一つであろうと思うけれど、繁殖力の強い藤の花に長年馴染んだ木々を根こそぎ奪われるのも寂しいものである。

 結論として、伊呂波はある程度の間引きをすることで己を納得させることにした。繁殖が広がっている外側を二回りほど引き抜いてみて、これでまだ広がる様なら更なる対処を考えねばならないが、それはまた来年の己の仕事だ。

 蔦の巻付きの甘い部分も丁寧に外していれば、気づいた頃には朝から始めたはずの作業は昼に差し掛かっている。一度塒に戻って福の様子を見に行こうと、間引いた草花を日当たりのいい場所に集めて、いくつか見事に咲いたままの房を拾い上げて、その場を後にした。


「おかえりなさい、伊呂波」


 焚火の上に小ぶりの鍋を置いて、昼食づくりに勤しんでいた福が振り返る。ぐつぐつと煮えるそれから漂う香りに、いつもの汁だなと思考の端で考えていた。


「あら、綺麗ね」


 伊呂波が持ち帰った藤の花を見つけて、福の声が高くなる。しっかりと花弁を開いた濃い紫色のそれに駈け寄って鼻を近づければ、ふわりと藤の香りが鼻をくすぐったのか、満足そうに笑っていた。


「人間は花を飾るのが好きだろう」


 以前、福にしつこくお願いされて山の端まではるばる取りに行った竹の花瓶に放り込む。花瓶と言っても竹の節で切り落としただけの筒のようなものなのだが、そこに湖の水を入れて洞窟入り口のくぼみに置いた。


「この山に藤の花って咲いていたのね」

「数年前から急に咲き始めたんだ…あんまり広がりすぎて少し間引いてきた」


 突然彩られた壁を福が嬉しそうに見上げている。ここら一帯にも様々な花は咲くけれど、どうやら彼女は濃い色の花を好むらしく、青に近い藤色を物珍し気に見つめていた。


「焦げるぞ」

「ああぁ!」


 ぐらぐらと鍋底から大きな気泡が昇ってきては弾けている。そのままでは汁は蒸発して中身は真っ黒に焦げてしまうことだろう。声を上げて太い棒に鍋を引っ掛けて取り上げる福を見つめながら、呆れたため息がこぼれた。

 数年前からこの(ねぐら)で暮らすようになった福は料理経験も浅く、何度も生煮えや闇の食物を生み出してきた。それまでは誰かが調理した物しか食べたことがなかったというのだから、随分と贅沢な生活だったのだろうと思う。山の実りについては子供の頃から遊びに入ってきていたこともあって多少知識は付いているが、生で食べるか乾燥させる以外の食べ方などほとんど知らなかった。野菜の切り方、米の焚き方なんてもってのほかで、思い出しながらの試行錯誤の中、何度指先を切り火傷を繰り返したことだろうか。鬼の伊呂波ももちろんそんな知識は皆無なのだから、教えてくれる者もいないまま飯時の悲劇は繰り返されたのだった。


「危ない、危ない」


 しかしそんな失敗も数年繰り返せばある程度は覚えるようで、集中力は欠如しがちではあれどそれなりに食べられるものができている。食事が不要の鬼と違って、食わねば生きていけないのだから必然なのかもしれない。木の実や肉だけでは栄養も偏るというものだ。


「ほら、伊呂波も座って!」

「へぇへぇ」


 何度食事は不要と言っても、福は伊呂波も食卓につくようにと聞かない。幼いころから「一緒に食べる」という行為にこだわりがあるようではあったし、かつては(こま)といつも食事を共にしていたのだから寂しさもあるのだろう。米と汁と焼いた鹿肉を乗せた器の並ぶ大きな葉の前に、どかりと座り込む。大した調味料もない薄味の料理ではあるけれど、闇の料理をガリガリかじらせられていたあの頃に比べれば、随分とましなものだ。


「いただきます」


 ぴんと背筋を伸ばして食べる所作はさすがに美しいもので、育ちの良さを感じさせるものだが、鬼の伊呂波が知る由もなく、ただ静かな食事の時間が流れるのだった。





 食後、使用済みの器を湖で洗い流す。水質を汚さぬようにある程度汚れを葉で拭い落してから、水を小さな器にちまちま移して洗っているのだが、それを煩わしいと感じる伊呂波にしてみればそのまま湖に突っ込んでもいいのではないかと思ったりもしている。しかし、中央に据えた岩がもはや天流だけの墓標ではなくなっているので、いつも喉元まで出かかっては言葉を飲み込んでいるのだ。


 ふと、福の結った髪に先ほどの藤の花が咲いていることに気づいた。いつの間にと壁に置いた花瓶を見上げるが、大して変わらぬ姿で藤が垂れていたので、花瓶に指す前に小さい房を取りこぼしていたのを気づかぬ間に拾い上げていたのかもしれない。

 今日福が身にまとっている藍色の着物によく映えて、なるほど人間が着飾るとはこういうことかと妙に納得した時だった。


 ──キィィッ


 遠くで、猿たちが鳴く声が響く。それは福の耳にも届いたようで、ぴくりと水に浸す手を止めて振り返った。かつて、狛を失った日の悲劇も獣の声から始まったので、音が聞こえてきそうなほどあからさまに血の気が引いていく。


「伊呂波…」

「ああ、大丈夫だ」


 猿の声は危機に瀕しているというよりも、仲間内の伝達のようだ。肩を竦めて今にも泣きだしそうな福の頭にぽん、と手を置いて、伊呂波は立ち上がった。


「数年来の探し物が見つかったようだ」


 不安そうな顔の福を安心させるように口角を上げる。


「少し見てくる…ここにいろよ」

「……うん」


 本心は、傍にいてほしいのだろうと思う。しかし今行かなければ、その探し物はまたしばらく見つからないかもしれない。この好機を、逃すわけにはいかなかった。


「その花、よく似合ってるな」

「…!」


 驚いたように福が顔を上げる。言ってやったとばかりに笑って、伊呂波が木々の隙間に消えて行った。


「…へへ」


 人を褒めるということをついに鬼が覚えたというのだろうか。頬を赤らめた福が、緩む口角を両手で隠した。






 猿の声を拾いながらたどり着いたのは、予想通りの山頂だった。そこには数年ぶりに見る供え物が、見慣れた形で置かれていた。それを冷たい眼で見降ろしてから、伊呂波はあたりを見渡した。求める者の姿はない、東へ下りた様子もない。…けれど、あってはならない強い気配が、この先から漂ってくる。


「まさかな…」


 伊呂波の眉間が皺を刻んだ。これは探していた者から感じ続けていた気配ではない。かつて、日々を共にし、慕っていた気配だ。青い髪を揺らして、小鬼からはあまりに大きく見えた背中をこちらに向けて、笑いながら振り返る、あの気配だ。


「天、流…?」


 そんなはずはないのに、思わず足が1歩前に出る。もう1歩、さらに1歩、どんどん早くなるその足並みが木々をかき分けた先の開けた草原に飛び出した頃、ひと際強い風がもてあそんでいたのは。



「やぁ、はじめまして」



 透けてしまいそうなほどに白い、見知らぬ者の長い髪だった。


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