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24.ひとくちが沁みる

 赤い目以上に異端で、忌み嫌われるべき鬼は、飄々と村の近くに姿を現してはこちらを遠目に眺めている。それまで山から出ることは滅多になかったのに、いつかを境にちらちらと視界の端をその青い髪色で染めていた。


 強運は尽きてしまったのだろうか。愛すべき娘は、青い鬼に心を向けてしまった。気づけば鬼と言葉を交わし、微笑み、惹かれているのは一目瞭然だった。村人にこそまだ気づかれてはいなかったけれど、お婆には(ましろ)の表情一つで手に取るようにわかってしまう。


『鬼に関わってはならん』


 何度窘めても、青い鬼がやってくれば、それを見つけた白が駆け寄っていく。


『彼はそんな悪い方ではないわ、お母さま』


 (おぞ)ましいことだった。赤い目であるだけで、あんなにも後ろ指を指されるというのに。鬼と懇意にしていることを村人が気づいてしまえば一体、何を言われることだろうか。聡明な娘が、あの日当て布だらけで歯を食いしばっていた自分と重なってしまう。それだけはどうしても、許せない。


 そんな心臓の深くから裂けてしまいそうな痛みを抱える寿(ことぶき)を弾けさせてしまうのは、数日と経たないある夕暮れの、2人が絡む様に寄り添い抱きしめあう姿だった。


 汚されてしまった。特別で、高潔で、何物にも代えがたい巫女が。聡明で、思慮深い自慢の娘が。痛みも怖気も一身に受け我が身顧みずに積み上げた己の思惑が。粉々に崩れ去り、底のない闇の中に落ちていく。


(誰の為に、ここまで…)


 怒りに似た感覚が足先から旋毛まで登った頃には、己のものなのか疑いたくなるほどの咆哮が胃の底から湧き上がっていた。


『鬼じゃああ!者どもおおぉ!』


 弾けるように離れる2人。青い髪は逃げ出し、美しい娘は涙を浮かべて懇願した。


『お母さま、違うの!男衆を止めて!』


 矢が風を切る音があっという間に遠ざかる合間にも娘の哀願は続いたが、寿は決して聞き入れなかった。鬼を受け入れてしまった娘は子を成すかもしれない…そうすれば孫はどこかに鬼の特徴を受け継いで、この血は迫害の一途を歩むことになるのだ。鬼を殺してしまわねば。宿しているのなら孫とて手にかけねばならない。


 すべては娘のため。いずれ産まれる孫や子孫のため。


 思惑通りに青い鬼は命を落とし、我が手から零れ落ちるように娘が狂った。思えばその時、自分の気も触れていたのかもしれない。空を見上げて微笑みかける娘を誰にも見せたくなくて、堅牢な座敷に閉じ込めた。自分だけが持つ鍵を握りしめて、泣かぬ夜はなかった。


 しかし、すでに村の要に祀り上げてしまっている“巫女”の不在は己が替わってやれても、世継ぎがいないことを囁き始め、その座を狙う村人も少なくはなかった。強運と力づくで敷いた道のりは、己の肩にずしりと重くのしかかった。


 白が子を身籠っていないと分かった頃には、寿の思考は間違いなく狂っていた。


『孫を産ませねば』


 もう一度、やり直さねば。


 空いた穴に砂を注ぐように、巫女の世継ぎの掟を作り足した。健康な男であれば所帯持ち関係なく対象として、子を成せばその家に抗議も上がらぬような褒美を与える。考えれば考えるほど、穴を埋めれば埋めるほど、まるで当て布だらけの衣のような滑稽な掟が出来上がっていく。

 怒りも、不安も、悲しみも、後悔も、脳を焦がす炎に薪をくべる様に、収まることなく渦を巻いた。


 子種の盛んな男を選んだ。気が触れて四六時中ぼんやりする白と言えど、抵抗されて怪我でも負わされては敵わない。男には青く染めた手拭いを頭に巻かせた。


『終始嬉しそうにしていたぜ』


 にやける男に何度か通わせて、いつしか白は女の赤子を宿し、その瞳の色は月日をかけて茶色く染まっていった。

 肩の力が抜けていくのを感じた。それと同時に、娘にした惨い仕打ちに血の気が引いていく。


『あの人の様に優しくおおらかにおなり』


 膨れる腹を撫でながら、嬉しそうに語り掛ける白。いつだって運の強さで切り抜いてきたけれど、眼の色だけでなくそちらも奪ってほしかったと、思わずにはいられなかった。



「お前は最後まで潔白だったのに…」



『鬼に子孫を残す力はない』


 赤い鬼が最後に残した真実。


 思えば、ただ抱き合っていただけだった。あの日、直前まで新しい装束の採寸を行っていたのだから、鬼に種をつけられるような時間などない。冷静に考えればわかる事実に、けれど狭くなっていた思考と視野はそれを許さなかった。


「言い訳にもならん…」


 例えば冷静であったとして、それでもやはり鬼を害する決断をしていただろうと思う。これ以上近づかれては、いずれ白を汚されると、結論付けていたことだろう。

 いつだって邪な視線を投げつけられていた寿にとって、澄んだ気持ちを互いに汲みあう関係など、想像さえ出来なかったのだ。血のにじむ道を歩み続けた己から生まれた白があまりに聡明で、驚くほどに。


 性格に血は関わらないのかもしれない。その娘から生まれた孫もまた、明朗快活だった。


「福…」


 最後に見た孫の顔は、どんなだっただろうか。はっきりと覚えているのは、己の母親の最後と自分の未来を重ねた絶望の赤い瞳。子を成すことを強要されて、あっさりと受け入れられまいと予想してはいたが、それをはるかに上回る拒絶に最初こそ驚いたものだ。


 どうやって知ったのだろう。そう言えば、改まって村の者の口を封じたことはなかった。幼子相手に残酷な現実を伝えるな等と、言わずともわかるだろうと慢心していた。誰かが伝えたのか、もしくは噂話が耳に入ってしまったのか。彼女の中には真実に近い確信がある、そういう眼をしていた。


「…ただ、お前を守りたかった」


 母親と同じように鬼に惹かれてしまったお前だけれど、白よりもずっと女子(おなご)らしからぬ明朗さがまた格別に愛しかった。老婆となった自分の余裕も、娘を通した経験も、彼女を多少自由にすることを許せた要因だろう。傍に(こま)がいたことも相まって、自由にさせすぎたのも否めないのだが、それでも真っ直ぐに育ってくれたと思う。

 だからこそ、今度こそ、己で選んだ男の子供を生み、最初から最後までまっとうに、裕福に、高潔なままでいてほしかった。それが何においても完璧な、女の幸せだと信じて疑わなかった。かつて自分が求めてやまなかった幸せだったからこそ、味わわせてやりたかった。


 一口つけた椀をそっと置いて、窓から見える空を見上げる。青く深い空はどこまでも広がって、己のちっぽけさを突き付けてくる。色などもう、ほとんどわからないのだけれど。


「幸せにしておるか…」


 村で最も良いものを着させて、村で最も新鮮な物を食べさせた。


「何か困ってはおらぬか…」


 大きな風呂を沸かしてやって、着替えも誰かに手伝わせた。


「腹は減っておらぬか…」


 夏は蚊帳を張り、冬は湯たんぽを差し入れてやった。


「寂しくはないか…」


 ぱた、と涙が(むしろ)に落ちる。1つ、2つと落ちた頃には、両の手で顔を覆うことしかできない。その手に何も、残ってなどいないのに。



『おばば』



 部屋に出た虫に驚いて泣く、小さな赤い目の童。抱き上げて歌ったあの日と同じ子守唄が、遠い家のどこかで響いている。いつしか眠りについたことに気づいても、しばらくその胸でゆっくりと揺らしていたのは、もう遠い昔のよう。



「どうか、…幸せになっておくれ…」


 それはきっと、この老婆の手元にはもう…存在し得ないものだろうから。


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