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23.一杯の椀に見る

寿(ことぶき)様…朝餉(あさげ)の準備ができました」


 襖を音もなく滑らせて、一人の女が膳を運んで入ってくる。


「おお、ありがとう」


 掠れた声でそれを迎えて、お婆はゆっくりと寝床から体を起こした。


 野盗に襲われて、もう5年は経つだろうか。焼かれた屋根を張り替え、命を落とした者たちの墓を建て、日常はもう元通りと言っても過言ではない。失った村人たちの役割を重ねて負う者たちは増えたが、しばらく囁かれた不満もお婆の一喝で消え去っている。


「わしの威厳も、もはやそう続くまいが…」


 汁茶碗を両手で包んで覗き込めば、水面の合間に映る老婆の顔。随分と老け込んだものだと自嘲が漏れた。


「上手くはいかぬものだ…」


 小さく丸めた背中が軋む。老い先短い自分に残ったものの少なさに、涙がにじんだ。



 お婆が幼子のころは、初潮を知らぬ穢れなき娘が巫女の職に就くべきものだと考えられていた。物心つく前の、言葉も拙いころから重い装束を着せられて、飾りの様に社に据えられる。そうしてなにもわからないままに職務を全うし、体の成長とともに初潮を迎え小さな童に代替わりをした。新しい巫女が選ばれて、昨日まで自分に向けられていた人々の恭しさは、手のひらを反すように突如軽蔑に変わった。

 寿は焦りに似た感情を覚えた。人々の羨望が欲しかったのではない。この村の誰も持つことのない、己の赤い色の目が異端だと囁かれる声に耐えられなかった。


『たまたま他に適齢の子供がいなかったのだ、そうでなければあんな女の娘を選ぶはずなかろう』


 己の強運が両親の悲運を凌駕して、食うに困らずにいられたことを知る。聞けば母もまた、寿を産むまでは赤い目であったという。人の瞳の色が鮮明な赤であるなど、他に見たことも聞いたこともない。ましてや出産で変色するとなっては、異端でなくてなんだというのだ。

 そんな女を娶りたがる心優しい父のような物好きがそう何人もいるわけではないし、いたとしてその人との間に産まれた子が同じ赤い目であったなら…?考えるだけで怖気(おぞけ)が走った。


『脈々と繋がれていくというのか…』


 あの侮蔑(ぶべつ)の視線を受ける運命の子を産めと言うのか。愛すべき我が子が嘲笑されるのを、父や母の様に目を逸らして耐えろと言うのか。

 それを人が絶望と呼ぶならまさしく、寿はそのどん底にいたと思う。きらびやかで重い白装束をはぎ取られ、ぼろぼろの当て布だらけの衣を纏う。そしてそれを指さして、村人は笑うのだ。


『見ろ、赤目の畜生だ』

『見事な落ちぶれ様だ』


 人として生まれたはずの自分が、犬畜生と笑われる。巫女として囃し立てられ高みを知ってしまったからこそ尚更、この人生が肥溜めの底にいるように思えて仕方がなかった。


『…ならば変えなくては』


 寒い冬の夜、とっぷりと暮れた夜の中で、赤い目から零した涙を食いしばる。私は父や母とは違う、この人生を、後に続く子の人生を諦めない。


 赤い目は、夜目がよく利いた。足音もなく見張りの目をいとも簡単に避けて通り、当時巫女よりずっと権力を持っていた初老の神主の眠る本殿傍の立派な家に忍び込む。

 巫女として仕えて数年の間、寿は幼いながらもよく理解していた。巫女上がりの女子(おなご)にいの一番に手を付けるほどに、この神主が色に狂っていることを。群を抜いた美しさを持てど、さすがに赤目の寿に手を付けることは憚られたようではあったが、成長に伴った膨らみを愉快そうに眺めていた眼差しを忘れない。同世代の女子のいない今、神主の欲が満たさていないことも容易に想像がつく。


『…お前は!』


 熟睡の中で(まさぐ)られた感覚を覚えて飛び起きた神主。ほとんど着るものもない状態の寿が己の上に跨っていて、果たして彼が寝起きでなくとも欲望を抑えることができただろうか。先代の巫女との情事に溺れる障子の隙間の景色そのままに、見様見真似で迫りさえすれば、あとは獣のような影に身を任せるだけだった。


 寿は、己の運の強さを知っていた。体中の痛みとそこに這う怖気さえ耐え抜けば、あとは面白いほどに思う通りになった。夜明けに家に戻る姿をわざと村人に目撃され、ただその一度で子を身籠り、神主は彼女を(めと)る他なくなった。


 そうして高みに再び返り咲き、数年も経てば神主は寿命を迎えた。その頃には己の周りを女で固め、男の地位を発言権もほとんどない程度に落としてやった。それまで偉そうにしていた男たちを見下すために、面白いほどに女たちは彼女に媚びへつらう様になる。それまで指をさして赤い目を嘲笑していた者たちも一人残らずだ。地位から得られる甘い蜜は、それほどに人を狂わせた。


 生まれた娘には(ましろ)と名付けた。己の色を吸ったのか、輝かしい柘榴石(ざくろいし)は寿から白へと受け継がれていた。優しく思慮深い、自慢の娘だった。この子の為に、己の命を削ることを厭わなかった。彼女の代わりに巫女の職務を担い、体がしっかり育った初潮を迎えるころを期として巫女に就かせた。

 赤い目が特別であり、赤い目だからこそ巫女であるべきだと、村の掟を挿げ替えて行った。男の上に立てる女たちも、面倒な儀式や責任を負うことがなくなった男たちも、不満は腹にため込みつつではあっただろうが、逆らう者はいなかった。


 順調だった。


 青い鬼が現れるまでは。


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