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22.静かに降り積もる安穏

 くぐもったゴツ、という音とともに水面が揺れる。伊呂波(いろは)が両手を叩いて見下ろす先には、湖を渡るための足場が点々と出来ていた。


「…こんなもんか」

「あ、いい感じ!ありがとう伊呂波」


 声のする方を振り返ると、花と木の実の入った大きなザルを抱えた福が立っていた。数年前まで身にまとっていた白装束ではなく、柄物の着物に伊呂波が適当に作った羽織を肩にかけているせいか随分と大人びて見える。事実、その齢はもう二十を超えているのだが。


「滑って落っこちるなよ」

「もう、本当にいつまでも子ども扱い」


 ぎろりと睨み上げる福の視線など意にも介さず、伊呂波が今しがた落とした大きな岩を右手でぐいと揺らしてみる。人ひとりが乗っても揺らがない大きさと形状を選んだつもりだが、思ったよりずっと深い湖のせいで表面がほんの少し顔を出すだけになってしまった。

 中央の岩は天流(あまる)だけではなく、福の母親と(こま)の墓標となっていた。その下に誰の骨も埋まっていなくとも、福は毎年二人の命日には花や供え物を欠かさない。


 湖はあれからも勢いを衰えさせることなく、絶壁側はとうとう細い滝になってしまった。ちょろちょろと落ちては途中で途絶えていた水はとうとう下の地面に辿り着き、白糸のように流れ続けている。


「今年も豆を貰いにはいかないの?」

「必要ない」


 村が野盗に襲われた次の年から、伊呂波は村を訪れることをやめてしまった。村人たちにももう豆は不要であることは伝えているが、それはなにも被害のあった村人たちの負担軽減などというためではない。


 伊呂波にとってその行為そのものが、必要なくなったのだ。

 天流を失ったあの日から、衝動的に始めた慣習だった。怒りを動力に、ただただ恐怖心を煽り、思い知らせたかったのだ。天流の命の重みを。村人たちの業の深さを。

 意味があったかなんてわからない。わからないながらも、たとえばそうしていなかった日々はきっと、怒りのやり場もわからずに荒んでいくだけだったように思える。少なくとも、現状よりずっと侘しい日々だっただろう。何故なら、豆を奪い続けた結果が、今日だから。


 狛の死を眼前に突き付けられたあの瞬間に、痛いほどに思い知らされた。福と狛のいる日常が、どれほど己を包み込んでいたか。あれほどに恐れていた“人間に対する怒りの消失”を、音もなく受け止めていた。狛の損失を、天流の時と同等に受け止めながら、自分はあの日絶望した少年の鬼とはもう違うのだと痛感した。


(あの絶望の代償を、人間に求める鬼はもういない)


 託された想いを、悲しみの中で捨ててしまう少年鬼はもういない。進まねばならない。傷ついた、あの日の鬼によく似た少女とともに。白い大きな(いぬ)の想いを継いで。


「あ…!」


 突如、吹き抜けた風が福の肩にかかっていた羽織を奪い取る。とっさに掴もうと左手を動かすが、うまく持ち上がることができないまま羽織は空に吸い込まれていった。


「やっぱり…まだ痛むの?」

「…いや、痺れが残ってるだけだ」


 数年前に負った傷は跡も残らずに消えている。元々自己治癒能力の高い鬼は多少の傷や毒を引きずらないのだが、あの刃に塗られていたものはどういうわけか、しつこく左腕の自由を奪っていた。とはいえとっさの行動に疎いだけで、力も入るようになったし生活に支障はない。


「取ってくる…あまり遠くに出歩くなよ」

「うん、ありがとう」


 笑顔で見送る福に背を向けて、羽織の消えて行った方向へと歩き出した。


 少女のころに比べれば、福も随分素直になったと思う。未だ子ども扱いには眉根を寄せて反論するが、声を荒げることはなくなった。最初こそ、その反応に違和感を覚えていた伊呂波だが、人の子の成長とみれば理解は早い。この頃はすっかり大人の落ち着いた会話が繰り返されている。

 狛を失ったばかりの頃は、空元気を振り回して、(ねぐら)周辺に残る思い出を見つけては泣きじゃくっていたけれど、今はもうそんなそぶりはほとんどない。時間は薬とはよく言ったものだ。

 どうなることかと思っていた山での生活も、思いのほか安穏に続いている。人の匂いを嗅ぎつけて近づく獣たちは、何故か不思議と福を見つめるだけで毒気を抜かれたように帰っていくのだ。そんな状況を何度か目撃するうちに、多少彼女から離れても問題ないと判断できるようになった。


 風の道を読みながら進んでみれば、思っていたよりも遠くに羽織は飛ばされていた。くたびれたように木に引っかかったうぐいす色のそれを丁寧に外しながらふと、獣道の先に見慣れた色を見つける。


「ああ、もうそんな時期か…」


 木材を打ち付けて作られた簡易な長机。その上に数枚の女物の着物と、丁寧に編み込まれて重ねられた(むしろ)、そして贅沢に綿を詰められた布団。懐紙に包まれた餅と、砂糖や塩や米。そして樽一杯の大豆だった。見上げれば細い棒を二本両端に立てて、括った紐にかつて見慣れた紙垂(しで)がぶら下がっている。


 野盗を掃討してから毎月、欠かさず供え物の様に参道の入り口に祀られるものだ。恩を売りたくてした行為ではないし、最初こそそれらに手を付けずにいたけれど。秋が来て、冬が訪れようとする頃には、大豆以外の物をすべて回収するようにした。山の暮らしに慣れた鬼の自分とは違い、人である福にはどうしても必要だったからだ。


「…またそんなに拾って来たの?」


 福の中で、ひと月ごとに伊呂波が両手に抱えて帰ってくるそれは、たまたま山中に落ちていたのを拾い集めた物、ということになっている。蓆や食料がそんな綺麗な状態で落ちているわけでは当然ないのだけれど、福はそれ以上言及しないし、伊呂波も訂正することはない。

 最初の年…冬が近づいて、火を焚いていても冷え込む洞窟の中で、とうとう布団に手を伸ばした時の福は、何とも微妙な顔をしていたのを覚えている。使いたくはないが、使わねばならない。使わねばならないが、使いたくない。としばらく逡巡しては、結局勢いだけで布団に潜り込んだ。しばらくしてぐすぐすと鼻を鳴らしていたのは、寒さからだと言い張っていたけれど、伊呂波はやはり肯定も否定もしなかった。


「餅、久々にお砂糖とお醤油で食べようか」

「…おう」


 この供物が、何を意味するのか、伊呂波は未だにはっきりとしないでいる。村を救った感謝なのか、巫女の無事を願う捧げものなのか。もしくは。


(孫を想う、祖母の慈愛か)


 小さく、腰の曲がった白髪の老婆を思い出す。運と気の強いあの老婆は、きっと今もあの村で生きているのだろう。この供物が彼女の采配であることは、何故か強く確信できた。何度大豆だけ残しておいても、次の月には樽一杯に置かれているのが、彼女の意地のように思えて仕方がないからだ。


「伊呂波―、火起こしてー」

「鬼を顎で使うのはお前くらいだろうな」


 私はお餅切ってるの!と久々に子供の様に喚く福を無視して、伊呂波は火打石を拾い上げた。


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