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21.はじめての聞き慣れた声

 最後の一人の頭がドンと音を立てて地面に転がる。首を握りつぶした右手を開けば、髪と同じ色の液体がぬるりと滴り落ちた。呆気ないものだと思う。いつか人を手にかけることがあるのなら、躊躇の一つでもするだろうかと想像していたが、そんなことは欠片もなかった。やはり己は鬼で、人のそれとは違うのだなぁとどこか他人事のように考えていた。


「…ひっ」


 振り向けば、一人残らず腰を抜かした状態で村人たちがこちらを見上げている。それもそうだろう、これまで何年と豆さえやれば大人しいと思っていた鬼が、目の前で人間を軽々と千切っていくのだから。自分たちのこれまでの態度があまりに恐れ知らずであったことを痛感せざるを得ないはずである。


「狛を手厚く弔ってやってくれ。…あいつにあんな痛々しい姿は見せられん」


 ちらりと白い大きな(いぬ)を見る。疲れたように眠る(こま)は、今にも大きなあくびをかみ殺して「終わった?」などと頭を上げそうなのに、その毛を風が撫でるだけで動くことはない。

 彼の首に下がっている巨大な鈴とそれを繋いでいた綱を持ち上げる。福が儀式に出るようになってから外されることのなかった鈴は、へこんで中の玉が動かないようになっていた。以前、動くたびにガラガラと鳴って五月蠅いと、狛が引きちぎって岩に何度も転がしては音が鳴らなくなるまでぶつけていたのを思い出す。


「これは貰っていく。…もう豆も不要だ」


 この村の者に、こんなに長く声をかけたことはない。かつて、天流(あまる)を失ったあの日くらいだろうか。そしてその伊呂波(いろは)に言葉を返すのは、やはり同じ声の主だった。


「狛…それは狛なのか!」


 振り返れば、杖をついた盲いた老婆が、一人の女に支えられながら震えている。この状況でも生き残るのかと、伊呂波は彼女の運の強さに関心さえしてしまったほどだ。


「あの子は生きておるのか…福は、どこに…」

「…生きている…狛が守った」


 おお、と声にならぬ声を上げて、老婆が崩れ落ちる。狛がここで命を終えたのなら、そのそばにいるはずの福に心を配るのは当然だろうが、彼女のそれは孫に対する心配だろうか、それとも巫女の血を憂うものだろうか。


「今は山に匿っている」

「返してくだされ…あの子はこの村の宝じゃ…」


「あいつが望むならそうしよう」


 暗に、望まないならば帰っては来ないと含めている。最近の帰りたがらない態度だけではない、自分でもわからない謎の根拠が、『彼女は望まないだろう』と囁いていた。


「お願いいたします!(つがい)が必要であれば他に…」

「番など必要ない」


 何を勘違いしているのか、懇願するように老婆が叫ぶ。残り少なくなった村人から、誰かを人身御供にするとでも言いたいのだろうか。


「山が鬼を産むのだ、鬼に子孫を残す力はない…あいつが選びたい方を選ぶだけだ」


 それだけを言って、伊呂波は村を出た。愕然として膝から崩れ落ちたまま放心する老婆は、他の村人に何度声をかけられても返事をしなかった。





 (ねぐら)はしんと静まり返っていた。焚くように言っていた火は、出る前と同じ姿のまま沈黙している。そう深くもない洞窟を進めば、一番奥の壁に背を預けて、膝を抱えて顔を埋める福がいた。伊呂波の足の下で石が小さく鳴って割れる。その音が耳に届いたのか、はっと顔を上げた。


「伊呂波…!」


 強く逞しい鬼とはいえ傷を負って出て行った友人の無事を確かめて、思わずやんわりと口角が上がる。けれどその顔がいつも以上に無表情で、どうしたのかと視線が泳いだ。左腕は痺れが強いのか震えていて、傷がまだ血を流している。何の返り血なのか考えたくもないが、全身がそれを浴びて赤黒くないところが少ないとさえ思う。

 福の視線が小さく左右に動いて、不意に、彼が右手で握る見慣れた鈴で止まった。


「…狛」


 しかし、彼を象徴する鈴以外、白い毛並みがどこにもいない。人懐こい笑みを浮かべる愛らしい顔がない。自分を乗せてどこへでも走ってくれる、逞しい脚がない。


「…狛は?」

「…戻った時にはもう」

「狛は!?」


 顔面を蒼白にして、福が叫ぶ。立ち上がろうとして足をもつれさせて、転がりながらもなんとか伊呂波の足元に辿り着いて、福は叫ぶ。


「迎えに行くって、言った!!」


 涙も鼻水も、気にもならないまま。伊呂波の衣服を掴んで揺さぶりながら、福は叫ぶ。


「狛はどこ!?伊呂波は強いんでしょ!?速いんでしょ!」


 じっと、無表情で福を見つめる伊呂波に、福は「どこ…」と小さく問いかけてから、ぺたり、と両手を地面に落とした。綱からすり抜けるように鈴が落ちて、ガランと洞窟内を響かせる。一部をへこませた歪な鈴が、一回転だけして福の目の前で止まった。


 狛が、ただいま、と笑った気がした。


「…うわぁあああ!!」


 その鈴を抱きしめるように、福が覆いかぶさって声を上げる。一人で待つ間にも、消し去ってしまいたい同じ結末の予感は膨れ上がって、何度だってそれだけは違う、駄目だと泣いたのに。枯れることのない涙が、感情を壊していく。


 震え続ける小さな肩を見つめる伊呂波は、静かに瞼を伏せた。

 あの日…天流を失ったあの日。同じようにしていた己の姿と重ねて、もしもあの時、気の許せる誰かが傍にいたとしたら、どうしてほしかっただろうか。何を言ってほしかっただろうか。何度考え、想像しても、やはりあの時の自分には届かなかった気がして、ただただ足元で童のように泣き続ける少女を見つめるしかできずにいた。


 たとえ、どんなに大切な存在が奪われても、陽は上り世界は照らされる。ここに悲しみの底で泣く者があっても、何も知らない者たちが日常を過ごして、或る者は笑い、或る者は泣く日々が繰り返される。まるで、小さな存在を気に留める暇などないのだと言わんばかりに、世界は日常を転がり続けるのだ。


 どんなに辛く悲しくとも、生きねばならないことを伊呂波は知っている。守られ、はぐくまれたこの命を、懸命に生きねばならないのだ。ここでひざを折り、もう駄目だと投げ出す命では、最後まで守り抜いた狛があまりに哀れではないか。



「…福」



 聞き慣れた声が紡ぐ、聞き慣れたはずの名前に、思わず息を呑む。泣きつかれ、抱きしめた鈴に縋るようにしてうつむいていた福は、ゆっくりと顔を上げた。足先、腹、胸を辿って、伊呂波と視線が絡む。いつもの、無表情の中の力強い黄玉(おうぎょく)がこちらを射抜いていた。


 初めて、名前を呼ばれた、と間をおいて理解する。いつもの低い声が、その二文字を奏でたことは、終ぞなかったのに。


「この山で、生きるか」



 ずっと、正直に言えればいいのにと思っていた。村人たちの視線も、お婆の思惑も、村に帰りたくない理由を、ずっと言いたかった。けれど言ってしまえば、優しい伊呂波はそんな境遇に同情して、不本意ながら承諾してくれるような気がした。

 ただ一方的にこの塒に住み着いて、彼に我慢を強いるのは嫌だった。対等でいたかった。こちらがいつでも伊呂波を求めているように。

 あなたの何かになりたかった。



「共に生きるか」


 月あかりを背に、血に濡れた鬼がこちらを見下ろしている。普通の人はこの状況に恐れるものなのだろうか、などと福は思考のどこかで薄っすらそんなことを考えていた。体の節々から突出する角が、その輪郭を白く輝かせていて、なんて神々しいんだろう。


「…うん」


 これまでずっと、夜の山の時間を拒まれていたのにいいのだろうか、など、考えるにも至らなかった。

 許されるのならば。赤い鬼の、あなたが許してくれるのなら。


「ここで、生きていきたい」


 あなたと。




 いつの間にか、伊呂波が傍にあった茶器を手に取っていて、福の目線に合わせてしゃがみ込む。そっと蓋を開けると、1つの光がふわりと飛び上がった。ふわふわと蛇行しながら飛ぶ緑色の光を追いかけて、1つ、また1つと飛び上がる。

 気づけば洞窟の中が星空を彩っていた。


 いつの日か、『蛍が見たい』などと適当に口にしたわがままを叶えようとしてくれた。本心を口にしない自分を辛抱強く待ってくれた。狛を失ってやり場のない怒りを黙って受け止めてくれた。本当は…あなたこそ悔しかっただろうに。




「ありがとう…伊呂波」



 それでも今は、かつて母に届けられなかった言葉よりもずっと、そう伝えたくて仕方がなかった。




 泣き腫らした目が乾くころ、湖が朝日を小さく反射した。持ち主を失った歪な鈴がその中央の岩に添えられるようになったのは、あと少しだけ太陽が傾いてから。


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